if.加藤恵ルート 後半

 東京の空に星は映らない。その代わり、地上には人が満ちている。


「うーん……どうするかなぁ」


 すっかりお馴染みになってしまった徹夜作業。同棲中の恋人は「私も起きてようか?」と声をかけてくれたけど、大丈夫だと返事をした。


「そっか、じゃあおやすみ」


 したところ、至極あっさり引き下がられた。寝室の扉が閉まる音を聞き届けて、とても寂しい気持になりましたよ、俺は。


 ――ともあれ、そうして徹夜作業は行われる。

 普段はテキストファイルを開き、チクタク、時計の針が刻まれる音と共に打ち進めているけれど、今夜はテキストを打たない。マウスをひたすらクリックしていた。高校時代に作った、最初の同人ゲームを改めて遊んでいたのだ。


「やっぱり、ご都合主義だよなぁ……」


 オールクリアの状態でスタートしたゲームを再起動して、即座に「第3のルート」へ飛ぼうと思ったが、ふとした懐かしさが込み上げて、気づけば最初から通して遊んでいた。


 ハッキリ言って、クオリティが異常だ。声優のボイスこそ入ってないものの、それを除けば商業作品と比べても遜色がない。むしろ〝熱量〟だけで言えば上回る。

 

 こんな作品がフリーソフトとして存在していいのか。贅沢な時代だなぁと、自画自賛する。ネットで検索すれば、いまだパッケージ版にプレミアが付いているのも納得だ。

 

 ――けどこの中で、未熟な要素があるのも確かだった。レベルが違いすぎて、あきらかに整合性が取れずに浮いているものがある。悪い意味で。


 『みんなが幸せになるエンディングがあっても、いいじゃないか』


 低すぎるクオリティのシナリオ。ただのディレクター権限という名の暴力で押し通した〝夢見るオタク〟丸出しのメッセージ。今のユーザーにこういうのは受けない。リアリティが無いよ。そう指摘されてもやむなしだ。


「……主張はともかく、今見ると恥ずかしいな、これ。全部リテイクしてぇ」


 第1、第2ルートのシナリオ、差分を含めたすべてのイラスト、立ち絵、そしてOPとEDを含めた音楽。ゲームを構成しているあらゆる要素のクオリティが総じて高いのに、『3番目のグランドルート』の完成度だけが群を抜いて低い。


 マニアな連中が、ネットで低評価をつける理由の大半がそこに集中する。当然だ。レベルが低すぎて、ここだけ悪目立ちしすぎてるんだから。


 それはまるで、自分だけが正しくなくて、不要で、ジャマだ失せろ、と言われた気分になる――実際言われてたりもするんだけどな。


「この作品を〝実写化〟するなら、切り捨てるのは絶対に、ここだよなぁ……」


 今日(すでに日付が変わった昨日に)悪友の伊織から、名古屋の銘菓と共に持ち込まれた情報は真実だった。『君が学生時代に作った同人ギャルゲーを、ハリウッドの映画監督が原作として欲しがってるんだってさ』。ラノベのタイトルかよ。


 でも嘘みたいな本当の話だった。現実は小説よりも奇なり。世の中ってなにが起きるかわからなくて怖い。とりあえず先方には、返事は待ってもらう意味合いのメールを送った。伊織もまた『君がどんな答えを出そうとも、応援してるよ。なんたって僕は、昔から君のファンだったからね……』と若干ホモい事を言って、風のように去っていった。あいつ昔からモテるのに未婚なんだよな……。


 まぁ、伊織のことはどうでもいい。


 仮にこの同人ゲームを商業としてリメイクするならば、俺だってまっ先にここをどうするかを考える。っていうか、捨てる。


 昔のハリウッド映画は『ラストシーンは、絶対にハッピーエンドでなければ人気が取れない』という法則があったが、いい加減、そういった〝法則〟が観客にも知れ渡ると「またテンプレか」という感想をもたれるのだ。


