015 - hacker.pat(apple);
「がおーはあそこでねてるもん! もうすぐがおーになるんだもん!」
シィの発言は僕達に劇的な混乱をもたらした。泡を食って壁の中にいる商隊を見てみるが、馬車を牽く馬達は起きているように見える。干し草が積まれていなかったのか、比喩でなく道草を食べている。
寝ているのは、焚き火の周りで横になっている数人の商人達だけだ。つまり、シィの言う事が正しいなら魔物になるのは――
「がおーはねている? それってもしかして……」
「ああ、魔物になるのは……人間なのだろう」
口を真一文字にしたボスの言葉に周囲は騒然となる。ブライさんは血の気が引いて真っ青になっている。シィは突然周囲が騒がしくなったのに驚いたのか、不安そうにしてキョロキョロしている。
「ちょ、ちょっと待ってくれないか。人間が魔物になるなんて聞いた事がないよ? それもよりにもよって、うちの者が……ありえないんじゃないかな? お嬢ちゃん、嘘をついてはいけないよ?」
落ち着きを失ったブライさんがシィを強い調子で問い詰める。信じたくない気持ちはわかるが、幼い子ども相手には酷な態度だ。嘘だと決めつけるのはまだ早い。
「ほんとうだもん! シィうそついてないもん! ばぐなんだもん!」
「いやしかしね――」
「ちょっと待って下さい」
うるうると涙目になったシィが潔白を主張するが、その中に聞き逃せない単語が紛れていた。慌ててブライさんを制止してから、えっぐえっぐと本泣きに入る寸前のシィの頭をゆっくりと撫でて、落ち着いた表情と声でシィに問いかける。
「シィちゃん。今、『バグ』って言わなかった?」
「う、う、うん……ばぐ、だよぉ」
「その『バグ』っていうのは、誰から聞いたのかな?」
「おとーさん」
ゴシゴシと目をこするシィがポツリとつぶやいた。どうやらシィの父親は、人間が魔物になる現象の事を『バグ』だと表現していたらしい。
「おとーさんかあ。シィちゃん、おとーさんはどこにいるの?」
僕の問いかけに、シィは泣いていた時は別種の悲しそうな顔になる。
「おとーさん、いないの。お空の上に、いっちゃったの」
シィの答えで辺りに沈黙が落ちる。ボスが痛ましい表情になっている。残念ながらシィの『おとーさん』は天に召されてしまったようだ。残されたシィの心情を思うと、僕も思わず言葉に詰まる。
しかし、困ったことになった。『バグ』に詳しいと思われるシィの父親に会えないとすると、今目の前で起こっている状況をどうにかする手段がわからない。
「そっか……それは悲しいね」
「うん……あのね、でもね、シィね、おとーさんのね、おしごとしてるの」
「お仕事?」
「そうだよー。あのね、ばぐをとじこめるの!」
「バグを、閉じ込める?」
シィから出てきた意外な言葉に驚き、思わず聞き返してしまう。バグを閉じ込めるというのは、バグを直すという意味だろうか? シィの父親はテスター? それともプログラマ? そもそも、人間が魔物になるバグを閉じ込めるってどういうことだ? そしてそんな仕事をこんな小さなシィがこなしているのか?
