3-16

 君はきれいだから。

 きっと恨むのはつらいよ。

 柔らかく、聞いたことのある声が響く。

 現実のものではないと思ったのは、それがどこかくぐもって、遠かったからだ。

 それと――三船にしては、ずいぶん幼く聞こえたから。三船だとしたら、かなり昔のことなのだろう。

 少女の姿が、闇の中におぼろげに見える気がする。白い着物で、裸足で、赤い唇はひびわれて、血の通わないような白い手が、宙をさまよう。

 それを少し離れたところから、若者が見ている。いたましいものを見つめる眼差しで。まだ、髪は今ほど長くなく、背も高くなく、普通の様相で、彼は少女に話しかける。

 きっと、救いたい。同情ではなくて、義務として。

「うそつき」

 はっきりとした声が、由良の耳朶を打つ。すぐ真後ろから聞こえたそれに、由良は飛び跳ねて逃げようとする。由良の、以前より短い髪を、追いかけてきた白い手が掴み損ねる。

 舌打ち、の気配。

「見ないで」

「見ないで、って……これは貴方の夢?」

「夢ではない」

 これは過去。あったこと。終わったこと。消えないこと。

 疎ましい歴史。

 おぞましい姿。

 野山で遊んでいた昔の姿も、村人を祟り殺して石を持って追われた姿も、旅芸人となった姿も、いくつもが重なりあって一斉に流れ出した。

 反響する声、色、におい。土を引きずる死体の気配、爛漫と咲き誇るむせかえるような野山の草花のにおい。誰かの優しい掌に、誰かが冷たく誰かを打ちすえる痛み。

 とっさに両手で耳を塞いだが音は聞こえる。目を閉じて手で押さえても情景は消えない。

「いや」

 嫌だ、一気に、他人の感情や意志に乗っ取られて視界を埋め尽くされていくようだった。

「梓!」

 自分の犬を呼ばわると、辺りが静かになる。

 子犬が駆けてきて、幼い姿の由良に散歩に行こうと、楽しげに吠える。

 あんなものはなかった、と言いたげな寂しい横顔で、白い少女がそれを見送る。

「同情を、してはいけない」

 肩に重たさが乗る。由良の肩に手を押しつけて、三船が立ち上がるところだった。

「どこにいたの、」

「その辺りに。……気絶していた、のかな」

 形のないものだから、我に返るまで消えていたのかもしれない、と三船が怖いことを言った。

「引きずられるな」

 若い三船が、目の前を横切っていく。どこか映画館で見るものに似て、平らで明るい光が、うつろに駆けていく。

 彼がいくらか大人になり、村の娘と婚礼をあげて、その娘が奥の間に引きずり込まれ、いろいろな人間の手足をくっつけた肉だるまになって出てきて、人々に悲鳴をあげさせ、涙を流しながら青田を駆け巡る。

 こ、ろ、し、てえぇえ。

 死の際にある生き物の、それでも殺すものを呪わんばかりの叫びが、山の中に響いていく。

「見るな。聞くな。知ろうとするな。多くの者が無念に死んだ。多くの恨みが積み重なっている。だから」

 見たら迷う。同化する。

「アレを救いたいのであれば、呪う者の声など、聞くな」

「三船は、あの子を助けたかったの? なのに……」

 三船は助けたかった、でも、恨んだ。

 許せなかった。

「怒りも恨みも永続しない、生きていれば忘れてしまうことが、できうる。でも、死者はそうじゃない」

 何度も、激烈な最期だけを思い出して、それだけにとらわれて。

 生者である子孫が、傷を癒すような平穏な花を手向けて、すべてを眠らせるような経文を唱えて、忘れさせようとしても。傷の原因となったモノがまだ、ここにいる。

 彼女がいる。

 だから忘れられない。許せない。

「私は、彼らの恨みをとどめるものでもある。私の方が、彼らより声が大きい。表に出てきやすい。力がある。だから……」

 呪いが溢れないように、とどめている。

 彼女から生まれた呪いを封じるだけではなくて、彼女によって壊れた者達の呪いを、鎮めていたのだと。三船は小さな声で告げる。

「だから言ったんだよ。解放なんて……本当にできるか? と」

 彼女だけを、解放して、それで己の先祖はどうなる? 許さないだろう、先祖たちの恨みは晴れない。それを背負えるか。

 由良は言い返す。背負えなくてもいい、彼女を解放したら、きっと、他の者達も静かに眠れる。


 泣いている。

 小さな女の子が。

 お前達みたいには生きられなかった。

 誰のことも望まなかった、ただ己の自由と楽しみのために歌い、舞った。

 人の都合で押し込められた。

 もし。

 もしも。

 人を愛しいと思えば、何かが違っていたのか? この力がなかったら、普通の、美しい娘として暮らしていたのか?

