第6話 闇市場
目の前にそびえ立つ蔦が張り巡らされた廃墟を見てごくりと唾を飲み込む。
(ボロボロね。こんなところに誰かいるのかな。でも、もう手がかりはないし……)
右手を添えて神殿の扉を押すと、耳障りな音をたてながら開いていく。そっと顔を覗かせると、蜘蛛の巣が張られた天井や埃まみれの床が目に入った。
「……お邪魔します」
立て付けの悪い扉を開け放し、一歩足を踏み入れると砂塵がルチアの鼻をくすぐり小さくくしゃみをする。
神殿の中に人気は無く、しんと静寂が広がっていた。使われなくなって長期間たったと思われる祭壇がもの寂しい。
「誰かいませんか……?」
問いかけに答える人物もおらず、ひとまずルチアは神殿を回って歩くことにする。歩くたびに埃が舞い、体中がむずむずと痒くなる。
(あれは……)
ルチアは歩みを止めて祭壇付近にある大きなタペストリーを見つめる。その下にある床だけが不自然にきれいになっており、良く見れば人間の足あとがその付近に散らばっている。
タペストリーに近づき、ひょいとそれを捲った先には小さな扉があった。手垢のついた使い込まれたドアノブを見れば、今もなお使用されているだとひと目で分かる。
(行ってみるしかないか)
ドアノブを回すと鍵はかかっていない。そっと扉を開き――目の前に広がった光景に呆然と立ち尽くす。
扉の奥には、崩壊しそうな神殿の中とは思えないほどの豪華な廊下が続いていた。金糸の刺繍が施された赤い絨毯は足音を響かせないほど重厚で、天井には磨き上げられたシャンデリアが飾られている。
「――なにをしている!」
突然男の怒った声がルチアの耳に届きびくりと肩を震わせる。声の方へ向き直れば、鞭を手にしたスーツ姿の男が厳しい顔でルチアへと向かってくるところだった。
「逃げ出してきたのか? 面倒をかけるな!」
鞭をしならせる男の剣幕に押されてルチアがなにも言えずにいると、男の腕がルチアの手首をとらえた引きずっていく。
「ここで待っていろ」
廊下の奥にある狭い部屋に押し込められ、男は踵を返す。混乱したままのルチアが部屋を見渡すと、同年代くらいの子どもたちが十名近く怯えた様子でこちらを見ていた。
「あんたも売られたの?」
戸惑うルチアに黒髪の少女が声をかけてきた。
「あたしアンブラっていうの。あんたは?」
なめらかな白い陶磁器のような肌とは正反対の艶やかな黒髪が、アンブラと名乗った少女を人形のように美しく見せていた。しかし愛らしい見た目とは別に、興味深そうに顔を覗きこんでくる彼女の口から溢れるのはあけすけな物言いだった。
「ルチアよ」
同年代の少女を前だったせいか、つい本名を名乗るとアンブラは驚いたように目を見開く。
「やだ、女の子だったの? 髪が短いから分かんなかった。よろしくね、ルチア。こっち座んなさいよ」
てきぱきと椅子を並べられ、ルチアは大人しく指定された椅子に腰掛ける。
「あの、ここはどこなの? 私いつのまにかここに入っちゃって」
「ええ!? あんた、ここを知らずに来たの? ここは奴隷市場で、あたしたちは商品」
「嘘でしょう!? ここが……?」
バハルの言っていた奴隷市場に、まさか本当に自分が来ることになるなど考えもよらなかったルチアはがたりと椅子から立ち上がる。
「逃げないと!」
「待ってよルチア、無理だって! 今の男見たでしょ? あいつがここの警備係よ。逃げたらあの鞭にやられるわよ」
「そんな……」
おとなしくアンブラの言われるまま再び椅子に腰を下ろす。途方にくれるルチアを気遣い、アンブラは表情を和らげ手を添えられる。
「あたしはね、安さが売りの娼館で働く母親から産まれたの。最初はあたしも娼婦になる予定だったの。ほら、自分で言うのもなんだけどあたし美人でしょ?」
唇を釣り上げて妖艶に微笑むアンブラに思わず頷くと、彼女は満足気にする。
