第3話 程度の問題2
都雅が無防備に踏み出したところで、魔族は声をあげた。
「近づいてきたところでどうする気だい」
「そんなことお前の知ったことじゃないだろ」
立ち止まらずに、不機嫌に応える。無茶だと分かっている。でも、近づかないことには何もできない。
さらに一歩踏み出す、都雅の方へ風が動く。踏みとどまるのが精一杯なくらいの豪風だ。ぶつけられる害意の塊に、都雅は両手を伸ばして、結界を張って身を守る。さらにもう一歩。
守りの結界の中にいても、びりびりと空気が震える。結界を支えて突き出していた手が、力負けして痙攣し始めている。また、折れるかも知れない。思いながらもさらに一歩。
突然、都雅の身が軽くなった。都雅自身の力の膜の上から、誰かが結界をはってくれている。誰がその力を使ったのか、でもなんとなくわかった。さっきと同じ祝詞だ。
踏みとどまる都雅の方に、魔族が踏み出してきた。以前、魔族の腕の一振りは、都雅の腕をへし折った。同じように突き出してくる。けれども、闇の塊のような魔族の後ろに月を見ながら、都雅は下がろうとしなかった。ここで退いてしまったら手が届かない。
逃げようとしなかった。その彼女を守っていた力を魔族は素手で振り払い――雅毅をさらったときのように、二人分の力ですら簡単に引き裂いた。そして都雅の右肩を刃のような魔族の爪が掴む。
痛みも、血が吹き出るのも気に止めず、都雅は踏みとどまっている。肉をもぎ取られそうになりながら、反対側の手を伸ばした。震える指先は、弟を解放するまでにはいかない。ただ少年の頬をかすめる。触れたか触れないかも分からない。感触も残らなかった。
けれどその意志は、無駄ではなかった。
女の腹にあった雅毅の顔の、その瞳が見開かれる。
その瞳は、月を宿してやわらかい光を帯びていた。けれど黒い瞳は、しっかりと世界を見ていた。目覚めにまどろむことなく怯えることもなく、しっかりと前を見据えていた。
そして少年は、唇を開く。
「お姉ちゃん」
しっかりとした声は、間違いなく少女を呼んだ。
「お姉ちゃん、ごめんね」
都雅の怪我を見て、雅毅は、何よりもその一言を口にした。
――生きている。大丈夫、無事だ。
無意識にほっとしながら、都雅は冷たく返した。
「お前には関係ない」
――雅毅には関係ない。自分の意志で、自分の都合で来てこうなったんだから。
「……うん。ごめんなさい」
後悔の言葉に、応える声はなかった。雅毅に気をとられた都雅へ、魔族の手が伸びていた。肩を掴んでいたほうの手を離し、再度突き出してくる。
普段の都雅なら、攻撃を受け止めるよりも、先手必勝を選ぶ。むしろ新藤家のときとは違い、後ろにかばう者がいない以上、まずそうしていたのだが。ほんの少しひるんでしまった。
やはりためらってしまった。雅毅が覚醒してしまっては。雅毅の声が、聞こえてしまっては……。攻撃なんてできなかった。
都雅は無意識に腕でかばったが、その場から彼女を押しのける手があった。
「下がってろ」
都雅を後ろに押しのけてから奏が割り込んで、爪を振りかざして襲いかかってくる魔族の攻撃を受け止めた。いつの間にか、ぐったりと気を失った少女を抱えている。
「協力してやるって言ったろ。引き剥がしてやるから、あんたはその後のことでも考えてろ」
魔族に捕えられていた少女を都雅に渡すと、彼は空いたほうの手を伸ばそうとした。そんな彼に対し、魔族は冷ややかに言う。
「そう簡単にいくと思うか」
細い腕からは予想もつかないほどの力で、掴んだ奏の手を捻りあげる。そのままへし折った。
「奏!」
奏自身が声をあげる前に蓮が叫ぶ。怒りのこもった声に、奏は思わず笑ってしまう。
雅毅が、自分を助けようとしてくれた人が傷ついたのを見て、声をあげた。
「どうして……!」
眉を顰めている。苦しそうな、もどかしそうな表情は、何かをしようとしてうまくいかないことに苛立っているように見えた。顔を動かそうとしているのが見えるが、身動きがとれないのだろう。
魔族のまわりで何かが、動く。風ではない何かにあおられて、魔族自身の髪が、そして間近にいた奏の髪が揺れる。都雅の髪とスカートが、まとっていたマントがあおられる。
魔族の力かと思い、奏は魔族の手を離した。至近距離で魔力での攻撃をされることだけは避けたい。
そんな彼の後ろから、声がする。
「雅毅やめろ」
気配を感じて、都雅はきつく声を出す。
何か尋常でない力が働く気配。それは唯人が起こすことの出来る現象ではない。この世ならざる者たちに似ている。それゆえに、都雅自身が家を出ざるを得なくなった、その力が動こうとしている。
