第13話 再び、海へ
「じゃあこれを見て」
ロジェが大きなデスクに海図をひろげ、ルチアはそれを見下ろした。マービリオン共和国周辺の海域が記されたその地図の一部をトントンと叩く。
「今いるのはここだ」
ゼノから見てちょうど真西にあたる、なにも書かれていない海上――ドーナス島があると思われる場所だ。
「そして目的地はここ、マッテラ島」
ロジェがしなやかな指をゼノからみて北西に位置する場所へずらす。
「ここからマッテラ島までは、北北東へ一直線に行けば良い」
「できればゼノの近くは通らず行きてえな」
海軍とやりあってからまだそう日は経っていない。巡視艇の存在を考えると、無闇に近づくべきではなかった。
バハルが眉間にしわを寄せ唸るように言うと、ロジェも同意して頷いた。
「同感だよ。けれど、そうすると二つの道しかない。一つ目は南下して本島をぐるっと一周する」
「遠回りだ。もう一つの案は?」
急かされ、ロジェは羽ペンにインクをつけるとわかりやすく地図にルートを書き込む。
「ドーナス島からひたすら北上して、途中で進路変更して東へ行き、南下……かな。どちらにせよ遠回りだけど」
「俺はそのルートは勧めないけどなあ。ここから北の波は荒れやすいし、渦も多い。いくらあの船とはいえまともに行けるか保証はできない」
口を挟んだケレベルが苦渋の表情を見せ腕を組むと、同じようにバハルも眉間の皺を深める。けれどロジェは右手の指を二本立て、彼らに突きつけた。
「選択肢は二つだよ。南下か、北上か。……さて、ルチアならどっちを取る?」
急に話を振られて、目を丸くしてあたふたと周りを見渡す。三者の視線が自分に突き刺さり、居心地の悪さを覚えながらもおずおずと口を開いた。
「素人意見で申し訳ないんですが、北上が良いと思います。南下して海軍都市の近くを通るのは、ゼノ近海を通るより危険じゃないかと」
国の南側には広大な面積を誇るマレ市――別名、海軍都市が待ち構えている。海軍の本拠地である以上、ゼノへ向かうよりも遙かに危険が大きかった。
さらに、ルチアは言いづらそうにしながらもあとを続ける。
「マッテラ島の近海はとても大荒れで、誰も近づけないと聞いています。たとえ北上のルートが荒れるにせよ、それに耐えられない船ならマッテラ島にすら行けないと思います」
その程度できないのか、と言外に匂わせた言葉をバハルは挑発と受け取ったようだた。にやりと唇をつり上げ、挑戦的な目でルチアを見返した。
「言ってくれるじゃねえか。悪路にどんだけ船酔いしても構わないと雇い主様が言ってるんだ。道は一つだろ」
陸にいるのに大きな波の揺れを思い出し、若干青ざめながら口元を押さえる。けれど言い出したのは自分だ。もはやあとには引けない。
「なら、北上で決まりだね。ケレベル、とりあえずこの辺の海域について知りうる限りの情報を教えて貰えるかい?」
インクでなぞられた航海路を目で追いながらケレベルが頷く。
「とりあえず第一の難関はここから五百海里程度行ったところだな。岩礁が多く、座礁事故も多いと言われている。第二の難関はこっちだ」
ケレベルの指がマッテラ島にほど近い付近で止まる。
「ここは流氷が多く行く手を妨げる。そして、最後にして最大の難関がマッテラ島。ここの海域は別名、悲劇の門と呼ばれる」
「いまだかつて、誰もが為しえなかったマッテラ島への航海……」
姉が目指した場所をルチアは目で追い、そっと地図に触れる。姉の行方を知ることができるなにかが、この地にはあるはずだと心が激しく揺さぶられる。
「たしか海軍が、座礁した探検隊の船を見つけたと言ってたな。どこで発見されたか分かるか?」
「ごめんなさい。場所までは……」
バハルの問いに、ゆるやかに首を横に振った。ルチアが聞き及んでいるのは、近海で座礁したという話だけだった。具体的な場所までは教わっていない。