「でも母ちゃんが男と一緒に娼館から逃げちゃって。娼館って脱走すると賠償金が必要なのよ。それがあたしに回ってきてさあ、一生かけても払いきれないバカみたいな金額。結局奴隷として元貴族の連中に売ったほうが金になるってことでここに来たわけ」
自分の母親の責任を取らされたというのに、アンブラの表情は明るいのがルチアには信じられなかった。
「アンブラはお母さんを恨んでないの? 逃げたいと思わない?」
「恨んでないとは言わないけど、逃げてどこに行くのよ。あたしは娼館の子どもで、奴隷になる運命なのよ。そんなのがまともに暮らしていける?」
アンブラに怒っている様子はなく、ただルチアの言葉に疑問符を浮かべているだけだ。
――搾取されるのが当たり前だった奴隷に何が出来るんだ。
(バハルが怒るのも無理はないわ……。私は彼女たちのことを何も知らなすぎる)
両親や姉のお陰でルチアはある程度の贅沢を許されてきた。アンブラのように娼館や奴隷などとは一線を引いたところで生活をしてきたルチアにとって、彼女たちの過去を想像することさえ出来ない。
「ルチアみたいに綺麗な子なら、良いところに貰われるって。大丈夫、心配しないで」
ルチアが落ち込むのを、今後の心配をしているからだと思ったらしい。アンブラの励ましに微笑を返す。
「私ね、姉を探しているの。その手がかりとなる海賊王に会いたくてこの街にきたのよ。こっそりここに忍び込んで、こんなことになっちゃったけど」
「海賊王?」
アンブラは眉間にしわを寄せながら首を傾げた。
「そうよ。ここに海賊王がいるって聞いたの。行方不明の姉の手がかりをきっと知っているはずだと思って」
「……ふうん。ルチアって、お姉ちゃん想いなんだ。でもさ、諦めなよ。たとえ間違えて捕まったとしてもあいつらは容赦ないよ。タダで奴隷が一人手に入ったって喜ぶだけ。このまま売られてそれでオシマイ」
アンブラの顔に浮かぶのは諦めだ。自分がなにをしたって、どうせ状況を打破することなど不可能だと、そうルチアに告げていた。
けれどルチアは頭を振り、微笑を浮かべアンブラの手を握った。
「私は何があっても諦めない、絶対に。たとえここで売られて誰かにつかまろうと、逃げてお姉ちゃんを探すんだから」
「……ルチアは、大事にされてきたんだね」
アンブラの呟きに、ルチアはきょとんと目を丸くする。自嘲するような笑みを浮かべた黒髪の少女は、そっと添えられたルチアの手から逃げた。
「私はそんなに強くなれないし、人を信じられない。どうやって逃げるの? 逃げてどうするの? なんでそうできるって信じられるの?」
アンブラは一度に言い切り、はっと小さく鼻で笑った。
「……アンブラ」
「ごめん、ひとりごと。気にしないで」
そう言って少女は暗い表情のまま口をつぐみ、ルチアもそれ以上声をかけられずにいた。
(なんで信じられるの、か)
きっと姉に守られるだけの環境で育ったままだったら、きっと今頃泣きべそをかいていただろう。
本当は今だって不安だし、震える身体を叱咤しながらここにいる。出来るものなら、怖いと叫んでしまいたい。
けれど自分の身の危険性以上に、姉に二度と会えなくなるということのほうが恐ろしい。ただそれだけだった。
そのとき、扉の開かれる音がしてルチアは口を噤む。
先ほどの鞭を持った男が部屋に入ると、子どもたちが一斉に見を固くし目が合わないように顔をふせた。
「お前と……あとそこの二人。着いて来い」
男は怯える少女、そしてルチアとアンブラを指し、思わず互いに目を合わせる。
動かない少女たちに痺れを切らした男が、右手に持つ鞭をぴしゃりと地面に叩きつける。風を切る音に、呼ばれた子どもたちが小さい嗚咽を漏らしながら立ち上がる。
「あたしたちも行こう」
アンブラが手を差し伸べ、ルチアもそれを握りしめる。
男の先導で三人が列を成して豪勢な絨毯の上を歩き、たどり着いた先はこれまでに見たことがないほど厳かな扉の前だった。足を止めた男に指図されルチアたちはその扉をくぐる。
