二章 奴隷と海賊
第9話 ドーナス島
「うっ」
ルチアは口元を押さえ、勢いよく甲板を走る。すでに見慣れた光景に海賊たちは何も言うことはない。
すでに胃の中のものは全て吐き出されている状態だったが、未だに迫り来る胃液にルチアは船の桟にもたれ掛かるように倒れこむ。
「ルカ。ちょっと話が……ってまた船酔い?」
背後からの青年の声に虚ろな目で振り返ると、呆れ顔のロジェが近づくのが視界に入る。しかしその問いに答える余裕などなく、かろうじて首を小さく縦に振った。
「その状況で申し訳ないけれど、僕の部屋に来てもらって良い?」
「う……大丈夫、です」
よろよろとしながらもなんとか立ち上がり、ロジェの後ろにつく。
ロジェの部屋は甲板から階段を降りた先、ちょうどバハルの部屋と真反対にあった。この船で個人部屋を割り当てられているのは船長であるバハルとロジェだけであり、ルチアも彼の部屋に入るのは初めてだった。
「汚いけれど、どうぞ」
「お邪魔し――」
ルチアは言葉を失う。
部屋の主の言う「汚い」という言葉は謙遜でも誇張でもない。彼の部屋は主に紙の束があふれかえり、デスクや床あるいは寝台にまで広がっている。紙以外にも、ルチアには用途の見当もつかないが、航海に使うと思われる器具が部屋中に散らばっていた。
「適当に座って構わないよ」
(座るってどこに!?)
器用に紙を避け、ロジェはデスクに腰掛けるようにして身体を預ける。一方でルチアは座るところなど見つけられず途方に暮れる。
乗船直後、ルチアが寝泊まりする場所の候補としてロジェの部屋も挙げられたが即座に却下されたことを思い出す。この状態では、とても二人が生活できることはできない。
「入るぜ……って相変わらず汚ねえ部屋だな」
大きな足音を立てながら侵入してきたバハルは遠慮なく紙を踏み潰した。
「バハル。それ、大事な海図なんだけど」
「ならちゃんと整理しとけ。床にあるもんは屑と一緒だ」
そのまま紙だらけの寝台に腰掛ける。ルチアもそれに倣い、狭い寝台の隅に縮こまりながら座ってから口を開いた。
「話ってなんですか?」
「僕たちの掟について説明しておこうかと思って。君は一応依頼人ではあるけれど、あいにくこの船は客船じゃないからね。ある程度、ここのしきたりに従ってもらう必要がある」
掟という言葉に聞き覚えがありルチアは首を捻りながら思い返し、一つの記憶にたどり着く。以前にルチアがバハルやシャットに言われた内容を復唱する。
「女子供には手をあげない?」
「そうだ。――その一。女子供への理由なき暴力は死刑」
「……正当な理由があれば?」
その質問に、バハルは皮肉げに口角を上げただけだ。それが回答となり、ルチアも必要以上に聞くことはしなかった。
「もし何か危険があったら遠慮なく言ってくれて構わない。この船に君より年下の子どもはいないし――ああ、もしかしたらシャットは年下か同い年くらいかな」
元気そうな少年の顔をルチアは思い出す。自分とそう変わらない年頃ではあったが、数日前の戦いで彼も活躍していたのを目にしている。何も出来ずにいたルチアとは雲泥の差だった。
「その二、仲間内での船上での私闘を行った場合は孤島置き去りの刑」
「これもルカにはあまり関わりはなさそうだけどね。もし気に入らないやつがいても、戦ったりしないで」
「ただし地上は別だぜ? あくまで船上での話だ」
少女がからきし力がないことを知った上で付け加えながらバハルは笑う。ルチアは顔を逸らし、拗ねたような表情を見せる。
「その三、船長の命令に従わなければ孤島置き去りの刑。その代わり、船長に対して異議申し立てがある場合は、船員の八割以上の署名を集めること」
続けられた掟の内容にルチアは首をかしげた。海賊にとって船長の命令は絶対であると考えていた彼女にとって不思議な内容だったからだ。
「バハルさんの命令に従わないってことですか?」
「過去に例がなかったわけじゃない。ルカも署名を集められれば、船員としてバハルへ異議申し立てをすることができるよ。覚えておいて」
