瓦礫の楽園

三澤いづみ

瓦礫の楽園


 砂の船はすでに崩れ去り、闇を湛える夜天に不安そうにたったひとつ浮かんだ卵の孵る日も決して訪れることはなく、凍て付くほど冷たい眼差しが音のない世界に朧朧と降り注ぐ。誰も逆らえぬほど巨大で傲慢な時の流れに飲み込まれながら強く輝きを放っていた天使、その穢れ無き白い翼は今となっては見る影もなく粉々に朽ち果ててしまったのだったが、最後まで人形めいて美しい顔と肌は現実から置き去りにされたかのように今も保たれ続けている。翼が失われたがゆえに渡り鳥のように優美に空を舞うことすらできず、ただ飛ぶでも落ちるでもなく吹き散らされた綿埃に似てその場に浮遊するだけの天使のひとつは、夜明け前になるといつまでも広がり続ける夜色の天鵞絨を覗くうち、あるいはその薄闇の布地を幾重にも織り込んだ仄暗き天上の青に決して埋もれまいと細く艶やかな頤を上げる。動かぬ表情と壊れかけた喉から信じがたいほどに鮮やかな歌声を蘇らせると、掠れた曙光に成り代わって、大地を遍く茜色に染め上げるのだった。

 ひそやかなる静寂に吸われながらも天使のか細き声と旋律の欠けた歌は光よりもいっそ慈雨として赤茶けた地面に柔らかく降り注ぎ続けたが、さりとて眼下に広がる荒廃しきった瓦礫の世界、堆く積み上げられた錆色の夢の名残を洗い清めることも押し流すこともなく、ただ一時のありふれた奇跡、雲間から溢れ射し込む烈光の梯子と同じく、それを受けた者たちの記憶のなかに溶けて消えていくのだった。これがもし本物の雨であれば幸運にも飲み水を得られる良い機会だったのだがと荒野の隅に身を潜めて住まう者たちは笑みとも悲しみともとれぬ無様な表情で長々と嘆息をするばかりで、一方初めて天使の歌を耳にした年若き者たちは享楽に浸ったり嬉しがったりするより先に普段ではありえぬ空気の変化に戸惑いを隠さなかった。

 頭上で淡く暗く色を変え続ける薄明に紛れた孤児のクエンティンは長年踏み固められた道の昇降を繰り返し続けている。彷徨う視線は隙間無く敷き詰められた瓦礫の裏側に潜んだ何かを追い求め続け、すぐさま見つかることと永遠に見つけられないことを同時に願っている。いつからかクエンティンはあの命を忘れた機械たちを畏れていた。老人のごとく腰を屈めて屑拾いに勤しむとき大小様々な塵の奥底に埋もれた屍に出逢うことこそ決して珍しくなかったが、それが本物の人間ではなく機械の屍であると知ると異様な不快感に襲われたものだった。掘り出した鉄や銅に絡みついた太い綱に繋がるか連なるかして時折現れる機械は与えられた時間をすべて使い尽くした存在でありながら寒気のする悲鳴を上げることがあり、それは摩耗した撥条や歯車が触れ合いずれて産み出す軋みと嘆き、機構や音響装置が衝撃か何かで偶然に復帰することによって生じる電気信号と熾火めいた明滅ゆえと教わったのだが、元より生きていないはずのものが壊れ果てた末に再び死ぬ、あるいは蘇ることに対して信じがたい気持ちを抱かずにはいられなかった。人間の死体であれば気にせず遺品を持ち去るクェンティンは生死が定かではなく己の瞳には屍としか映らぬ機械から貴重とされる部品を奪い去ることでいっそう目立つ空白を認識するたび残酷な真似を行っている気分になる。しかし生きるためと誰とも無く言い訳を口にしながら原形を留めぬほどにぼろぼろに崩れた樹脂やプラスチックを手にしたハンマーで砕くたび己の骨がひしゃげる気がして気分が悪くなり、それと同時に鉄やステンレス、アルミなどを剥ぎ取るたび、変色した錆色のざらざらとした感触が知らぬ間に肌に同化し、腐食しきった液体が溢れ、つま先から血管を通って逆流してくる感じが拭えずにいた。もちろんそんなことはありえないと知識と感覚によって、そしてまた事実としても理解しているクエンティンは、堆積した瓦礫の下敷きになっている機械の多くが人間の形を模したものであることで太ももに蛞蝓が這い回るような薄気味悪さと心臓のすぐそばに無数の細かな針が無造作に放置されているごとき罪悪感を覚え、すっかり鈍化したはずの繊細さを思い出した。何年もあるいは何十年何百年も前に死んだ人間の骸は骨だけになっているのに同じ時を経たはずの機械達は人間の形を保ったままで眠ったように停止して、もしくは病を得た悲劇の存在のように過去のどこかに留まっている。果たして彼らが死んでいるのかどうかを明快に判別する術はクエンティンにはなく、ただ生きるための手段として教えられた通りに秘密の破片めいた光る回路と凝った赤銅色の屑を拾い続けるだけだった。

