2-3

(何、あれ)

 由良は足を止める。昇降口にすぐ戻りづらくて、校舎内を一周してこよう、と思っていたのだが。図書室の前に、誰かが立っていた。化学の、教師のように見えた。

「あれ、まだ下校していなかったのか」

 教師が、首だけでこちらを見る。二重にも三重にも声がぶれている。

 図書室のドアに、胴が正体しているくせ、首が、完全に、廊下の端にいる由良を向いている。端的に言って、首が回りすぎていた。耳から、黒いアレが出入りしている。

(こんな、ところで!)

 いや、こんなところだからこそ、いるのだろう。由良は自分の言葉を打ち消す。

 なぜここに集まるのか――人がたくさんいて、紛れやすい、とか。理由は定かではない。

(分からないことばっかり)

 分からなくて、でも呪術を学んだり編み出したりしながら、白河が代々、どうにかしようとしてきたモノ。

「誰かっ」

 人を――生徒ではなくて、家人を呼ぶ。

 ポケットから引き出した鏡が、ひゅんと伸びてきた黒い塊にはたき落とされる。

「ひ」

 駆け出そうとした足を狙われる。立ち止まって睨みつけ、祓い歌を口ずさめば、かろうじて相手は止まった。様子を窺うように、教師の外側にはみ出した黒い塊が、ちょっと体を傾がせる。びびびと、黒い塊の表皮が揺れる。

「何?」

 細かな振動を拾っているような――お盆に乗せて運んでいる途中の、ゼリーのようだ。

 震源はどこだろうか。

「あー。見ーっつけた」

 まっすぐに指さされて、由良はびくりとする。二人組の少女が、こちらに向かって歩いてきた。挑発的に笑う者と、微動だにしない、感情を表に出さない者。

 黒い塊がぶにゃりと首を(多分)傾げる。由良も同じような気分だった。この物体を見て、驚きもしない人間を、初めて見た――なぜだろう、なぜ、近づいてくるのだろう。

「だっ、」

 だめ、近づかないで。由良の叫びを、少女の不敵な笑みが遮った。

 素手で、少女がアレを掴みあげる。アレはさらに首を傾げるふうだった。表面を伸び縮みさせて少女の掌を取り込もうとするのに、いつまでたってもつるつると滑る。

 アレは苛立つようにさざ波をたてる。

「んな単純なコトじゃ、何もできやしない」

 にやりとした少女の、獰猛な犬歯がむき出される。

 梓みたいに殴る蹴るなのかと思ったが、捕まえておくだけのようだ。

「おい、コレ何?」

「えっ? 何、って」

 この状態で質問されるのも奇妙だった。由良は戸惑い、足踏みをする。

 改めて考えると、そんな質問、他人にされたことがない。当たり前だ――家の人間以外に、コレを知っている輩がいやしない。同級生も上級生も、下級生だって。

 家の、近所の範囲以外に、アレが出ていったことがほとんどない。

 いつからだろう、アレが外へ出てしまうようになったのは。由良が、犬を、拾った頃からおかしかった。いや、由良の母が、部屋に消えたときから。……あるいは、もっと以前から。壊れて、しまっていたのかもしれない。

(うちの、システム)

 何を、閉じこめようとして、開発された?

(うちに、閉じこめられているのは、)

「……たぶん、人間の、なれの果て」

 ぽつりと紡ぎだした事実は、少女達の胸にはあまり響かなかったようだ。

 ふうんと、気のない相づちを打たれる。由良は、アレを目の前にしているというのに、恐怖をあまり感じなかった。彼女たちなら、大丈夫なのではないか。

 由良は、口を開き直した。

「それより、触ってるのに、よく取り込まれないね?」

「あぁ、コイツ元は人間なんだろ? じゃ、あたしらが人間じゃ、ないのかも」

 しれないなあ、と、少女の声がびりびりと歪む。思い切り握りしめた手に、青白く、炎めいた鱗粉がまといつく。普段、梓は腕ずくでアレを叩きのめしている。動かないときや、動いていても家人が集団でいるときであれば、彼らが祓い歌でもって縛り付け、箱へ戻す。由良も、止めるか壊すことができるだけで、最後は家人が箱へ入れるのを待つだけだ。