「けっ、なんでこいつに異議を言われなきゃなんねえんだ」
バハルは嫌そうに顔をしかめ、腕を組みながらロジェを睨みつける。しかしロジェはその視線を何ごともなかったかのように受け流した。
「そういう掟だからね。その四、脱走を企てたものは孤島置き去りの刑。ルカに一番関係ありそうなのはこれかな」
意味ありげな表情で舐るような視線を送られ、ルチアは思わず身震いする。横でバハルが小さくため息をつく。
「お前、子ども相手にも容赦ねえな。……とりあえず、一度こっち側へついたんだ。今更海軍側へ寝返るなってことだ。その辺りはルカだって考えた結果なんだろ」
「それはもちろんです」
ルチアとて海軍――強いては国家に相対する海賊に着いていくことを悩まなかったわけではない。けれど国があてにならない以上、残された道はこれしかなかった。
「分かっているだろうけれど、僕たちは海軍に狙われている。この先何度だって戦うことがある。――それでも君は僕たちの手をとった、そうだね?」
「はい」
即答した少女に、ロジェは満足そうに微笑み頷いた。
「なら良いよ。……あと他にもいくつか掟はあるけれど、ルカにはほとんど関係なさそうだしな。これくらいで良い?」
「そうだな。ああ、あとゾイがお前のこと心配してたぞ」
船に乗った翌日から今日現在まで船酔いに悩まされたルチアは、船長室と甲板の往復で一日を終えている。ルチアに合わせて消化に良い食事を作ってくれるゾイには頭が上がらない。
「す、すみません。ゾイさんに厨房の仕事手伝うとか言っておきながら、全然役立てなくて」
乗船したその日に、一人での調理を嘆くゾイに手伝いを申し出ながらも何一つできておらず、ルチアは申し訳なさそうに俯いた。
「船の一員とは見るが、別に海賊にさせたわけじゃねえ。俺たちの仕事を手伝う義理はルカには無い」
「でも、ひとりで部屋に籠もっているよりは良いんです。手伝わせてください」
ひとりで部屋にこもっていれば、悶々と今後のことや姉のことを考え続けてしまう。何か気を紛らわせることがあったほうがルチアにとっても助かった。
「好きにしろ。あとで船医のところにでも行け、船酔いに効く薬なんて良いもんがあるか知らねえけど」
「船医!? そんな人が乗ってたんですか!?」
医者はとても貴重な存在だ。軍の船に乗っていることは特段不思議ではないが、このような海賊船に乗船していることにルチアは瞠目する。
「まだ会ってなかった? 船医室はそこの階段を降りてすぐ右手にあるよ。……ちょっと癖のある人だから、僕としてはあまり会うのは勧めないけれど」
「それはどういう――」
「お頭! ロジェ!」
扉を勢いよく開けてくすんだ茶髪の少年が部屋へと飛び込んでくる。
「ドーナス島が見えてきましたよ! 久しぶりだなあ」
きらきらとした嬉しそうな表情でシャットが口笛を吹き、バハルはちらりと卓上に置かれたクロノメーターを確認した。
「定刻通りだな。上に出るか」
立ち上がった男性二人にルチアもつづく。乱雑したロジェの部屋を出て三人は連れたって階段を登り甲板へと出ると、海の向こうに小さな島があるのを発見する。
「あの島で船の修理を?」
「そうだよ。あれがドーナス島――僕たちの故郷ってところかな」
ルチアは小さく驚きの声を上げてロジェを見上げた。そして嬉しそうな顔をしているのがシャットやロジェだけでなく、他の船員たちも同様であることに気付いた。
ドーナス島という名には聞き覚えがないルチアは改めて島へと目を向ける。小さな島が徐々に大きく視界に移る。
「接岸の準備をはじめろ! 今夜は宴だぞ!」
一際大きいバハルの声が甲板に響き渡ると男たちは雄叫びを返した。
本島のような港は存在せず、砂浜に近いところで船が速度を落とした。甲板からでも、砂浜に人の影があるのが分かる。その中に、物凄い勢いで手を降っている人間がいるのに気付いてルチアは目を凝らした。