 もちろん、今だってそのラストが悪いとはいわない。でも、この同人ゲームのストーリーは、輪廻転生した二人のヒロインの魂が要だ。リメイク内容によっては、善と悪の狭間で揺れるヒロインの葛藤と、それに伴う巨悪を誕生させて、アクションCGを駆使して、躍動感を増して見れるようにするのかもしれない。


 ま○か☆マ○カがウケた過去もあるからね。わからないよね。


 うん。話を戻そう。

 とにかく、ネオンに寄せられた大勢の注目と、真空を漂う一番星は、いつも対極の場所に浮いている。君はどっちが好きなの。って聞かれたら、優秀不断な難聴系主人公よろしく答えてしまう。『選べないよ』。


 だって、同人にも、商業にも、良いところ、悪いところが、あるじゃないか。


 純粋な作品の質という話だけじゃない。人工的に作られた光にも、夜空に浮かぶ星にも、両方ともに「綺麗だ」って価値観があるんだ。そして確かに存在するんだよ。本来は方向性の異なる輝きが、偶然に重なりあって、同じ空に輝く時が。


 「おもしろいもの」を求める心が、一所に交わる瞬間っていうのが、あるんだよ。でもそれは、流れ星のように本当に一瞬で、まばたき一つで失われしまう。


 俺の場合。最初の一度目は、この同人ゲームを作ろうと決めた時だ。そして二度目が今なんだ。わかってるんだよ。


「――これは、最大の好機チャンスなんだぞ。安芸倫也オレ


 回転椅子が、ギシッと音を立てた。目を強く閉ざす。眉間に指を添えてしまう。なにを悩む必要があるんだよ。


 時計の針は、ずっと前に深夜を回っていた。丑三つ時を超えて、たぶん、そろそろ朝方を迎えようとしてるはず。一睡もしていない。寝てない詐欺じゃないよ?


「うーん、うーん……ゲームの実写化、映画化かぁ……」


 腕を組む。瑠璃が映る画面を見つめる。起動しているパソコンのOSは、四世代も前のものだ。すでにサポートも過ぎた遺物ではあるけれど、ネットに繋ぎさえしなければ問題ない。


「とりあえず、ゲーム落とすかな……」


 マウスを手にして終了する。さすがに使い古された感のある相棒は、ガリガリと身を削るような読み込み音を発して、ゲームを終了させた。それから何気なく、制作元のファイルを開いた。そこに並ぶ元データと、その履歴の日付は、当たり前だけど、俺たちが高校生の年で止まっていた。


 初めてインストールした、ゲームの制作ツール。


 初めて作った企画書のファイル。

 最後に見せたものは、まぁ形になっているけれど、初版がひどい。


「倫理君の、倫理君による、倫理観に満ちた超健全ギャルゲー企画(仮)って、今みてもひどいよ。先輩」


 でも、最初の一歩は間違いなく〝ここ〟だった。


 当時すでに一流のクリエイターとして歩みだしていた先輩たちと、ただの消費豚な萌えオタであった俺が出会った。まったく別の方向性を見ていた人間たちが、無茶苦茶な理由を下に交わった。


 流れ星のように。確かに一瞬のきらめきをもって、重なった。


 『超健全ギャルゲー企画(仮)』


 偽らざる本音が、そのタイトルに集約されている。


「ここが、俺の原点なんだよなぁ……」


 人に、スタッフに恵まれた。右も左もわかってないド素人の両サイドに、超高校級のシナリオライターと、グラフィッカーが力を貸してくれた。己の魂を削って、削って、ブチ壊して、俺に同調して新しいものを提供してくれた。