「これは……」
そこは大広間と呼んで差し支えない広さを持った空間だった。シャンデリアは光を落とされ、灯された無数の蝋燭が壁一面に並ぶさまは不気味だった。
広間に一人分のベルベットで覆われた椅子が置かれ、五十は下らないと思われる数の人間が腰掛けている。いずれも仮面で素顔を隠しているが、覗く穴からは値踏みするような視線を痛いほど感じる。
「歩け」
少女たちが入ってきた扉は、広間から一段高い壇上に繋がっている。少女たちが壇上を歩くたびに仮面の男女の視線も合わせて動く。
「さて皆様、今度は見目麗しい子どもたちを集めてみました。こちらは五百万デリーから開始となります……おや高い?」
客席からの野次に顔の片側だけ仮面をつけた司会者の声がほくそ笑む。
「いえいえ。ご覧くださいこの美しさに愛らしさ。この子らだったら五百万どころかそれ以上の価値があるかと思いますよ。さて――おや、早速お一人手が上がりましたね」
客席から一人の男が手を上げるのをすぐさま見つけ、司会者は話を振る。
「黒髪の少女に一千万デリー」
澄んだ男の声が最初から高額を告げて場にどよめきが響き渡る。男の視線がまっすぐにアンブラに向かっていた。指名されたアンブラは不敵な笑みを浮かべてそれを受け止める。
「なら私はブロンドの少年に八百万デリーよ」
女性の甲高い声にルチアは固まる。壇上に立つブロンド、そして少年と呼べる人間は自分しかいなかった。
「あら、あれは女の子じゃないの?」
「あんな短い髪の女がいるか」
仮面の人間が好きな様に言い合うさまをみて、ルチアの心のなかで怒りがこみ上げてくる。
(信じられない、人をこんなふうに売るなんて……)
雰囲気に飲み込まれた会場では他の人間が競うように値を吊り上げ、ルチアを指名する人間も少なくはなかった。
「黒髪の少女、二千万デリー」
一番初めに口火を切った男の声が再度聞こえる。仮面からのぞく銀髪がわずかに揺れるのをルチアは見つめる。
「アンブラ、あの銀髪の人あなたに執心してるみたいだけれど」
「そんなにあたしが気に入ったのかな。身なりからしてもそれなりに良い家柄みたいだし、あの人なら売られても良いや」
淡々とした言い方にルチアの胸は痛む。
(アンブラも一緒に逃げられれば良いけど、それを彼女は求めていないのね……)
「さてさて、そろそろおしまいですか? 各々、最後に手を挙げた方を買い取り者としましょうか」
売買の終焉を告げられ、初めにアンブラの名前が呼ばれて彼女は壇上から降り立つ。銀髪の男のそばまで行くと、快活な少女はしとやかにスカートの裾を持ち腰を下げる。
「アンブラと申します。よろしくお願いいたします、ご主人様」
男は満足気に頷くと立ち上がり、彼女を連れ添い扉の外へと出る。その間際、もの言いたげな表情でアンブラが一瞬だけ振り返るがすぐに主人のあとを追って客人用の出入り口の扉が閉ざされる。
「じゃあ次は私の番ね!」
女の声はルチアを指名した人間のものだった。期待するようにこちらを見つめる女を、唇を噛み締めて睨む。
――その瞬間、バンッと大きな音がルチアの鼓膜を震わせ思わず耳を塞ぐ。
「っ……!?」
「そこまでだ!」
大広間に男の声が響き渡り、同時に無数の足音が押し寄せる。ルチアたちが入ってきた扉の前で、アッシュグレーの髪を一本に束ねた男が、ピストルを天井に向け威嚇するように吠える。
「この奴隷市場は我らが占拠した! 命惜しければ投降せよ!」
硝煙をあげたピストルを見た客席から悲鳴が上がる。慌てて駆け出す仮面の男女たちだが、男の仲間が扉の前で武器を手に立ちふさがるのを見て崩れ落ちる。
あっという間の出来事だった。ものの数分でその場を制圧した男たちに、ルチアはあっけにとられるしかない。
そしてピストルの音で耳を塞いでいたルチアは、壇上に立つ男の姿を改めて見て驚きの声をあげる。その視線に気づいた青年が心配そうな表情でルチアの顔を覗き込んだ。