船が停止した途端、海賊たちが一斉に縄梯子を伝って砂浜に降りていく。そのまま解散するように各々散らばっていった。
「俺たちも行くぞ」
バハルの声にルチアも頷き、彼を追いかけ縄梯子をギシギシと言わせ慣れない動作ながらもなんとか降り立つ。
「バハル!」
甲高い声とともに、先に砂浜に降り立ったバハルに飛びつく人影があった。それが先ほど甲板から見かけた、手を降っていた人間であることに気づく。
「久しぶりバハル! やっと帰ってきた」
嬉しそうにバハルの首に少女がしがみつく。ルチアとそう変わらない歳の、赤毛の少女だ。日焼けした肌にそばかすが散る頬を赤く染め、感極まったように潤んだ瞳で愛おしそうに男を見た。
「重い、ミア」
つれなく引き剥がされ、ミアと呼ばれた少女がふてくされたように頬を膨らませた。しかし次にバハルの男の後ろに見慣れぬ人間の姿を見つけ目を見開く。
「バハル、それ誰?」
今までこうも不躾に指を突きつけられたことがないルチアはたじろぐ。頭から爪先までじろじろと観察するような視線を投げつけられる。
戸惑うルチアを庇ったのはロジェだった。
「そんな風に見るものじゃないよ。この子はルカ、僕たちの依頼主だ」
「なんだ、ロジェもいたの。依頼って? 稀代の大海賊が誰かに従ってるの? バカじゃない?」
不満そうに唇を尖らせて口悪く言われれば、さすがのルチアもむっとした表情を抑えられない。お互いに睨むように視線を交錯させるが、呆れたバハルがその場を収める。
「いい加減にしろミア。それよりケレベルはいるか? 船を直さなきゃいけねえ」
「親父なら家にいるよ。今日は宴会だって騒いでた」
「ケレベルの家に行くぞ。ミアは俺の家に|ルカ(こいつ)を連れて行け」
途端にミアはあからさまに嫌な表情をするが、バハルにひと睨みされて肩を落とした。
「わかったよ……。あんたはこっち。付いてきなさい」
ざくざくと砂浜を踏みしめてミアが歩き出す。困惑して男二人を見やるが、すでに彼らは逆方向へと向かっていた。仕方なくルチアは少女を追いかけた。
「あんたルカっていうの? 何者? なんでバハルと一緒にいるの? ってか男?」
横に並んだルチアの顔も見ずに矢継ぎ早に質問をされる。どこまで本当のことを言って良いものか悩みながら口を開いた。
「姉の行方を探しているんです。それでバハルさんたちにも協力して貰っていて……。ちなみに男、です」
「姉……?」
まじまじとルチアの顔をみたミアが、あっ、と一言上げる。そして先程よりも険悪な表情に変える。
「……まさかエレーヌじゃないよね」
「お姉ちゃんを知っているの!?」
ミアの口からエレーヌの名を聞くとは思わず、驚愕するルチアだったが少女は舌打ちをする。憤るように砂浜を蹴りあげ、細かい白砂がさっと舞い上がった。
「会ったことはないけど名前なら知ってる。バハルの初恋の相手」
「……まさか、バハルさんと姉は本当に恋仲?」
「違うよ! バハルが一方的に好きだっただけ。振られてるみたいだし」
でも、とミアは表情を暗くするがそれ以上続けず口を結んだ。悔しげな顔を見せるミアを見て、彼女がバハルに対してどのような気持ちを抱いているのか予測がついた。けれどそれを口にするのは気が引けて、ルチアは何も言えずに押し黙った。
「ミアは相変わらず君が好きだね」
呑気なロジェにバハルは適当に相槌を打つ。正確な年齢は誰も知らないが、十代後半と思わしき少女がバハルに懐いているのは今に始まったことではない。
「あいつも良い年だ。さっさとこの島で結婚相手でも見つけりゃ良いんだ」
「前から思ってたけど、本当に君は最低な男だよ」
幼いミアを育てたバハルからすれば彼女は妹、下手すれば自分の子どものような存在だ。成長したミアの自分を見る目が、家族に対する愛情を超えたものになったことにはすぐに気づいたが、どうするつもりもない。
素っ気ないバハルの肩をロジェが叩く。
「いつまで初恋を引きずってるつもり?」
「……うるせえな。そんなんじゃねえって言ってるだろ」