 さらにフリー素材じゃない歌とBGMがついた。その従妹は今や深夜アニメのみならず、様々なエンタメ業界のオープニングテーマを歌う、人気シンガーだ。


 従妹――氷堂美智留の原点。暗号化される前のサンプリングされた音楽ファイルの一覧もまた、この中に並んでいる。


「懐かしいなぁ」


 企画、シナリオ、イラスト、音源。


 二次元に存在する〝ただのデータの羅列〟だよ。

 人はそんな風に口にするかもしれないけれど。


 ――これが、俺の『宝石箱』なんだよ。


 俺はいま、確かにひとつずつ、実在するこの手でためつすがめつするように、ファイルを開いて目を通した。


 ここにあるものは、やっぱり、ただひたすらに、美しい。

 けど、この輝きに浸ってばかりじゃ、前に進めない。


 人は宝石を売買することはできても、宝石を食べて飢えを満たすことはできないんだ。なればこそ、この宝石を売るのは今に他ならない。


 海外の映画監督が『良い値で買うよ』と言ってくれているのだ。一介のシナリオライターに過ぎない俺は「よろしくお願いします」と応えるべきだろう。


「あああぁぁぁ……わかってるんだよぉ、わかってるんだけどさぁ!」


 決められない。べつに実写化が嫌なわけじゃないよ? ほんとだよ? 


 不安は確かにあるけどさ。でも面白そうじゃん。どんな事になるか見てみたいじゃん。それにこれからも『美しいもの』を作っていきたいなら、なんらかの支援があった方がいいって話じゃん。じゃんじゃん。


 ――チク、タク、チク、タク。


 あぁ……なんか非生産的な悩みを延々と続けたら、時計の針の音が聞こえてきたよ。時間だけが過ぎていくのが不吉すぎるよ。誰か助けて。


 ――ブブブブブ。


 あぁ……なんかマナーモードにした携帯の振動音が聞こえるよ。ゲーム制作も佳境に近づいてくると、身近な環境音との区別がつかなくなって、俺って本当は二次元のキャラクターなんじゃないかって思うよね。ははは、そんなわけないのに。……ないよな? 安芸倫也はそこにいますか?


「――って、やべっ! 携帯マジ鳴ってんじゃん!!」


 机の側に置いたスマホを取り上げる。目に飛び込んできた時刻は5:00.

 こ、この時間に届くメールが意味するものは……!


「なんだどうした!? 進捗に影響を及ぼすバグが出たか!? マスターアップ直前からの発売日延期報告かっ!? それともコンシューマー化に伴うCER○の査定が通らなかった!? だから温泉回での入浴シーンは、水かさ増やしてってあれほど言ったじゃーーーん!!!」


 とっさに嫌な予感が10パターンほど浮かぶ。週末早朝に届くメールってほんとに怖いよね。ともかく意識を切り替えて、受信画面を音速で確認した。

   

『おっす! トモ、元気かー!』


 オラ、ごく――だからそういうのはマズイんだってばよ! 明け方のおかしなテンションで脳内物語を進行させると、さらに携帯がふるえた。


『もしかして、恋人とR18イタしてるー?』


 だからやめろー! 酔ったオヤジがおまえはっ!!