「船が座礁という話が真実でもおかしくはないぞ。それだけ、あそこは厳しい場所なんだ」
「それでもお前は行きたいんだろ?」
「はい。……ずうずうしいお願いですけれど」
海軍ですら果たし得なかったというマッテラ島への海路だ。彼らに無理難題を押し付けている自覚はある。けれどルチアには、彼らしか頼れる者はいなかった。
「お前は正当な雇い主だ。十分な金も貰っている、そう自分を卑下するな。……それに元々、マッテラ島には興味があったしな」
彼らが冒険心を持ち合わせているとは思えず、興味という言葉にルチアは首をひねった。けれどバハルはそれ以上なにも言わずに海図に目を落とす。
「出発は明後日早朝。良いな?」
一同は顔を見合わせ、力強く頷いた。
船の修繕の指示に戻ったケレベル以外の三人が部屋に残る。ロジェはなにか独り言を呟きながら海図を読み解いている。
「ロジェさんは航海士なんですか?」
船には船長が欠かせないが、それと同等に重要性を示すのが航海士だ。海図を読み、的確な指示を下すためには生半可な知識ではだめだと聞いていた。
青年の後ろ姿を見つめながらルチアが問うと、バハルは肯定するようにうなずいた。
「ああ。こいつは優秀な航海士だ」
「お褒めに預かりまして」
いつの間に二人の会話を聞いていたのか、ロジェは視線は落としたまま嬉しそうに笑う。一方でバハルは、純粋に褒めたことに今更気恥ずかしさを覚えたのか顔をしかめた。
「航海士としての学問はどうやって覚えたんですか?」
それは純粋な疑問だった。マービリオン大学でも航海術に関する学部があるほどだ。どうやって元奴隷であるロジェがその知識を学んだのか、ルチアは興味津々な顔で尋ねた。
「……知りたい?」
けれど妖艶な笑みを浮かべられ、ルチアはごくりと唾を飲み込んだ。ぞくりとするほどの艶やかな声色で、触れられてもいないのにルチアは顔を赤く染める。
「け、結構です」
なぜかそれ以上聞く気になれず、ぶんぶんと首を振ると呆れたバハルにぽんと頭を叩かれた。
「馬鹿、なに挙動不審になってるんだ」
「だ、だって……」
どもりながら俯き、ルチアはぎゅっとマントの裾を握りしめた。ロジェはくすくすと笑い、ルチアの問いかけには答えないまま海図を持って扉の外へと消え、バハルもあとを追うように出て行く。
あとの作業は、船の知識がないルチアがいては邪魔になるだけだった。ゾイの手伝いも終わったルチアは手持ち無沙汰になり、一瞬悩むが自分もケレベルの家をあとにする。
砂浜に落ちる自分の影を見ながら歩いていたルチアは、もう一つの影が視界に入り顔を上げた。
「また一人でフラフラしてる」
「シャットさん」
気だるげな表情でルチアを見るシャットの腕には、重そうなロープが存在していた。ルチアの視線に気付いたのか、見せるようにロープを少し上げるといくらかすり切れている様子が分かった。
「あのさ、いい加減オレのことさん付けで呼ぶの止めてくれる? なんかむず痒いんだけど」
「シャット……で良いの?」
「そう。暇ならロープの補強手伝ってくんない? 人手足りないんだよね」
その場に腰を下ろす彼の隣にルチアも座り、いくつかのロープを受け取った。シャットの見よう見まねで同じように切れたロープの継ぎ目を繋いでいくと、感心した声が隣から漏れた。
「器用じゃん。じゃ、こっちもよろしく」
ドサリと足下に多量のロープを放り投げられ、あっけにとられる。しかしルチアは黙々とロープを手にとった。ほどけないようにしっかりと編み込み、ピンと張るのを確認する。
「ルカは変人だよね」
「変人!?」
かなり失礼な評価に二の句を告げずに押し黙るが、シャットはあっけらかんと再度「変だよ」と言った。
「たかが家族がいなくなったくらいで探しに行ったり、海賊船に乗ったり、こうやって手伝ったり。変人じゃなきゃなんなのさ」