(瑠璃部にいたっては、相手をひっぱたいて潰してしまうか、取り込むんだし)

 それに対して、目の前の少女二人は、何だかもっと有効なことができそうに思えた。そして由良は閃いた。

「よっ、妖怪退治とかいう、あれですか?」

 初めて見た。動揺のあまりサインを貰った方がよいのではないかと考え始めた由良に、三つ編みの黒髪を揺らして、少女が「そんなもの、あるわけないじゃない」と平静につっこみを入れた。

「えっ? じゃあ、妖怪?」

「違う」

 少女が、流し目をくれる。

「何だか摩訶不思議な能力を持っていたら、いじめやアイデンティティの崩壊の憂き目にあって、キレて暴力を振るったりしていたら、他の、力のある人たちに疎まれて。居場所を手に入れなくては処分されてしまうの。認められるために――殺されないために、役に立つ仕事を、捜して歩いているの」

「そうなんだ……」

 それはまた不思議な話題だが、由良にはぴんと来なかった。

 どこまで本当なのか分からない。もう一人が、吹き出すように笑い始める。

「あっんまりからかってやンなよ」

「ごめんなさいね? 面白くって」

 三つ編みの少女が再び、黒色の物体に視線を戻した。

「でもこれ、本当に何なのかしら」

「おっ?」

 茶髪の少女の腕が、不意にソレの内側に沈む。急激に表面張力をなくして溺れたアメンボのように。

「網代」

 短く、名を呼んで、三つ編みの少女が駆け寄った。腕を横薙ぎに払う。黒い塊がびりびりと揺れながら、燃やされていく。煤になったものが、肺腑を焼き付くさんばかりに辺りにまき散らされる。

(うっ)

 これをどうやって処理すればいいのか。由良は辺りを見回すが、どこかで見ているはずの家人はいっこうに駆けつけない。見知らぬ他人が現場にいては、出て来られないのだ。家人達とて、手の内を知られたいはずもない。

「貴方」

 由良は三つ編みの少女に呼びかけられ、顔をあげた。

「何もしないのね。なぜ逃げないの?」

 何もできないのならばなぜいるのかと聞かれ、由良は閉口する。好きで出くわしたわけではない。アレのことを捜してはいるが――。

「逃げ隠れしててもいいのよ」

 不敵に、いっそ哀れみを込めて微笑まれると、ふと湯の底のような、揺らぎのような怒りがわいてくる。口には、何も出なくても。

「ふふっ」

 三つ編みの少女が笑った。場違いな優しさだった。

「いい顔ね」

 何が? さぞかし険しい顔をしているだろうと思うのだが。

 塵と煤になったアレは、廊下に散らばったまま動かなくなった。

「後片づけが面倒ね」

 由良は廊下の隅にある掃除用具入れを開けて、箒とちりとりを持ってきた。

「貴方がするの?」

「そりゃそうだろ、ソイツが出くわしたんなら、ソイツが片づけるだろ」

 ふと、去り際に、三つ編みの少女が振り返った。

「居場所を得たいのは、本当よ。だから、黙っててくれる? お互い様、ということで」

 唇を、きれいな人差し指で、冷たく、縫い止められて。由良はこくこくと頷いた。同級生なのに、何だかお姉さまと呼びたい感じだった。


 よく考えたら、あの二人は由良を追ってきたのだろうか。やけに突っかかられると思ったが、アレのことを探っていたとか?