様々な疑問をぐっと飲み込んで、まずはシィの頭をなでて褒めてあげる事にした。
「そっか、えらいね」
「えへへ!」
先ほどまでは曇りのち雨だったシィは、もう晴天のように屈託なく笑っている。子供は気分の天候がころころと変わるから扱いが難しい。お世話をする世の中のママとパパ達の苦労がしのばれる。
とにかく、疑問をひとつずつ解消していかなくては話が進まない。
「シィちゃん、バグってどんなものなのかな? 目に見えるの?」
「え? ばぐはまかくだよ?」
「バグは魔核? じゃあバグで魔核がおかしくなるって事かな?」
「うん! あのねー、まかくがへんになるの。そしたら、まかくがみんなにうつるんだよ! そしたらがおーってなるの」
「なるほど、そっかぁ」
要するに突然変異的に
それではまるでウィルスじゃないか。
本来なら人には感染しないはずのウィルスが、突然変異によって進化して感染するようになる。弱っている相手にしか感染しないのは免疫系が抵抗するから。感染すると数日間の潜伏期間を経て発症する。よくよく考えてみれば符合する点ばかりだ。
それに、魔物は雌雄の区別がなく交尾による生殖活動を行わないという。代わりに魔核を増やして他の生物に与える。宿主に寄生して増殖するという性質は、まさしくウィルスのそれだ。
つまり魔核とはウィルスで、魔物とはウィルスの感染者だったのか。
足元でくつろぐバレットをちらりと見下ろす。視線を察して「くぅん」と僕を見上げるバレットは魔物である。ウィルスホルダーを連れ歩いてる事になるけど……まあ、バレットは大丈夫だな。うん。
「あの壁はシィちゃんが作ったのかな?」
「うんっ!」
僕とシィの会話に再び周りがざわめいた。予想はしていたので、僕には驚きが少ない。僕がスクリーン経由で壁を通ろうとしていた事に気づいていた彼女は、おそらく壁の関係者だと思っていたのだ。
シィが言っている「バグを閉じ込める」とは、壁を設置することで突然変異のウィルスが感染によって蔓延しないよう封鎖して、水際作戦で防疫しているという事なのだ。恐らく突然変異の魔核は、増殖し始めると歯止めが効かなくなる。行き着く先はバイオハザードだ。
こんな小さな子の手によって、世界の平穏が守られていた事にゾッとする。それと同時に、小さい子供に重要な仕事を託した『おとーさん』に憤りを感じた。
しかし、もはや彼はこの世にいない。彼の最期がどのようなものだったのかわからないが、もしかしたらシィにしか託せない状況だったのかもしれない。
「他にシィちゃんを手伝ってくれる人はいないの?」
「ううん。いないよー」
「おかーさんや家族の人はいないのかな?」
「おかーさん? おかーさんってだれ?」
どうやら、シィは父親と二人で暮らしていたようだ。母親はシィを産んだ後に亡くなってしまったのだろうか。それとも離婚かもしれないが、シィは自分の母親を知らない。今はシィが一人ぼっちで『おとーさん』の仕事を受け継いでいる。ギュッと胸が切なくなった。
「そっか。シィちゃんは偉いね。おとーさんがいなくても、ずっと一人でバグを閉じ込めてたんだね。みんなが平和に暮らせるのは、シィちゃんのお陰だね」
「え、えへへ……そんなことないよぅ……」
シィは頬を真っ赤に染めて身悶えしている。
「でもね、せっかく閉じ込めてくれたけど、僕は出来ればあそこにいる人達を助けてあげたいんだ。がおーにならないようにする方法はないのかな?」
「え? んーとね、んーとね、『まかく』をとっちゃえば、がおーってならないって、おとーさん言ってたよ!」
「魔核を取る?」
「うんっ! でもね、『まかく』をとるのはあぶないから、シィはやっちゃだめって。かわりに、わーってならないようにしなさいって」
ウィルスを取り除けるならそれが一番良いだろうが、魔核を取るのが危険とはどういう事だろうか? 首を捻ると、隣にいたボスが補足してくれた。
「それは恐らく魔核の抵抗の事だろう。動物に取り憑いた魔核は数日間なにもせずに体内に潜んでいるが、その間に取り出そうとすると抵抗して一気に動物を魔物へと変貌させる」
「そんな……じゃあ、魔核を取り出すなんて不可能では?」
「いいや。急激な変貌では魔核と身体の融合が十分ではないらしくてな。魔物になっても露出している魔核を摘出できれば元の動物へと戻ると言われている。しかし、当然それをするには魔物の激しい抵抗を受けるから普通はそんな事をしない」