「ルカをわざわざゼノまで送り届けてあげたことが不思議だったんだ。改めて考えれば、似てるもんね」
「俺はお前と違って心優しいもんでな」
よく言うよ、とロジェは肩をすくめる。バハルは海賊にしてみれば情に厚い性格をしているが、得にならないことに首を突っ込むほど情け深いわけではない。その彼がお荷物を抱えて旅をする理由は、エレーヌの面影を残しているに他ならなかった。おそらくは無意識に、つれない態度がとれなくなったのだろう。
「彼女の家族を守ったって知れば、エレーヌも君に惚れちゃうかもね」
「ったく、お前はいちいちうるせえな。人のことより自分の心配しろよ」
「そっちのほうは枯れちゃってるから」
淡々とした物言いのロジェの視界にケレベルの住む家が入る。同じように顔を上げたバハルが、玄関前に初老の男が。
「ああいうところ、ミアと一緒だね。血は繋がっていないのに」
ミアの養父であり、ドーナス島の島長であるケレベルが走り、二人を出迎える。青年たちの肩に手をおいて労いをかけた。
「よく帰ってきた。ふたりとも、しばらく会わない内に男っぷりを上げたな。ミアが喜んでただろう? ……ってあいつはどうした?」
「ミアには使いを頼んだ」
養女の姿をきょろきょろと探す男に言うと、納得したように頷かれる。娘がバハルの頼みを断れるはずがないことは、ケレベルが良く知っている。
「で? 今回はどうしたんだ?」
「軍とやりやってな。早急に船を直せ」
「……ちょっと頻度が高すぎやしねえか? 半年前もそう言ってただろ」
ケレベルは顔をしかめ、半年前も同じように言われ半壊した船を急いで直したことを思い出した。さすがに修復は無理だと思った船を必死で直したケレベルが「またか」と落胆する。
「お前はいい加減船を大事に扱え。船ってのは繊細なんだ。大事な妻や恋人だと思って慈しめ。それに船はな――」
設計士であるケレベルが船を語りだすと止まらない。朗々と船の素晴らしさを語り始め、青年二人は疲れた顔で向き合った。
「はじまったじゃねえか、どうすんだ」
「どうって君のせいでしょうが。大人しく話に付き合ってあげなよ。僕は先に行く」
そして本当にその場をあとにしたロジェの背中を見てから嘆息する。いまだに熱い口調冷めやらぬケレベルへ目を向ける。
「ケレベル、あの船はたしかに凄い。だが俺が――俺たちがあの船に愛着を持てると思うか?」
冷たい眼差しを受けてケレベルが口をつぐんだ。自分が設計した船に対して自信はあるが、元々何のために造られた船だったかを考えればバハルの言うことはもっともだ。
「悪い。考えなしだった」
うなだれたケレベルを連れてバハルも彼の家へと向かう。落ち込んだ様子のケレベルへ背中越しに声をかける。
「俺は別に船に対して文句を言ってるわけじゃねえ。あれは良い船だ」
「いや、俺が悪い。――お前たちを乗せていた奴隷船を慈しめって言うほうが酷なんだ」
かつては自分たちを輸送するために、脅され鞭打たれながら船を設計したのはケレベルだ。最高級の船をと望まれた通りの出来栄えは、彼の主を満足させた。天上の船と呼ばれた奴隷船だったが、奴隷たちからみれば地獄への渡船となった。
バハルは嘲笑し、自分たちの乗る船を思い出す。黒旗を翻し、大海原をたゆたう船は海軍の船にもひけをとらない雄大さだ。
「船なんざただの道具だ。他の連中みたいに名前をつけ、大事にするなんて馬鹿げてる」
バハルは船に愛着などない。ただあの船が自分に一番身近に手に入れられる存在だった、ただそれだけだ。
「――いつかお前に、大事な者の名前を付けさせるような船を見せてやりたいよ」
「へっ。楽しみにしてるぜ」
皮肉げに口を歪ませる青年に、ケレベルは複雑な表情を浮かばせる。まだ年若い青年が自ら過酷な道を進みゆく現状に、齢を重ねた男はただ見守るしかないことに歯がゆさを覚えた。
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