たかが家族という台詞に腹立たしさを覚えたが、彼が元奴隷であり家族に裏切られた身であると知っている以上、押しつけがましいことは言いたくなかった。
シャットはぎゅっとロープの継ぎ目を引っ張ると、面倒そうにそれを放り投げた。
「オレ、こういう細かい作業って向いてないや。良くやれるね?」
仕事を放り出したシャットは大きなあくびをして、ごろりと砂浜に横たわる。腕を頭の後ろで組んでぼんやりと青空を眺める少年の姿をみて、ルチアは頬をふくらませる。
「ちょっと、人に手伝わせておいて」
「適材適所。オレここ最近まともに眠れてないし、眠い」
「シャットはどこで寝泊まりしていたの?」
シャットがこの島にきてからどこに滞在しているのか、ルチアは知らなかった。バハルやロジェに自分たちの家があるように、シャットも彼の自宅で寝泊まりしているのだと勝手に思っていた。
「んー……。いろんな人の家に適当に泊まらせてもらってた。島長のところとか、いろいろ。でもオレ、ハンモックのほうが寝やすいんだよね。ベッドは苦手だ」
「珍しいですね」
ルチアからしてみれば、ゆらゆらと揺れるハンモックで熟睡するほうが難しい気がする。
眠そうに瞼をこするシャットを横目で見ながら、新しいロープへ手を伸ばす。少年はぼんやりと晴れ渡る空を見ながら、かろうじて聞き取れる声で呟いた。
「ベッドで寝るとさ。殺される寸前のことを思い出すんだよね」
「……殺される……?」
伸ばした手が思わず止まる。
シャットは小さな嘲笑を浮かべ、まぶたを下ろした。
「そう。……昔々の、悪夢だよ」
そう言つぶやくと、わずかな寝息を立ててシャットは眠りにつく。
――ルカは今までに臓器を売られそうになったことある?
シャットに問いかけられた疑問が頭をよぎる。それは、彼の身に起きた残酷な仕打ちのことなのだとようやく理解した。
(コーネリアス家……いつもその名前が出てくるのね)
サピエンにある資料館を所持し、奴隷売買を行い、海軍にまで力及びコーネリアス商家。常にルチアの行く先につきまとうように現れるその家名が、今回の事件にまったくの無関係とは思えなかった。けれど確証などなにもなく、憂色を浮かべながらルチアは眠る少年の顔を見つめ続けた。
ついに島を出る日が訪れ、船の周りには海賊たちとの別れを惜しむ島民の姿が多く見られた。その中には泣きじゃくりながらバハルに抱きつくミアの姿もある。バハルはあきれ顔をしていたが、少女をあやす手は優しいように見えた。
「お世話になりました」
船の修繕に明け暮れ憔悴したケレベルに頭を下げると、男は鼻を掻きながら照れた表情を浮かべた。
「なに、礼なんかいらんさ。アレは俺の息子みたいなもんだからな」
ケレベルの視線の先には、たった数日で直したとは思えないほどに見違えた船がある。海軍によって傷つけられた船尾は、真新しい木の色に光り輝いている。
「海の荒れ具合はもちろんだが、これから色んな困難がお前たちを襲うはずだ。ルカがそれに耐えられるか、俺は心配だよ」
「心配ありがとうございます。でも、僕はバハルさんたちを信じていますから」
「……そうか」
柔和な笑みを浮かべ、ケレベルは自分の娘へと視線を送る。泣きじゃくる我が子を見て苦笑してからため息を吐く。
「うちの娘はバハルが好きでな。……次にいつ会えるか分からない、下手すりゃ生きて会うことすら出来ない。そんな男を想うなんて不憫だよ」
バハルたちはつねに危険と隣り合わせのところで生きている。死ぬか生きるか、彼らに明日があるのかすら計り知れない。
「いつかトラウマを克服して、バハルを追っかけに海へ羽ばたいていくんじゃないかと思うときがある。女は強い」
「そういうものですか?」
ルチアは異性を好きになったことが過去にない。だから、ミアの気持ちもそれを心配するケレベルの気持ちも良く理解は出来なかった。首をかしげるルチアに、ケレベルは唇をつり上げた。