 こんな、ことには、ならなかったのか。


「私を、祓うなりねじふせるなり好きにするがいい、これ以上、二度と辱めないで」

 凛と、声が響く。

 これまでの高笑いや、恨みを吐く口調とはどこか違う。

 泣いた後の、どこか毅然とした、秋風みたいな声だった。

 恨み続けるのは毒だ。

 いっときでも怒りを忘れてしまうのが人間で、そうできなくなったから人間ではなくなった。

 彼女はもはや実体ない幽霊で、怨霊で、悪意しか残らない。

「ううん、悪意だけじゃない……悪意と、恨みが残っていて、ここに縛り付けられている、そのことに自分で苦しんでるんでしょう」

「分かったふうな口を……!」

 大風が吹いて、由良の頬を切りつける。

 辺りは暗く、はらはらと様々な映像がこぼれては、すうっと闇に溶けて消える。

 人の一生なんて一瞬で消えてしまうのだ、とでも言いたげに。

 怖い、けれど、由良は引けない。

「昔、神様だって苦しいときがあって、救いを求めて仏教にも手を伸ばしたんだって。友達が言っていた。私たちが……ご先祖様がやってしまったことで、苦しめてごめんなさい、貴方が解放されたいのなら、私も解放したい」

「ここから出して」

 暗く淀んだ声が返る。由良は首を振った。

「だめ、貴方はまだ怒ってる。それをぶちまけたところで、いったん気が済んで、でもそのまま成仏できる?」

「やってみなければ分からない。案外すぐに消えるかもしれない」

「旅行雑誌見た? 友達になって、近場の温泉にでも行ってみない?」

「外に出たい」

「温泉を呪うのは無しだよ? それとお小遣い的にあんまり遠出できない……まぁ貴方一人なら、幽霊みたいなものだから、旅費もいらないのかな」

 ――幽霊。

 しばらくのこと、間があった。由良はそのまま言葉を続ける。

「そう。実体がないから、一緒に行っても他の人に見えなければ、いるって分からないし……でもいるって分かってて運賃とか払わないのって、何か詐欺っぽくて落ち着かないから、やっぱり払おうかな。席を取るなら、席料っているよね」

 不安を塗りつぶそうとして、由良は軽く話し続ける。

 隣に梓がいなくて、実体のない三船くらいしかいない。

 いざというときに――戦えるのは、自分だけかもしれない。

「あれっ」

 不意に辺りが少し明るんだ。闇が灰色になっている。

 目を凝らすと、ふすまや柱が見えてくる。

 どうやら、奥の間に「戻って」きたようだ。今までは、単に彼女の内側に――記憶か何かに取り込まれていただけなのかもしれない。

 ここを奥の間と呼んではいたが、まだ、ふすまがもう一枚あった。

「大丈夫?」

 つい、由良は聞いてしまう。

 建具の向こうに、気配がある。

 身じろぎする音。

 ふすま越しに、そう、と小さな答えが返る。

「私は体がない。だから、自由だった」

 ――自由。

 由良は、その意味を考える。

「自由、って……」

 ずっと、ここに閉じこめられていたのに?

「……私はずっと、自由だった……」

 少女の声が、ぽつ、と何かに気づいたふうに呟いて。

「あははははははは!」

 けたたましい笑いとともに、建具が引き倒される。

 風が手当たり次第に物をなぎ倒していく。

「由良!」

 梓が駆け込んでくる。

「ふすまのくせに破れないし、やっと開いたと思ったら今度は何だ!?」

「だめ! 梓、何もしないで!」

「何言ってんだバカ野郎!」

 由良に覆い被さり、梓が伏せる。あの子を蹴り飛ばすとかそういうことをするのかと思ったので、庇われて驚いた。

 梓はいつも、由良を守ろうとしてくれた。広くて温かくて、安心できる場所だった。

 不意に風がやむ。

 ぽっかりと、真上に穴が開いていた。屋根がなくて、夜空が広がっている。

「あっ」

 上から、出てしまうのか。

「自由って、幽霊だから壁がすり抜けられるとか、そういう意味で言ったんじゃないのか……」

 お札とか縛り付けるための術だとかのおかげで、ここにいたのでは、ないのだろうか。「生前ここから出られなかった」から、死んだ後も、出られないのだと、本人が思いこんでいただけ、だったのだろうか。

