第15話 嵐の夜

 大きな揺れと耳をつんざく激しい雷鳴に、ルチアは思わずびくりと肩を跳ね上げる。恐る恐る外をのぞくと、一筋の黄金色の光が夜空から降り注いでいるのが見えた。

 寝台に腰掛けていた体は揺れのせいで振り落とそうされそうになり、ルチアは慌ててベッド柵に手を置いた。

「想像以上だな」

 ようやく微睡みから目覚めたらしいバハルが、あくびをしながらのそりと寝台から起き上がる。

 見張り番をロジェと交代してそう時間は経っていない。しかし彼は外を一瞥すると、赤銅色の髪を乱暴な手つきでかき上げ立ち上がった。

「浸水したら桶で水を外に掻き出す、お前も手伝え。海の外へ放り出されるなよ」

「わかりました」

 嵐で一番怖いのは落雷ではなく、容赦なく襲う高波による浸水や転覆だ。大波によって船が損傷し、そこから水が入り込む危険性が高い。

「行くぞ」

 指示をするなり、返事も聞かずバハルは扉を蹴飛ばして外に出て行った。慌ててルチアもそのあとを追う。

 甲板に続く階段を駆け上ると、轟々とけたたましい風の音がルチアの耳を襲う。短くなった髪が風に舞ってルチアの視界を遮ろうとした。滴り落ちる雨が急激に体温を奪い取るように体にまとい、雨の冷たさにぶるりと体を震わせる。

 甲板では意外にも手慣れた様子で、この豪雨に慌てふためく様子なく落ち着き払った海賊たちの姿が見られた。細かい動作で舵輪を左右に動かすロジェの視線は、先方に控える大波の動きを読むかのように鋭い。

「おいロジェ、状況は」

「良く眠っていたようで、船長。……でも、これくらいなら平気さ」

 ロジェは不敵な笑みを浮かべるが、真剣な目つきは変わらなかった。

 ルチアが視線を落とすと、足下にわずかばかり水かさが増しているのに気付く。

「あの! 水が!」

「ん? ああ、その辺の桶使え」

 適当なバハルの指示を聞いた年かさの海賊が、ルチアに向かって桶を放り投げる。慌ててそれを空中で受け取り、甲板にたまる水をかき出し海へと返す。

「おまえら、落ちんなよ!」

「そんなヘマすんのはルカぐらいっすよ!」

 そうだそうだ、と揶揄する声が方々から甲板に響き渡る。ルチアは頬を膨らませながらも黙って水を掻き出した。

(私だってこれくらい出来るのに)

 客人でなく、この船の一員として過ごす以上は自分に出来ることはしたい。彼らのように船を扱う知識などないが、桶を振るうくらいならルチアにも手伝える。

「よし。今回一番働いたやつにブランデーを一本くれてやる!」

「お頭、男に二言はねえな!?」

「俺が嘘をついたことがあるか? ケレベルからくすねたやつだから味は保証するぞ!」

 報酬を提示された途端に男たちは急にやる気を見せ、あくせくと働き出す。現金な海賊たちにルチアは呆れ顔になるが、意気揚々の彼らを見ていいる内におのずと顔がほころぶ。

 心配しなくても、彼らならきっとこの嵐も切り抜けられる。

「この程度で弱音を吐くやつは、この船にはいらねえぞ!」

 バハルの言葉に男たちは雄叫びで返事をした。

 痛みを覚えるほど冷たい水が足下から体を蝕み、体温を奪い取る。それでも、ルチアも彼らと同じく手を休めることはなかった。


「へっくしょん!」

 先ほどよりも落ち着いた風の音を聞きながら、ルチアは勢いよくくしゃみをする。

 船長室の中は甲板に比べれば風も遮られるが、それだけでは体は温まらない。がたがたと自然に揺れてしまう体を抱きしめ、毛布を体に巻き付ける。船上に暖炉などあるはずもなく、寒さのあまり目尻に涙が浮かんだ。

