三章 海原にたゆたうもの
第14話 とある少女の回想
「この出来損ないが! 何度言えば分かるんだ!?」
殴られた拍子に冷たい木の床に投げ出され肩を打ち付ける。ゆらりと少女は半身を起こし赤く腫れた頬を押さえるが、その目に彼女の主の姿は映ることはない。それがさらに彼を苛立たせているのも分かっていた。
「まったく、何度お客様を怒らせれば分かるんだ。もう良い! 大人しく掃除でもしてろ!」
鼻息も荒く横たえた体に箒を投げつけられ、少女は箒を手にとった。
「そうだそうだ。言うのを忘れてたが、今度ゼノで奴隷市場があるんだ。折角だからお前を売ってくれるように頼んでおいた。出立は明後日、せいぜい母親の尻ぬぐいをするんだな」
いやらしい目つきで男は言うが、少女は無言のままだった。舌打ちし、唾を吐き捨ててその場を立ち去る主人の背を感慨もなく見送る。
こうして殴られるのは何度目だろうか。そろそろお前も客を取る年令になったと言われてから、もう毎日だ。
自分を置いて逃げた母に瓜二つという美貌のおかげで、少女はこの娼館で一番美しかった。ゆえに館の主人の期待値も高かったわけだが、少女に愛想というものはなく初めは美しさに喜ぶ客も最期は怒って帰る始末だ。
少女にとって虐げられることは日常だった。あるときはその身に痛みを、あるときは心に痛みを覚え、けれど決してそれを辛いとも悲しいとも思ったことはなかった。この館にいればそれが普通で、当たり前の日常だったのだ。
だから少女が主人にそう言われて思ったのは、「地位と金がある誰かに買われれば良いな」ということだけだ。虐げられるのは当たり前のこと。ならとりあえず生きていくだけの、衣食住さえ確保できれば十分だった。
それに、彼女は自分の美しさを理解していた。この美貌があれば、それなりの人間に引き取られていくだろうと思える程度には。
「うるさいな、クソジジイが」
小鳥の囀りのように愛らしい声色で、辛辣な言葉を吐いてから彼女は言われたとおりに掃除へと向かった。
少女にとってこれが日常で、それ以外の生活など考えられなかった。
けれど、それが崩れ落ちた日がきた。彼女の日常とは無縁の女を目の当たりにしたことにより、心の何処かが壊れたような音が聞こえたような気がした。
許せない。悔しい。どうしてあんたは幸せなの? 望みを捨てないで行きていけるの?
その高いところから、あたしの場所まで引きずり下ろしてやったら、この子はどんな顔をするんだろう――。
彼女の想いは枯れることなく、まるで溶岩のようにふつふつと沸き立っていく。
それは、少女がはじめて抱いた人間らしい感情だった。
「アンブラ」
優しげな声色で名前を呼ばれ、アンブラはゆっくりと目を開いた。いつの間にいたのか、寝台に眠る自分を見下ろすように銀色の髪をした青年が立っていた。
「どうされました?」
体を起こすと、薄衣になだらか体の線が浮き彫りになる。艶めかしい姿だったが、男は狼狽えることもなく微笑んだ。
「君にまた仕事を頼みたいんだ。これを」
恐ろしいほどの美貌をもった青年に買われてから、アンブラの日常は一変した。彼は自分を殴ることも、この身を抱こうともしない。彼女に求められたのはただ一つ、彼の目と耳になることだった。
気だるげな表情を見せながらアンブラは寝台から降りると、青年に丁寧に綴じられた冊子を渡される。そこに書かれた人物の似顔絵と経歴を読みふけ、頭の中にしっかりと刻み込む。
人の顔と名前を覚えるのは、娼館にいたころに培われたアンブラの特技だ。一読しただけですべてを覚えたアンブラが冊子を返すと、青年はそれを無造作に暖炉の中に放り込む。かすかな燃えかすと灰色の煙とともに、捨てられた紙が跡形もなく消滅する。
「彼に接触してみれば良いのですね」
「ああ。君の美しさならどんな男も手に入れられるよ」
アンブラはとても美しい少女だった。艶やかな黒髪と神秘的な同色の瞳を与えてくれた、名前も顔も知らぬ父にそれだけは感謝をしている。
「お望みのままに、コーネリアス様」