 相変わらず、いつもいつも唐突に現れやがって! これ以上、倫理エラーやその他諸々の小説利用カクヨム規約に引っかかるとマズイので、即座にこっちからコールする。


「あっ、トモー」

「今何時だと思ってんだよ、みちる」


 相手が電話にでたのを確認して、挨拶もせずに即文句を告げてやった。


「五時だけど。めぐみんは?」

「俺の隣――の部屋で寝てるよ」

「え、なに、ケンカしたん? もしかして、あたしチャンス?」

「なんのだよ。俺たちの仲は良好だよ。たぶん」

「なんだぁ、つまんなー」


 つまんなーとか言うな。ちょっと刺さる。


「んじゃ、トモなにやってたのさ」

「明け方の五時にメール送ってきたやつのセリフがそれかよ。……なにしてたかってーと、ゲームのシナリオ確認してたというか……」

「遊んでんじゃん」

「ねーよ。遊んでるわけじゃ……いや、遊んでたかな、うん……」

「にししし。あたしがこの前に歌ったエロいやつー?」

「違う。超健全なやつだよ。俺たちが高校の時に作った、最初の作品あっただろ。加藤が――じゃなかった、恵がメインヒロインの」

「え、マジで?」

「なんだよ」

「……あー、実はさぁ、あたしもさっき、それ遊んでたとこ」


 予想外の返答に、俺もちょっと驚いた。


「こんな時間に? おまえが、ゲームやってたの?」

「そうそう。ついさっき、オールクリアしたとこだよん~」


 みちるは、くつくつ笑った。

 中性的なハスキーボイスが、俺の耳をくすぐる。


「久々にさぁ、トモの会社のホームページ覗いたんだよね。で、フリーのあれ、今だとスマホでダウンロードして遊べるようになってるじゃん? だから、さっきまでベッドで横になって、だらだらやってて、あっ、パンツの色気になる?」


 みちるの声は、少し駆け足するようにやってきた。

 もしかして、おまえも、なんか悩んでたのか。

 今の俺と同じようなモン、抱えてるのか。


「パンツの色は、清純第一の白でした!」

「どうでもいいわ。それよりさ、みちる、どうし――」

「〝良いゲーム〟だよね、アレ」

「…………どう、良かった?」

「んー、なんていうか、スピリッツを感じちゃうね。ただ楽曲に関しては、全部振るリメイクしたいって思っちゃったな」

「俺もだよ。シナリオの話な」


 とつぜんやってきた流れに沿う様に、話を進めていく。


「一緒にすんなそこ~。あたしの場合は、録音環境とか機材がショボかったからって話で、トモの場合はそもそも、クオリティがなってなーいっ!」

「おっしゃる通りで」


 俺は笑いながら、自然と椅子から立ち上がった。携帯を耳に添えたまま、部屋をでる。むしょうに外の風を浴びたくなった。


「でも確かにトモの言う通りかなぁ。ボーカル曲もねぇ、勢いはあんだけど、あきらかに音程取れてないとこあるし~」

「録りなおすか?」

「んにゃ、やめとく」

「どうして」

「だって、アレにはもう手を加えたくないんだよねー」

「あー……わかる。その気持ち」


 恵の眠る寝室を通り過ぎ、そのままリビングに入って、青いカーテンと窓を開いた。二足並んだスリッパの片方を履く。どこか別の階で洗濯機が回ってる。


「どんなに心残りがあってもさ。あの作品は、あれでいいんだよな」

「そうそう。でもネットだと、9割が高評価つけてんのに、残り1割が最低点つけて難癖つけてんじゃん。その原因ってだいたい、トモがシナリオ担当したとこだよね~」

「……俺の古傷を的確に抉るのはやめよう? 今なんかちょっと良いシーンじゃん。それ以上言うと、俺泣くからな。みっちゃん」

「あはははは。いーじゃん、泣け泣け。トモをいじめていいのは、あたしだけの特権だかんねぇ」

「そんな特権をやった記憶はないけどな」


 相変わらず、的確に痛いところを突いてくる従妹だった。


「――でもさぁ、あのご都合主義のラストはさ。如何にもインディーってノリでいいよね。なんていうか、好きなものを好きなだけブチ込んだ、B級グルメテイスト感が、あの部分だけ濃いんだよねぇ」

「褒めるか、けなすか、どっちかにしてくんないかなー」

「褒めてるって。100人中99人が、あのエンディングが蛇足だって評価しても、どこかにいる、たったひとりには、絶対に突き刺さると思うんだよね」 


 ――そう。そうなんだよ。自分を肯定しても良いなら、そうなんだ。


「誰も傷つかない、幸せいっぱいで止まった時間が忘れられない。綺麗な思い出のままが永劫に続けばいい。アリだと思うよ。トモくん」

「……みちる」

「なんていうのかなぁ。創作の本質って、結局はそこなんじゃないのって思ったんだよね。トモが作ったエンディングを見て、思わずメールするぐらいにはさ。まずは自分自身が百点満点つけれたら、オールオッケーなんだっていう」