 誰にも平等に時間は流れると嘯いたのはいつか不愉快そうに通りすがった見知らぬ大人で、クエンティンはおろか他の孤児達も避けるような不慣れな瓦礫の桟道を進み続けた結果滑稽なほど盛大に足を踏み外して転倒しくるくると一回転すると、下方より飛び出ていた尖った鉄片に腹部を貫かれ同時に衝撃によって崩れてきた巨大なステンレス製の箱の容赦ない一撃を受けて頭を押しつぶされた。不安げに眺めていた寄る辺なき子供たちは真に平等なものの正体と距離を教えてくれたことについては一切感謝の気持ちもなく、代わりとして砂糖に群がる蟻の動きであっという間に出来たての死体から戦利品の奪い合いを行うのだったが、直後に起きた再びの崩落によって五人が死に、二人が足や首に重傷を負い、最後に残った無傷の一人が興奮しながら動けなくなった全員の懐に手を伸ばし、独り占めして勝ちどきを上げたさまはいかにも滑稽だった。その有り様を離れた場所から見上げていたクエンティンは祝福の言葉を投げかけるより早く、足下に気をつけながら来た道をゆっくりと戻った。翌日になってあの一時の栄誉を手にした少年は当然のように姿を消していた。この生活から抜け出すため意を決していずこかに旅に出たか、あるいは羨んだ何者かに命ごとなけなしの資産を奪われ尽くしたかしたのだろうが、この荒廃した地においては突然の略奪も偶然の生死も何ら珍しいことではなく、ひとえに風塵の行く末と同じではあるのだけれど、クエンティンは他者の未来の結末について思いを馳せる暇があるのなら一つでも多くの売れる屑、使い物になる屑を集めることに勤しむ必要があると信じるのだった。

 憐れみを誘う美しい天使の歌声が唐突に世界に満ち、数時間を経てこれまた突然に途切れた日の昼過ぎになって休憩中のクエンティンの前に笑顔の仮面を被った男がいつものように丈夫なカゴを背負った姿で訪れた。じりじりと焼け付くような強い陽射しに足下の瓦礫から陽炎が立ち上るのを尻目に丁寧にカゴを降ろしたあと、貼り付けた笑顔からはかけ離れた気味の悪い声を発する。仮面の男はクエンティンが拾い集めた回路とまだ使い道のある金属片とを入れるように指示してきた。クエンティンは黙って頷くと腰にくくり付けた袋や懐に隠しておいたまだ金銀の煌めきの残った回路と腐食を免れた青ざめた金属、黒ずんだ石、人形の身体を割ってその内側から持ち去った命の欠片とも呼ぶべき部品を丁重に扱いながらカゴの底へと納めてゆく。仮面の男に作業を見守られている最中、不意に吹いた風によってクエンティンの手元が狂い、敷き詰めるように置いた回路同士がぶつかって火花に似た青い燐光が淡く散った。これから訪れる運命を理解したクエンティンは身を固くして仮面の男からの仕置きと称する肩や背中への殴打、腹部への強烈な蹴りに耐えていたのだったが突如として暴力は収まり、おそるおそる薄目を開いて状況を確認すると毎回外されることのなかった男の仮面は地面に転がっていた。地面に沿って覗いた顔にはクエンティンと同じようなありがちな人間の顔が存在していたのだったが、見開かれた瞳は今にも飛び出さんばかりに血走っており、額や鼻筋に浮き上がった血管が男の苦痛を指し示していた。驚く暇もあらばこそ仮面の男は前のめりに倒れ、背中や首から夥しい血が噴き出しているのを目の当たりにして、疑いようもなく死んだことをクエンティンは理解させられた。