「ほらよ。これでも飲め、多少は温かくなる」

 一仕事終えたバハルに差し出されたカップを受け取ると、つんとしたアルコールの香りが鼻をかすめた。

「これ、お酒ですか?」

「言っただろ、一番働いたやつにブランデーをやるってな。とりあえず今回は努力賞ってことで一杯だけだがな」

 それはルチアの働きぶりを評価してくれたということだ。喜色の面を浮かべるが、昔ワインを舐めただけで酔っ払ったルチアは、ブランデーなど一度も口にしたことがない。けれど、アルコールが体を温める効能があることは知っていた。

「……いただきます」

 恐る恐るカップの中を一口、舐めるように含む。瞬間、体の奥底が燃えて沸騰するような感覚を味わう。くらりと目眩がして、赤く染まった目元を押さえる。

「うう。もう良いですぅ」

 ふらふらした手つきでカップを返すと、バハルが苦笑してそれを受け取った。カップに残ったブランデーを一気にあおり、満足げに唇を舐めた。

「弱いなら先に言えよ。無理して飲むもんじゃない」

「でも暖かくなくなりましたよお。それに、認めてくれたんだなあって嬉しくって」

「……酔っ払って思考能力が低下してんだ、馬鹿」

 寝台に押さえつけられ、布団を頭までかぶせられる。抵抗しようとしても、酒の回った体は言うことを聞かず、ルチアは中からうなり声を上げた。

「ひどいですよお」

「嵐も過ぎた。まったく、酔っ払いは大人しく寝てろ」

 寝台の端に腰掛けたバハルに、まるで子どもを寝かしつけるような優しい手つきで毛布越しに頭を撫でられる。それが小さい頃、姉にされている気分にさせられルチアは枕に顔を伏せ嗚咽を漏らす。

「ううう。バハルさんが優しい……」

「泣くんじゃねえよ。くそ、泣き上戸か」

 今度は乱暴に頭をポンポンと叩かれるが、懐かしい感覚のあまりに涙腺は緩む一方だ。

 すすり泣く彼女の上に、バハルのため息が落ちる。

「なら泣け。思い切り泣いたら、少しはすっきりするだろ。子どもは泣くのが仕事だ」

「赤ちゃんじゃないんですから……」

 否定するが、今の自分は手に負えない子どもみたいだと分かっていた。それでも、ルチアは彼の優しい手のひらにすがりつくように這いずった。そして、酔いに任せて勢いよくバハルの腰に抱きつく。

「バハルさぁん」

「お、おい」

 酒のせいで朦朧とする意識の中、毛布越しにバハルの熱を感じる。ぎゅっと強く抱きつくと、彼は嘆息しながらも大人しく為すがままにされていた。

「好きなだけ泣け。……人間、どうしたって泣きたいときくらいあんだろ」

 言い聞かせるように落ちついた声色が、子守歌のようにルチアの耳を支配する。

 甘えるように己の胸の中で泣き続ける少女が眠りにつくまで、バハルは静かに彼女の背中をなで続ける。次第に嗚咽は消えていき、代わりにすうと寝息を立てる音が聞こえてくる。

 バハルは苦笑し、少女の身体を離すと寝台に横たえさせる。昔、夜泣きがひどいミアに対してこうして付き添ったことを思い出し知らず微笑が浮かぶ

 当時バハルはコーネリアス家の商船を動かすため奴隷として使われていた。クーデターを起こす日を今か今かと待ち続け――たまたまその時に乗船したのが、ミアやシャットだった。しかし、あの時救えた子どもたちの命は数少ない。