「すまない驚かせたね、大丈夫かい?」
――アッシュグレーの髪をした、涼し気な目元をした美丈夫。
「海賊王……!?」
その姿はルチアが追い求めていた人物に違いなかった。悲鳴のような叫び声を上げるルチアに男は苦笑した。
「その名はあまり好きじゃない。ロジェと呼んで欲しい」
「ロジェ……さん。あの、お願いがあってあなたを探していたんです」
ロジェに詰め寄り、彼の綿のシャツを掴みながら懇願する。瞠目したロジェは必死に自身を見上げるルチアの肩に触れた。
「君は一体何者だ?」
「ルカと言います。姉を――エレーヌ・カーティスをご存知ですか?」
カタリナから聞いた話では、海賊王はエレーヌを知っているはずだった。本当かどうかは分からないが、一縷の望みをかけて叫ぶとロジェの顔色が変わるのを見て確信する。
「知っているんですね」
「……ああ、その名前は確かに知っているよ。君は、彼女の親族なのか。確かに似ている」
「はい。あなたは姉と知り合いだと聞きました。もしなにか知っていたら教えて下さい。姉は海賊と関わりがあったんですか?」
「ちょ、ちょっと落ち着いて」
勢い込んで言われた言葉にロジェは苦い顔をする。躊躇したように頭上に視線を泳がし、大きなため息をついてルチアの背後へと視線を送った。
「聞いていただろ、バハル」
「……ああ」
聞き覚えのある声にルチアは反射的に振り向く。人混みの中に、だらしなくピストルを持つ手で赤銅色の髪をかきむしる男を認めて息を呑む。
「バハルさん……?」
「この話、僕が聞いても仕方ない。エレーヌと知り合った人間、そして海賊王と呼ばれる男は僕じゃない。彼――バハルだ」
長い、長い沈黙が落ちる。無表情のロジェと気まずそうなバハルの顔を交互にに見つめてからルチアは大声を上げる。
「ええ!?」
「うるせえ、俺はあいつの家族構成まで知らねえんだよ。それにお前、姓は名乗らなかっただろうが」
確かに、馬車の中で伝えたのはルカという偽名だけだ。そこから、エレーヌ・カーティスを連想させろというのが無理な話だった。
「な、だって、宿屋でも海賊王はアッシュグレーの髪をしているって」
「あんまり顔が知られると俺が動き辛いから表向きはこいつを出してるんだよ」
ロジェは肩をすくめて二人のやりとりを見る。
「僕は一度も、海賊王なんて恥ずかしい名前を名乗ってないよ」
「俺だってあんなクソみたいな二つ名を名乗ったことはねえよ」
騒然とする会場は、今海賊王の手下たちが会場にいる全員に縄を掛けているところだった。その中にシャットの顔も見つけ、本当に彼が海賊王なのだと知る。
「……あの人たちは一体何者なんですか?」
仮面に素顔を隠した男女が連行される様子を見てルチアが呟く。人道を外れた行為を平気で行っていた彼らに同情は出来なかった。
「あいつらのほとんどは、元貴族だ。失われた王家に縋れなくなった哀れな人間ども。これから裁判にかけられ、法に則り処罰される」
王家の断絶と共にその爵位を奪われ平民と同等となった貴族だったが、実際にはまだ根強い力を持ち続けている。
バハルは腰にピストルを収め、憎々しげに彼らを見やる。
「そういえばバハルさん。そのピストルは……」
一緒に旅をしていたときには所持していなかったはずのピストルは、今はそこにあるのが当然のようにバハルの腰に携えられている。
「普段の獲物はこっちだ。街中じゃ大っぴらにこんなもの、持ち歩けないけどな」
ポンと愛用のピストルを見せつけるように叩く。黒いピストルがその声に反応するかのようにきらりと光った。
「とりあえず、一旦ここを出よう。ここじゃ満足に話もできないだろうし」
ロジェの言葉にルチアも頷き、彼らのあとを着いて行った。
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