「梓、行くよ」

 梓が安心して退いてくれるように、由良はできるだけ優しい口調で言った。

「行こう」

 引きはがすように、梓の腕を押し退ける。困ったような、でも強くは止められないような、妙な顔で梓が由良を見ている。

「梓。そんな顔しないで」

「お前はいつも、分からない。何にも考えてないだろう」

「うん」

 開き直ったら、ため息をつかれた。

「私だって、梓のことが分からない」

「は?」

「いきなりコンビニでバイト始めるし、知らないうちに新聞読んでるし、気づいたらテレビで英会話講座まで見てる!」

「最後のはたまたまつけっぱなしだったからだろ」

 夜風が、燐光をはらんでふわふわと、天井に開いた穴からおりてくる。

 早く、行かなくては。

 冷たく、けれどどこか寂しい、秋の気配が頭を撫でる。

「あのね梓。私は梓が大事。風邪引いたりしんどそうだったら心配だし、何考えてるか分かんなくていきなり留学したらどうしようって思ったりもする」

「留学以前に、俺は学校に行ってないだろ」

「それ。そういう、世の中のことが分かってきてるのが、……何かね、ぜんぜん知らない世界に行っちゃう感じがして、怖かった」

「俺も」

 同じだと、梓は答える。

「でも、お前は行くんだろう」

「……うん」

 どちらかだけ、変わらないでいてくれというのは、土台無理な話だ。

「わがままでごめんね」

「もう聞いた」

「アレも出ていっちゃったし……」

「そうだな」

 鼻で笑われた。

 ざあ、ざあ、と、夜風が闇雲に野山を揺らしている。

「……行こうか」

 由良は、ささくれた家の土台を踏み越える。

 振り返らなくても分かる。梓がついてきている。

 庭にいるはずの八房も静かだ。彼も戦っていたのだろうか? 怪我をしていないといい。瑠璃部も姿がない。まさか、逃走していないとは思うが――家人の姿もないので、もしかすると、あの子を捕らえていたものが全部、解除されてしまったのかもしれない。それで、みんな、……消えてしまったのか。逃げてしまったのか。

 もしかしたら、梓と二人しか残らないのかもしれない。梓も、消えるかもしれない。

 でも、由良は足を止めない。

「私が梓を縛るかもしれない、でも、私が行くように、梓も、自分で行きたいところへ、行って」

「……言われなくてもそうする」

 重荷になりたくないからと、梓は落ち着いた声で答える。


「……嫌だねえ……歳は取りたくないもんだ」

 柱の陰の暗がりで、三船の声がぽつりとぼやいた。

「こんな局面に出会うとは、思わなかった。柔軟性があるときに出会いたかったよ」


 夜風が払われて、広々とした紺色の空の下に大きな羽が広げられる。家一軒分はあろうかという蝶が、ゆっくりと羽ばたいている。鱗粉が舞い、触覚が伸ばされる。

 びっしりと産毛で覆われた顔。表情の分からない昆虫の目でこちらを見ている。

 緊張で全身がこわばったが、由良は梓を連れて庭へ出た。

 できるだけ近づこうとして、庭を越えて田畑のあるあぜ道を歩く。

 この鱗粉が、風が、これから、人々を恨みのままに呪って壊していくものだろうか。

 今のところはそうではなさそうだ。

 由良は鼻がかゆくもなっていないし、息も苦しくない。

「……行ってしまうの?」

 ぽつ、と呟くと、蝶の羽がいっそう大きく振るわれた。ちょっと吹き飛ばされそうになる。

 もう、人間の言葉は話さないのだろうか。

 蝶に見えるけれど、たぶんこれはあの少女だろう。いや、彼女は自分に実体がないと気づいてしまったのだから、本当は幻かもしれない。何も、そこに、いないのかもしれない。

「お別れなんだね。呪うのはやめにした?」

 濃色の空に、天の川が見える。

 はらはら、はらはら、星の欠片みたいに鱗粉が舞っている。

 やっぱり呪いをかけている最中なんだろうか。

 不意に、ぶわりと鱗粉が増えた。

 思わず由良は腕をあげて顔を庇う。口を押さえる。砂嵐みたいなそれをもし吸い込んだら、息が詰まってしまうだろう。

 その嵐がおさまりかけたときに見る。

 夜、静かな田畑に鱗粉が舞って、一斉に、辺りに蛍のような明かりがともる。

 草花が一息に伸びて、色とりどり、見たことのない花々を咲かせて、あっと言う間に実をつける。実が落ちる。辺りが静かに、暗く落ちていく。

 花火のようにあっけなかった。

 蝶は消えていた。

「梓……アレ、どこかに飛んでいった?」

「あぁ……たぶん」

「たぶん? 見てないんだ?」

「お前が頭を庇ってるとき、粉がすごかった。俺もずっと目を開けてるわけにもいかなかった」

 濃色の空の際には、さらに暗く山並みが連なっている。

 虫が遠慮がちに鳴き始めた。

「……もう、いないの?」

「たぶん」

「今すぐテレビとかのニュース、見た方がいい? 怪しい巨大災害とか引き起こしてないかな?」

「さあ」

 だとしても、退治しに行くというのか、と梓が面倒そうに由良を見やる。

 梓に背中を預けて、由良はため息をつく。

 本当に? いなくなってしまったのか。

 梓の背も暖かくて、だんだん眠気がやってくる。

「……帰ろうか、梓」

 呟いて、伸びをして、由良は再び歩きだした。

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