「こいつは、どっちに転がるだろうな」

 寝台を占領する彼女を横にずらそうと両脇を抱える。

 ふに。

 ありえない感触を手のひらに感じ、バハルは一瞬で硬直する。

 今の覚えのある感触はなんだ。

 そう自分に問いかけ、「ありえないだろ」と呟く。

 あどけない顔には、涙が伝った跡がまだ残っていた。プラチナブロンドの前髪をかき分け、じっとその顔を見つめたあと意を決して少女の服の前ボタンを二つ外した。

「…………」

 あらわになった白い首元。そしてその下にあるのは――。

「おいおい。マジか……」

 貧相な、とルチアが聞いたら怒り狂うような感想を抱く。少女を起こさないよう、器用に片手でボタンをしめた。

「いや、まあ言われてみれば納得なんだが」

 そんな独り言をつぶやきながら溜息をついた。

 力仕事のおかげで今こそ多少の筋肉はついたシャットっだったが、初めて見た時は少女のようなに細い体をしていた。さらに彼女の姉は、どちらかといえば豊満な体つきをした美女だった。それ故に、バハルは先入観からルチアのこと疑ったことはなかった。言葉遣いが丁寧なのも、階級が良いからだと思い込んでいた。

「ってか女が一人旅とかすると思うかよ……」

 エレーヌですら、危険が伴うような旅の時は信頼できる者を供にしていた。マービリオンの国情を考えれば当たり前だ。

 思わず頭を抱え込み、しばらくのあいだ逡巡しつつルチアの寝顔を盗み見た。

「信じらんねえ」

 少女の身でありながら、姉を慕い家を飛び出したのは相応の覚悟が必要だろう。それを乗り越え、今彼女はここにいる。

「まったく、姉妹揃って本当にどうかしてる」

 呆れると同時に、どうしてか笑いがこみ上げてくる。

 少女の目尻からこぼれ落ちた一筋の雫を指ですくい、バハルは睡魔に任せて寝台に身を投げた。




 寝台の上でずきずきと痛む頭を抱え、ルチアはなかば呆然としながら昨夜の出来事を振り返る。

(ええと、私お酒を飲んで泣いて……あれ、そのあとどうしたっけ?)

 ブランデーを口に含んだあと、箍が外れたように泣きわめいたことは覚えている。けれど、そこから眠りについた記憶がない。

(あああ。もう絶対お酒は飲まない……)

 二日酔いのせいか、それとも恥ずかしげもなく泣いた自分の姿を思い出したせいか、ルチアの頭痛は増していく。

 ちらりと隣に目を向ければ、静かに寝息をたてて眠る青年の姿がある。嘘のように静まりかえった空から、まばゆい日の光が部屋に差し込みバハルの顔を照らしていた。

 改めて顔を見ると、異国的な褐色の肌と彫りの深い目鼻立ちは整っていると言えた。印象的な榛色の瞳が隠されているのに、なぜか寂しさを覚える。

 彼に抱いていた恐怖感はすでに失われ、信頼感を覚えつつあることにルチアは気付いていた。けれどその優しさは、エレーヌの存在があってこそのものだ。自分だけに向けられたものでない。

「……なんでこんなに痛いんだろう」

 胸の奥がちくりと痛み、ルチアは右掌で心臓の位置に触れる。どくどくと脈打つ鼓動の裏のあたりが、どうしようもなく痛く思えて仕方ない。

 なんとなく隣で眠る青年へ手を伸ばす。指先がバハルの肩に触れる寸前、彼の目が見開かれていることに気づいた。細い手首を捕まれ、ルチアは硬直する。

「なにしてんだ?」

「あ……。起きていたんですか?」

 捕まれた腕はあっさり離され、バハルは寝起きの髪をかき上げた。

「気配を感じただけだ。お前、昨日のこと覚えてんのか?」

「えっ!? あの、その、ごめんなさい!」

 気恥ずかしさから謝罪を叫び、飛び上がるようにルチアは寝台から降りると扉の外へと消えていった。

 脱兎のごとく船長室から出て行くルチアの後ろ姿をバハルがぼんやりと眺めた。

「……まったく、手のかかる女だな」

 その呟きは、すでに遠くへ向かうルチアの耳には聞こえていなかった。

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