「坊主にはまだわかんないか? 覚えておけよ、恋をした女はおっかねえぞ? なにをしでかすか分からん」
それは、家族を大事にする気持ちとは違うものなのか。不可思議な気持ちを抱えたまま、ルチアは曖昧に頷いた。
「ルカ、そろそろ乗り込むよ」
身支度を整えたロジェに促され、もう一度ケレベルに頭を下げてから梯子を伝ってルチアは船の甲板へと降り立った。修理のついでに整頓された船内は、きれいに床も磨き上げられており気持ちを奮い立たせる。
「総員配置につけ」
ロジェの指示にぞろぞろと男たちが現れ、各自の持ち場へと戻っていくのを見届ける。その中にはシャットやゾイの姿もある。みなドーナス島に名残惜しさは感じさせず、陸地を再び見ることもなかった。
「さて、全員そろったな」
最後に船に乗ったバハルは周囲を見渡し、すうと大きく息を吸い込み、そして吐き出す。
「出航!」
張り上げた声と共に船が、帆が風を受けて動き始めた。波が揺れる大きな音を聞きながら甲板から陸地を見おろし、見送る島民たちに手を振る。
(彼らと会うのもこれが最後なのかしら)
隠匿された島に立ち寄る機会はそうそうないだろう。最後に彼らの顔を焼き付けておこうと桟から身を乗り出した。
「あまり乗り上げると落ちるぞ」
バハルに手をかけられて、ルチアはしぶしぶ体を起こして向き直る。けれど、バハルもじっと小さくなっていく陸地を見つめていた。
「寂しいですか?」
「そう……かもしれないな」
素直な心情を吐露し寂しげな吐息を漏らしたバハルだったが、ふいに真剣な表情でルチアへ視線を向ける。
「ルカ」
彼の真摯な瞳に押されるように、ルチアは口を引き締める。
「もう一度だけ確認するぞ。これが最後だ、次はない」
神妙な顔のバハルが続ける。
「俺たちは海軍を敵に回している。その船に乗る以上、お前も捕まれば良くて国外追放、悪くて死罪。――それでも、後悔はしないか」
今更ながらの確認は、きっと彼なりにルチアの身を案じているのだと、それが彼の優しさなのだと伝わってくる。だから、彼の思いに応えるようにルチアはしっかりと彼の目を見つめて口を開いた。
「しません」
じっとその顔を見おろすバハルが、ふっと息を吐いた。いつもの意地悪そうな顔でなく、どこか優しげに目尻を下げる。
「……分かった。なら、俺もなにも言わねえよ」
子どもに対するように、大きな手のひらでクシャリと髪を撫でられる。温かな熱がじんわりと広がり、ルチアは頬をほころばせた。
ルチアは誰もいない船長室から満点の星空を見上げ、わずかに白くなる息を吐き出しながら思いふける。
――ねえルチア。あの星の名前を知ってる?
そうエレーヌが言ったのは、両親が死んで半年くらい経ったころだ。寂しさに眠れない夜を過ごす妹の元に現れ、庭へと連れ出したエレーヌに抱きかかえられ二人で星空を眺めたあの日のことを思い出す。
――北の空に一番輝くあの星は、地上の人々を守ってくれるの。どんな精巧な道具より、正しく行き先を示してくれるのよ。
エレーヌが好きだった、北の空に一際輝く星は今夜もきらめいている。まるでルチアの行く先を、姉が示しているかのような気分にさせ、潤んだ目尻を拭った。
――私たちの希望の光。それがあなたの名前よ、ルチア。とっても素敵でしょう?
ルチアの名前は、姉が付けたものだと聞いていた。
闇夜を払う星の光のような存在になりますように。
そんな意味が込められた、ルチアの大事な宝物だった。
冷たく湿った風がルチアの短くなった髪の毛をなびかせ、頬にちくちくと刺さる。それを気にすることなく、星を掴み取るかのように手を伸ばす。
「お姉ちゃん、私頑張るから。だからお願い……」
(生きていて)
ルチアの呟きは星空に吸い込まれ、その祈りを聞き届けるように一筋の光が遙か彼方へ流れていった。
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