この美しい新たな主の役に立つのであれば、彼女にはなにも文句はなかった。
ふと、青年が思い出したように顔を上げた。
「そういえばアンブラ、君を買ったオークションのときのことだけれど。君が会ったという少女の行方がわかったよ」
「本当ですか?」
「ああ、彼女は今海賊王と共に船に乗っているようだ」
「海賊王と……?」
自分が売られたすぐあとに、あの奴隷市場が襲われて多くの貴族が捕まったという話は彼から聞いていた。
「ルチア・カーティス、十六歳、中央区出身。国内でも有名だった天文学者のレクス・カーティスのご息女だ。この顔で間違いないよね」
青年が差し出した似顔絵を見せられ、アンブラはこくりと頷いた。髪の長さの違いはあるが、プラチナブロンドにくりっとした蒼い瞳は間違いなく彼女の知るルチアだった。
「この似顔絵にそっくりなので間違いないと思います。そこまで調べてくれたのですか?」
アンブラが頼んだのは、市場で知り合った少女の行方が知りたい、それだけだ。彼女の出自まで青年が調べあげたことに驚きを隠せない。
「君から、彼女が海賊王に会いに来たという話は聞いていたからね。ちょうどサピエン付近で馬車の盗難届が出されていたんだが、強盗があった際に彼女も乗っていたらしい。御者の話を追って、自宅周辺で行方不明になっているとカーティス家のハウスメイドから情報が手に入った」
アンブラは表情に影を落とし、膝の上で手のひらをぎゅっと握りしめた。
なにもかも、アンブラと違う少女。マービリオンで有識者の家系に生まれた時点で、この国で勝ち組になれる。家族に大事に慈しまれて過ごしてきたと全身でそう告げていた少女を思い出すと、アンブラの心の闇が広がっていく。
「……君も、僕に買われなければ今頃海賊王たちに救われていたのにね」
「それは違います!」
アンブラは勢い良く顔を上げて心の底から叫んだ。
「わ、私はコーネリアス様に買われて良かったと思っています。だって、あそこで助かったって、その先に幸せな未来があるなんて誰にもわからない。私を必要としてくれる人なんて」
きっと、貴方だけ。
そう言いたかったのに、青年に恭しく額に口づけられて言葉は途中で遮られた。けれどアンブラの心は歓喜に震え、一筋の涙が頬を伝う。
そう、きっとこれが幸せというものなのだと、たとえ彼が自分を利用しているだけだとしても――彼女にとって、いまこの瞬間がなにより至福の時間であった。
乱暴に体を揺さぶられ、ルチアはうなり声を上げながら瞼を開いた。すると眼前にバハルの榛色の瞳を見つけ、ぎょっとした表情を浮かべる。
「うわっ! ちょ、ちょっと近いです!」
「朝からうるせえ。ってかお前は夜中もうるせえけどな。寝言が多すぎるんだよ」
「そんなはずは……」
熟睡している自分の姿など見られるはずもなく、そんなことはないとは言い切れなかった。唇を尖らせふて腐れるが、眠そうな顔でバハルは少女を寝台から追いやる。
「俺は眠い。しばらく部屋に入ってくるな、外で遊んでろ」
寝ずの見張り番をこなした青年は、眠そうな目をして布団へと潜っていく。そのまま寝息を立てはじめたバハルを見て、こっそりと足音を忍ばせて部屋から出た。
人員不足のこの船で、船長みずから番をしていることは知っている。彼の安眠を妨げるのは申し訳なかった。
甲板に出ようと狭い廊下を歩くルチアの目に、ちらりと黒い髪が視界に入りルチアは息をのんだ。この国では珍しい黒い髪を持つ人物を、ルチアは一人だけ知っていた。
影に消えた黒髪を追いかけ、角を曲がり――勢いよくその背中に衝突する。ドンと音を立て、その場でぐらりと倒れかけた体を誰かによって支えられた。
「危ない。船内は慌てず騒がずじゃないとダメでしょ」
「あ……」
ツル付き眼鏡に縁取られた黒目に見つめられ、ルチアは一瞬言葉を失った。
(そうよ。アンブラなわけないのに)
肩下まで伸ばされた黒髪は彼女と一緒だ。しかし、彼女との共通点はそれだけだった。
三十代中頃と思わしき細身の男が、ルチアを支えていた手をそっと離した。
「はじめまして、かな。僕はエンリケ。一応ここの船医をしている」