「――うん」


 わかる。今なら俺にも分かるよ。みっちゃん。


「なぁ、みちる。あのゲームの曲、何点?」

「百点!」


 俺は空を見上げた。じきに朝日が昇ろうとしてる東京の空に、気がつけば星を探していた。見つかるかな。これからも、今日を生きていこうとする騒音が少しずつやってくるなかで、見つかるかな。


「みちる、ありがとな。……ありがとう」

「ん、あたし達、たぶん似た様な状況にあったみたいだね」

「だな。元気でたか?」

「ん~、びみょ?」

「微妙かよ」

「うん。また実入りの良い仕事あったら回してよね」

「そっちもな」


 俺たちはまた、くつくつと笑った。


「じゃあ、良い情報教えてやるよ」


 実はハリウッドの監督から連絡あってさ。俺の原作を欲しいとか言ってんの。マジマジ。でさ、上手くいけばおまえもその映画に一枚嚙めるかもしれないぞ。もちろん、やるだろ?


「あっ、ごめん、トモ」

「え?」

「あたし、今日朝早いんだ。収録先が県外でさ。ソッコーシャワー浴びて、出なきゃならん」

「あぁ、そっか。その……がんばれ」

「うん。がんばる」


 なにがあったか知らないけど。たぶん、結構しんどい事があった。昔ならもっと踏み込んで話ができたかもしれないけど、大人はそれができない。


「なぁ、そのさ、俺、みちるの歌と曲が好きだよ」

「トモ?」

「世界で一番大好きだ。同じクリエイターとして尊敬してる。だから、負けんな」

「……あはは」


 少しだけ鼻をすする音が聞こえてきて、それから、


「トモ、携帯から耳離して」

「うん?」

「せーの。――うおおおおおおおおおおおおおぉぉし!!! やっるぞぉ!! トモを寝取る気で今日から本気だすぞおぉ!! 応援よろしくぅ!!」

「っ! おま……うるせーよ! 最後の一言を除いて応援する! がんばれ!」

「うん! じゃあの!」

「じゃあの!」


 ぷつんと途切れた。相変わらず、唐突に現れては去っていく、初夏の台風みたいな従妹だった。


「ふー」


 でもおかげで、絡まっていた感情もまた、するすると解けていた。スマホを上着の中に入れて、ベランダの手すりに両手を添える。変わらずじっと星を探してみると、


「みっけ」


 喧騒で混濁しはじめた東京の空にも、それは確かに浮かんでいた。たったひとつの一番星に向かって、俺は右腕を伸ばして、ぐっと握りしめた。


(――おまえは、無名の宝石箱で、いい)


 こぼれる吐息がきらめく。白く、透明な熱がゆらぐ。


(――二度と取り出せない物として、あればいい)


 それは〝昔は良かった〟っていう、懐古的なアレだったり、取り戻せない諦観だったりする。これからの場所に持って行く必要はない。気まぐれに振り返って、ふとしたキッカケがあったその時に、その場所に『あるだけ』でいいんだよ。


 そして、できれば誰かが『宝石箱』を開いている瞬間を、見つけることができたらいいなって思う。その場限りのきらめきを、また別の価値観を持って目を輝かせる瞬間を、見てみたい。