なるほど。それは確かに危険だ。シィにはとてもじゃないが無理だろう。
シィの父親は魔核に侵された人間の救出はあきらめてバグ魔核の拡散だけを防ぐように、発生した周辺を丸ごと封鎖する事だけをシィに指示していた。
仕方ないとはいえ弱者を切り捨てる冷酷な方針だ。恐らくシィは父親の指示に従ってるだけで、魔核に侵された人間を閉じ込める事の意味をあまり理解していないのだろう。だが、人間が魔物になるという恐ろしいバグの拡散を防いでいるだけでも感謝すべきだ。
とにかく、対処法はわかった。危険である事もわかった。
それでも。
シィへと向き直りたずねる。
「シィちゃん、教えてくれてありがとう。僕なら危なくても魔核を取り出せると思うから、あの壁を通ってもいいかな?」
「バンペイ!」
ボスのとがめる声が響く。真摯に心配してくれているのがわかる。
「バンペイ君ありがとう。でもね、私の部下を助けるためとはいえ、君の命をかけてほしいとまでは思わないよ。いくら君が非常識だとしても魔物は危険だ。支援の件なら、ここまででも十分な働きだよ。後は私達に任せてほしい」
ブライさんの説得が胸に響く。彼の部下の命が危ないというのに、僕の心配をしてくれているのがわかる。
「そうだぞバンペイ! 確かにバンペイならと思わなくもないが、やっぱり危険だ! わざわざ危険を冒さずとも、あと数日したらハンター達だって集められる!」
そう、確かに魔物狩猟のプロであるハンター達に任せた方が確実だろう。ただ、残念ながら今回はその手は使う事ができない。
「残念ながら……時間切れが近いんです」
そう言いながら壁に貼り付けられたスクリーンを指し示す。
そこには、壁の中にいる人達の情報が書かれている。名前や年齢などの項目が並ぶ中、よく分からない項目もいくつかあった。その中に「ステータス」という欄がある。
その横に書かれているのは「ノーマル」や「インフェクテッド」の文字。そして、「インフェクテッド」の横には刻々と減り続ける数字が表示されている。
訳すならば「状態:感染」だ。減り続ける数字は発症までのカウントダウンとしか思えない。そして、その数字はもはや残り少ないのだ。減りの速さから見て、半日も持たないだろう。どう考えても、ここから出発してハンター達を集めるには時間が足りない。
マギランゲージに疎い二人にその事を説明すると、絶句して黙り込んでしまった。
「だから、ここは多少危険でも僕がいきます」
「それなら私も――」
「いえ、ボスはここで待っていてください」
バッサリと提案を断った僕に、ボスは口を尖らせた。ありありと不満が見てとれる。
「僕だけで大丈夫ですよ。ボスは我が社の社長なんですから、後ろでどっしりと構えて部下に命令していればいいんです。その方が僕も安心できます」
「むう……バンペイも口がうまくなったな。わかった。そういう事ならバンペイに任せよう。ただ一つ覚えていてくれ。バンペイが私を唯一の社長だと呼んでくれたように、私にとってもバンペイは唯一の部下であり、我が社の
「わかりました、ボス」
ボスの言葉に神妙に頷く。もちろん僕だって死ぬつもりはない。異世界に来てせっかく拾った命を無駄にするわけにはいかない。何より、ボスを一人にするわけにはいかなかった。
「すまない、バンペイ君……君に頼るしかないようだ。腕利きのハンターの一人や二人、連れてくればよかったんだが……後悔先に立たずだな」
「いいえ、助けるように頼まれたのだから最後まで完遂しますよ。それが僕なりの矜持です」
「バンペイ君……ありがとう」
深々と頭を下げるブライさんをなだめつつ、シィへと向き直る。
「シィちゃん。改めて聞くけど、壁を通ってもいいかな?」
「え、えーと、でもね、でもね、あぶないんだよ? あのね、がおーってなるんだよ?」
「うん。でも大丈夫だから」
「うーん、じゃあいいよー。あのね、シィじゃ『まかく』とれないから、ごめんね」
しょんぼりとしてしまったシィの頭をそっと撫でる。
「壁を作ってくれてるだけで十分だよ。シィちゃん、ありがとね」
「えへへ……」
赤くなったシィは熟したリンゴのようだった。
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