 はっとしたのは一瞬でクエンティンは仮面の男、すでに仮面が失われたが他の呼び方を知らないその男の所持品を探るため手を伸ばし、三日分の食料を確保することに成功したことに喜びを覚える反面、次からどうやって食料を調達すれば良いのかと頭を悩ませることになった。贅沢な懊悩より急すぎる男の死因について考えるべきかもしれないと眼前の光景を再認識して逸れていた意識が戻るまでに過ぎた時間は一分足らずであり、普段通りであれば危険を感じて即座に逃げ出していたことを鑑みるに自失によるわずかな停止はクエンティンにとって得難い幸福を運んできた。血だまりに倒れ臥したる男の近くに美しい女がそっと降り立っていて、おそらくはもっと前からそこに存在していたのだろうが現実感が薄すぎて気づけなかったと思われた。それは無数に見続けた命を保たずして死に絶えた人形の整いすぎた容姿とあまりにも似ており、しかし決定的に異なっていることは本来の意味で死を持たぬはずのひとがたに過ぎぬそれが目の前で動き、呼吸をし、クエンティンを眺め、そこに確かに生きているという事実だった。知らぬ間に産み落とされてから今日までこの美麗な機械人形の呼び名を知る機会など一度して得られなかったクエンティンでも感嘆であれば自然と喉から溢れ出す。学ぶことも出来ず言葉すら不自由な幼子に《天使》と明快に表現する術はなく、自分とは違う場所より来たる美しく厳かなものとして認識された。親もなく生きるために生きる日々はクエンティンを多くの痛みと悲しみに対して鈍化させていったが代わりに言葉によって毒されずに培われた感受性は、これまで慣れ親しんだ醜い屍たちの真実の姿がこれなのだと容易く理解させてくれた。人間や人形の屍であれば畏れながらも躊躇無く触れることも破壊することも厭わなかったクエンティンはまるで運命か歌劇の一節のように決して犯すことの出来ぬ至上の存在に遭遇してしまい、嫌悪や憎悪に駆られるでも奇妙や不気味に感じるでもなく一個の存在としてあるがまま自然に受け入れることが初めて出来た。同類である孤児たちやすでに息絶えた仮面の男にも感じたことのない安堵感を覚えたことに何ら疑問を浮かべることもなく、壊れかけた天使もまた遙かな時の向こう側より己に課せられた使命に従って痩せ細ったクエンティンを包み込もうと腕を伸ばし、柔らかく白かったはずの自らの腕と指先が血に染まっていることを思い出し、何もかもが違いすぎる二者の触れ合いは互いが求めながらも自制によって薄紙一枚の隙間を隔てて停止することになったのだった。過去いかなる命令が天使に下されていたか、あるいはありもしない主の声が内側に生じたか、どちらにせよ永遠から取り残されて一人この荒野に遺された翼無き天使は、自らを動かす声に突き動かされるままクエンティンのために残り僅かな時間を歌に捧げることに決めた。

 夜明けの歌はもはや終わり、日だまりと呼ぶには熱すぎる陽光が周囲を温め続けているなか、古き時より一度として使われることのなかった凄絶な歌唱が始まる。ひそやかな嘆きにも似た独唱より始まると、やはり旋律は失われたままだが透明さを残した声によってクエンティンも深夜から早朝にかけて瓦礫の地平を満たしていった歌声そのものであることに気づき、驚きをもって天使の変わらぬ表情に目を向ける。己に僅かに残された褪せた刻の名残を焼べながら幼子の瞠目を唯一の糧として天使はなおも歌い上げる。喉の奥から引き出される崩壊の序章はもはや美しさとはかけ離れた呪いのごとき重低音と悲鳴のような高音を繰り返し、あるいは歌と呼ぶことすら烏滸がましい不協和音として周辺一帯に響き渡っていったのであるが、クエンティンは耳を塞ぐことも目を逸らすことも顔を背けることも何一つ出来ず、ただひとつ許されたのは、天使の背景として現れたる、これまで何百、何千回と繰り返し往来してきた機械人形たちの埋もれた墓場、折り重なっていた瓦礫の平野と放棄された鉄屑で形成されていた歪な尖塔が軋み、撓み、揺れ動きつつあるさま、その滑らかな一切の崩落を呆然と見下ろすことだけだった。