 どこかにいる誰か。名前も知らない『あなた』が、いつかどこかにいる、べつのなにかと同じ方角を見つめる。その光景を俺は遠くから見ている。



 そういうのが、ひとつ、あっていい。



 俺は握りしめた手を開いた。ほんの少し、そうしていただけで、見えていたはずの一番星は消えていた。


「――


 それからまた、微かな声がやってきた。振り返ると、まなじりを指でこする恋人が、パジャマ姿のまま立っていた。俺も部屋に入って窓を閉め、彼女に近づく。


「なにしてるの?」

「痛々しい自分探しが終わったところ」

「うわぁ。おめでとう。じゃあ、ごはんにする? お風呂にする?」


 なんというテンプレか。加藤もついにこの境地に達したのだと思うと目頭が熱くなるな。あ、違うわ。加藤じゃないわ。いや加藤なんだけど。加藤恵さんなんだけどさぁ、いまだに間違える。俺も彼女も。なぜか。


「いや、ここは勢いに任せていこう。第3の選択ってやつで」

「なに?」

「俺と結婚してくれ、恵」

「うん。いいよ」


 ……。


「結婚しよう」

「うん。いいよ」


 ……。


「えーと、念の為、もう一回聞くわ。け、結婚しよ?」

「うん。だからいいよって。あと、なんで三度目が一番緊張してるのかなぁ」

「まぁまぁ、ちょっと真面目に考えてみようか。さっきの返事軽すぎない?」

「安芸くん――じゃなかった、倫也くん。なんでもない平日の朝方に、寝起きの彼女に向かってさらりと言い放った人のセリフじゃないよ、それ」

「ごめん。じゃあ、今度また改めて言うわ」

「うん。それなりに高いレストランでお食事しつつ、指輪の箱を開けながら言ってほしいなぁ」

「ありきたりだな」

「ダメ?」

「ダメじゃないけど」

「じゃあ、お願いします」

「わかりました。その方向性で検討してみます」


 というわけで、俺たちの結婚は決まった。なんか最近、俺も段々とフラットになってる気がするな……。


「ねぇ、倫也くん」

「なに?」


 じゃあ、彼女はと言えば。


「どうしよう。なんだかね、涙でてきたよ」


 ほんの小さな泣き声がやってきた。


「ありがとう、ありがとう……あ、ありがとう……っ」

「うん。俺の方こそ、ありがとう」


 あの日から変わらず側にいてくれて、ありがとう。胸のうちにやってきたものを抱きしめて、そう伝える。それから、


「……あのさ。昨日の話、やっぱり断ろうと思うんだ」

「映画化の話だよね」

「ごめん」

「謝らないで……いいよ」


 少し寝癖のついた黒髪をなでる。


「断らなかったら、大金持ちになれるかもしれないけど」

「あぁ、それは惜しいねぇ」

「だよな。惜しいよなぁ」


 俺たちは部屋でおたがいを抱きしめて、笑いあって。


「なぁ、恵。お金よりも大切なものがあるって、今のユーザーは、使い古されたセリフだって思うかな?」

「思うんじゃないかなぁ。たぶん、そんなのは綺麗ごとだって言われるよ」

「綺麗ごとってダメかな?」

「ダメじゃないようにするのが、あなたのお仕事なんでしょう?」


 あぁ。うん。そうだ。やっぱり俺の彼女はわかってる。


 この世界でいちばん、どんなユーザーよりも、中立フラットだ。


「じゃあ、加藤恵さん。これからも俺と綺麗ごとをやって、生きていってください。どうか最後まで一緒にいてください。お願いします」

「うん。私の方こそよろしくお願いします」


 彼女の頬に手を添えて、緩んだその感情の中に伝える。


「君を愛してる」

「うん。私も愛してる」

「誰にも渡さないから。君は、俺だけの嫁だから」

「うん。渡さないでね。私は、安芸くんだけの――あっ、また間違えた」

「いいんじゃん? だってさ」


 その呼び方も、これからは間違いじゃなくなるんだから。


 世界でひとつだけの『宝石箱』。それから使い慣れた『道具箱』。自分にだけ特別な輝きを放つ愛しいそれらを、ひっくるめて大切に抱き寄せた。

 唇が重なる前にもう一度、口にした。



 世界でいちばん、俺が、君を愛してる。



                                 //IF end

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