「船医……。そういえばロジェさんが言っていたような」
ドーナス島へ向かう途中で、ロジェから船医の存在を仄めかされていた。島についてからも出くわすことがなかったのですっかり忘れていた。彼を前にして、ルチアは慌てて頭を下げる。
「はじめまして、ルカと言います」
「うん、知ってるよ。海賊船に意気揚々と乗ってきた変わり種の子どもがいるって君のことだろう?」
愉快げに笑ったエンリケは、ずいっと顔を近づけてきて思わずのけぞる。
「ふむ。……細い腰つきに、小さな肩、すっきりとした首筋。なんとも可愛らしい、まるでお嬢さんのようじゃないか」
その言葉に焦りを覚えながらも、わざと怒っているかのように肩を張り声を荒らげる。
「ぼ、僕は男です!」
「そうかい? まあどっちでも良いけどね。おっと、もう行かないと」
あっさりと引き下がった彼は、ルチアに背を向けながら手をひらひらと振り去って行く。飄々としたエンリケの態度に呆気にとられ、ぽかんと口を開きながら背中を見送った。
(な、なんなのあの人……。もしかして、私が女だと気付かれた?)
自分が女であることを公表するのは出来れば避けたかった。ロジェが以前言っていたとおり、この船は男所帯だ。彼らを信頼していないわけではないし、自意識過剰になるつもりもない。けれど、身の危険を感じないかと言えば嘘になる。
(あまり会わないほうが良いかもしれないわね)
つかみ所がない男だったが、冷静にルチアの姿を観察していた。必要時以外、彼に関わらないに越したことはない。
(……アンブラは大丈夫かな)
それより、気になるのはアンブラのことだった。彼女と同じ黒髪を目にしたことで、再びルチアの心の中に暗雲が立ちこめる。
海賊王が奴隷市場を占拠する前に連れ去られてしまった、黒髪の美しい少女。彼らが現れたときにはその姿は教会にはなかったと聞いている。
一緒にいた時間はほんのわずかだ。それでもルチアにとっては気がかりの一つであった。奴隷になることに疑問も抱かない少女は、一体どこにいるのか。助けたいという気持ちはある。けれど今は姉のことだけでいっぱいのルチアに、彼女にまで手をさしのべることは不可能だと痛感する。
滅入る気分を吐き出すように大きく嘆息し、ルチアは重い足取りで当初の予定通り甲板へと続く階段を上る。
「うわぁ良い天気」
冷たい風に身を震わせながら甲板に出ると、見渡すばかりの大海原が広がっている。水辺線の彼方にある青く澄み渡る空を仰ぎ見ると、西に煙のような雲が立ちこめているのに気づく。
「あれ……」
「どうしたの、ルカ」
首をかしげて空を仰ぎ見る少女に、甲板にいたロジェが声をかけた。ルチアは青年に振り返ると、人差し指を天にかざした。
「あ、いえ。晴れていると思ったんですけど、嵐が来るみたいですね」
もくもくと立ち込める大きい雲をもう一度見上げると、ロジェが驚きに目を見張った。
「ルカは天気が読めるのかい?」
「お姉ちゃんみたいに詳しくは知らないですけれど。家にあった本で読んだ程度なら少しだけ」
天文学を知る上で気象も重要な知識であるため、ルチアの家には気象学の本も揃っていた。暇つぶしに読んだ程度の知識ではあったが、ロジェは感心したように頷いた。
「いや、良い審美眼だよ。雲の大きさから言って大きいものではないだろうけど、今夜は荒れるかもね」
ようやく船の揺れにはなれてきたルチアだったが、嵐となれば話は別だ。大きく揺れる船を想像しただけで吐き気がこみあげ青ざめる。
そのルチアの顔色の変化を見て、ロジェが苦笑いを浮かべた。
「いまのうちに慣れておかないと、あとが大変だよ」
「頑張ります……」
海は静けさを保ち、進む船がかき分ける波音しか耳に残らない。
それがまるで不吉な予感の前触れのように思えて、ルチアはぶるりと震える肩を抱きしめる。
空に浮かぶ雲は、彼女の予感を助長するように大きさを増していった。
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