 天使の歌が広がるたび無数の残骸の奥底から異なる音階が鳴り響き、それはひとつふたつと重なり合いながら共鳴して、いつしか数十数百と反響と分散を繰り返し欠如していた旋律として成立するとき、くすんだ鈍色の世界は一瞬のうちに融けた硝子めいて赤く染まると、やがて冷えて色を失い青く染まった空の果て、あるいは輝く地平線と瓦礫の稜線とが継ぎ目なく繋がりながら、今こそ楽園は一枚の絵として描き直されるのだった。いつか誰もがこの地から追放されると知ったクエンティンのつま先から感じる振動は時間の経過に従って意味ある形を取り戻していくのだが、あれほどに崩れきっていた無惨な歌声を優しく補うように各地から互い違いにひとつの意志と方向を目指した音楽が鳴り響き、あまりにも巨大な音楽の発生にこの地に住まうすべての人々が何事かと集まってくるのを一瞥だにせず天使は歌い続け、遮られることもなく陽光を映し出していた蒼天はだんだんと暗くなってゆく。巨大な天蓋は雲ではない大量の影で歪に覆い尽くされていった結果明滅を繰り返したのだったが、地上より響き渡る歌声はますます輝きを増していくと、どこまでも清澄に、あまりにも豪奢に、精緻にして大胆さを確立してゆけば、四方より旋律と歌は重なり、ひとつの音楽となって小さな小さなクエンティンの全身をゆっくりと飲み込んでいった。闇に飲まれた塞がれた楽園に背を向けたクエンティンは鉄の大地を踏みしめ歩み続けるうちに、降り注ぐ光の歌が他の誰でもなくただ自分のため、自分ひとりのために与えられた願いであることを理解し、最後の力を振り絞って迫り来る終わりに抗いながら歌い続ける天使の眼差し、闇の中にあって星に似た煌めきを覗かせるガラス製の蒼眸より向けられた穏やかで慈愛に満ちた視線をぎこちなく見つめ返す。そして歌がもうすぐ終わることを示すように天使は薄暗さを増した天をまっすぐ指さすと、クエンティンもその指し示された方角を仰ぎ見る。

 天を埋め尽くす影は数千数万にも及ぶのだったが、そのすべてが同じ形、同じ顔をした、しかし白い翼を持っていることだけが異なる天使であり、ついに力尽きた翼無き天使、クエンティンのための彼女の死と同時に、頭上に溢れた天使たちは道を開くように塞いでいた空を開け放ち、皓皓と明るさを取り戻した鈍色の世界を見下ろしては喉を振るわせ美しい声で歌い出すのだった。

 二度目の歌が終わる頃、空から降り注いだ真白き光と地上より吹き上がった暗き影の狭間に、闇の渦の底で堆積していた瓦礫の山が砕けると崩れ去り、動きを止めた天使によって最後に抱きしめられたクエンティンをただの一息で飲み込んでいったのだが、混迷を圧し潰す目を開けていられないほどの眩さと気が遠くなるくらい大量の歌声そして僅かな人間たちの悲鳴、これを表情もなく眺め続ける葬列めいた天使たちの去りゆく姿の、あまりにも整然とした行進の情景にかき消されてしまって、数奇な出来事に巻き込まれただけの少年と憐れみから空を手放した天使の亡骸がいつの間にかこの最果ての地より揃って姿を消していたことに誰も気づくことは出来なかった。

 かくして最初にして最後の天使は光溢るる寂しき蒼穹へと還り、続く天使達は穢れに満ちて廃棄された約束の地へと二度と降りてくることはなく、命亡きものどもの楽園と化した赫赫たる荒野の片隅にあっては、虚ろな歌の模倣が繰り返し繰り返し廃液のごとく垂れ流され、あるいは粉々に砕け散った残響が生き長らえた人々の身体の奥底に染み込むたび、刹那ごとに意味を失い色を薄れさせながら、いつまでも朽ち、混じり、壊れ続ける鋼鉄に彩られた大地のそこかしこへと永久を夢見ていじらしくこびり付いたのだ。

 そしてクエンティンは、今こそ逆しまの天へと墜ちながら荒れ狂う風の中に儚く消え去る永遠を聴いた。忘れられた昼の星に似て、もはや誰に望まれることもなくいつか願われることもなく、黝き闇の底をむなしく蠢き、紅き光の中を染まらず揺蕩い、しかし見果てぬ夢の向こうではなく、目蓋を閉じてその名を呼び続けながら、拙くも愚かしくも、そっと口ずさむことでのみ蘇る魂の歌を。

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瓦礫の楽園 三澤いづみ @idumisawa

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