あんな家に関わりたくないと、今でも堅く思う。母親はともかく、父親のことだって良く思っていない。昔からあまり家にいない人だった。各地を、世界を飛び回り、仕事ばかりをしていた。忙しいのは仕方がない、だがそもそも家のことに関わろうとしない仕事人間だった。だから都雅が今、どういう生活をしているかすら知らないだろう。都雅が家にいた頃だって、母親が彼女につらく当たっているのを知っていたくせに、関わろうとしなかった、無責任な父。
家族は嫌いだ。
幼い頃は都雅だって懸命に母親の気を引こうとがんばっていた。どうやらこの力が良くないらしいと分かって、絶対にそれを使わないようにしようと、幼いながらに心に決めていた。それでも母親は向いてくれない。母親が疎むから、まわりの誰も向いてくれない。
「でも……」
雅毅が、抗議の声をあげかける。都雅はそれをも聞き流すことが出来なかった。
――雅毅は嫌いだ。
嫌いだ、そんなの今更だ。
雅毅がいなければ、いずれはあたしの努力も実っていたかもしれない。もう少し今より、何とかなっていたかもしれない。でも、雅毅が生まれたことで、まわりの皆の目があの子の方へ向いてしまった。あの孤独と無力感。
「手を出すなって、言ってるだろうがっ!」
怒鳴った声には、やはり容赦がなかった。
――なんでだ? 自分でも不思議で仕方ない。どうして、ここまで必死に止めなければならないのだろう。どうして? 雅毅を巻き込めば、また嫌な思いをすることになるから?
それは十分な理由だった。でも、違う。それだけじゃない。
血の中に眠る力があるのだと、祖母は言っていた。母親にあり都雅にあるその力が、雅毅にないとは言い切れない。むしろあると考える方がきっと正しい。そして気にかかっていたことがあった。
魔族は長い間封じられていたのだから、始めから力を失っていたはずだ。人間である都雅から見て、魔族の力が尋常でなくても、実際には蝕まれてはいたはずだ。その上、都雅との衝突でさらに消耗したはず。ここ数日間、たくさんの人間が妙な死に方をしたという話は菊に聞いていた。だが、長い時間をかけて奪われ続けたものを、そんな程度で急激な回復が出来たとは思えない。無理な話だ。けれどそれが出来たのは、雅毅が居たからだった。内に大きな力を秘めた雅毅を取り込んで、引き出して、自分のものとして使っていた。
始めに衝突したとき、魔族が雅毅を襲うことが出来なかったのは、これだった。少年は無意識に力を使い、ほんのわずかでも抵抗した。それが魔族には予想外で、攻撃をためらったのだ。
もう手遅れかもしれない。だが、巻き込みたくないというのは、都雅自身の思い。
優しい雅毅まで、こんな馬鹿げたことに巻き込みたくはない。嫌いだったはずなのに。憎んでいたはずなのに。でも。いくら嫌いでも。それでも願ってしまうのは違うことだった。
――だって。
雅毅が嫌いなのは、都雅の勝手だ。都雅が嫌な目に合ってきたことに、雅毅自身は関係ない。
都雅の勝手と、母親の勝手と、雅毅は関係ない。
――だって、弟じゃないか。
嫌いだからって、殺したいほど憎んでいるわけじゃないんだから。雅毅だけは。あの優しい弟だけは、自分みたいになってほしくない。こんなつらさを味わってほしくない。
幸せにくるまっていられるのなら、そのままでいられるのなら、その方がいいに決まっている。
だから絶対に何があっても、手出しはさせたくなかった。
「でも、お姉ちゃん。ぼくは」
雅毅は、強く言葉を口にした。
「他のことなら、言うことを聞く。でもぼくは知ってる」
懸命に戦う姉の姿を知っている。いつもぶっきらぼうでも、決して自分を邪険にしたりしないことを知っている。傷だらけになりながら守ってくれた。今だってあんなに傷ついて、それでも助けてくれようとしていることくらい、分かる。
嬉しかった。
「ぼくは、お姉ちゃんが好きだから。ぼくのために戦ってくれるお姉ちゃんの、力になりたいんだ」
どうして自分だけ助けを待っていることが出来るだろう?
「何よりぼくがぼくのために、ぼくが生きるために戦うんだ。お姉ちゃんに止める権利はないよ」
彼は無意識に自分の中の力のことを悟っていた。確たる形のないものではあったけれど、自分の内にあるもののことは分かる。どうすれば操ることが出来るのか、その方法は知らなかったし、姉のようにうまく使うことが出来るとは思えなかったが、それはきっと彼の強い意志に答えてくれる。その確信だけはあった。
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