 片づけをしながら考えていると、細かな灰を吸い込んでむせてしまう。ハンカチを口に当てていると、遅まきながら、家人が駆けてきた。今日の人数は三人である。

「遅いよ!」

 由良は思わず、大きな声を出してしまった。

「どこにいたの? さっきの、見た?」

「遅くなって申し訳ありません、お嬢さん!」

 それなりに声を潜めて、羽織半纏姿の家人は、由良に答える。

「ちょっと、その辺で蜂が出まして」

「学生さんが、きゃあきゃあ騒いで困ってらしたんですよ」

「蜂を追い払ってたの? 大丈夫?」

 蜂は他の人間にもどうにかできるが、こっちは白河の関係者にしかどうにもできない。不満げに、でも蜂のことも心配でもあって、由良は聞く。家人達は頷いた。

「学校の近所で、ちょうど庭木の剪定されてたんで、手伝ってたんですわぁ。蜂が下校中の学生さんに突っかかるんで、まあ大変で」

「……何やってたの……」

「それより、お嬢さん。犬っころがこれをやったとは思えませんが、何でこんな、粉々に?」

 家人が床を指さした。

「私がやったわけじゃ、ないんだけど……何か、気づいたらこうなってたっていうか」

「気づいたら? 自分で、自爆したってんですか?」

「そういうんじゃないと思うけど、よく分からない」

「分からない、じゃ、今後の参考にもなりませんよ、お嬢さん」

「そういや、あの犬はどこ行ったんです?」

「梓は」

 来ていない、というのも不審に思われそうで、由良は首を振った。家人に後始末を任せて、校舎を出る。

「おい」

 小走りに、下駄を鳴らして梓が駆けてくる。たまに草鞋だったり、スニーカーだったりするが、靴だと踵を潰してしまうし、何だか妙に崩れてしまう。時代に合っていないけれど、由良は、梓の変わらない姿にほっとした。

「さっきね、変なことがあって」

「変?」

 梓が怪訝そうに眉をひそめた。

「そう、変なこと……」

 転校生二人が、アレを、退治してしまったのだ。

 梓も家人もいないうちに。鮮やかな手際で。

「おい、何か踏んだのか?」

「何が?」

 梓が、何ともいえぬ、眉を下げたような、怒ったようなつらいような顔になっている。

「お前の顔」

「え」

「変な顔してるだろ」

「梓だって、変な顔してる」

「お前が変な顔してるからだろ」

 そんなことない。いや、ある。

(さっき、あんな人たちに出会ったから)

 驚いたし、どうしたらいいか分からなくて不安だったから。今になって、変な顔になったのかもしれない。しかし、だからと言って、梓が由良と同じ表情になる理由にはならない。そういえば犬だった頃、梓はよく、由良が帰宅するとしっぽを振って出迎えてくれた。由良が小テストでうまくいかなくてしょんぼりしていたときは、首をひねり、困った顔をして、必死に前足で由良の足をかいたり、由良の頬をなめてくれたり、何とかしようとしてくれたものだ。もしや、梓は――犬のときのように、こちらの様子を感じ取って、写し取ったような表情をしているのか。まさか。

「まさか……」

 今は、怒っているとか、強い感情ではなくて。

 困惑したような、情けないふうな顔を、由良はしているようだった。

「別に、変な虫とか踏んづけてないよ」

「そうか」

「……ねえ梓。梓がいっつも、眉間に皺寄せてるのって、私がそうしてるってこと?」

「はあ?」

 顔をしかめて、梓が、一歩退いた。

「何言ってんだお前」

「違うんだ」

「お前が辛気くさい顔してるから、うんざりした顔になってることはあるかもしれないが」

「うっ」

「俺は俺であって、俺の感情で動いてる。お前が上機嫌でも顔はしかめることがある」

 思い出してみろ、何か具体例を、と、顔をしかめたまま言われて、由良は必死で考える。考えるうちばかばかしくなって、

「帰る……」

 夕暮れの道を、とぼとぼと進むことにした。

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