#05 透花

 ビルの屋上にいた。青空の雲はまばら、時間は昼時なのに、妙に暗かった。

 見渡す限り、灰色のビルの屋上ばかりだ。給水塔はサイズは違えどデフォルト装備、それが唯一の個性といっていい。錆びている物、白い塗装が新しい物。銀色に、太陽の光を鏡のように反射する物……。どれも綺麗だった。うらやましいと思った。けれど、どこかで蔑んでいた。ちょっとした属性を、個性と勘違いしているように見えたからだ。

 ふと、透花は屋上の縁まで歩く。フェンスが無い。危ないな、とぼんやり思った。

 下を見ると、道路は流れで満ちていた。右から左に移動する、目線を下に向けてノロノロと動く人の群れ。中には赤いバイクの群れの濁流もあって、その大群が四本車線の道路を埋め尽くしている。流れは、地平線の彼方まで続いていた。

 風が吹いた。心地よい風で、透花は身を任せた。身体が空中に投げ出される。ああ、落ちているんだな、とぼんやり思った。それだけじゃない。後ろに何人かの気配があった。後ろに視線を向ける。何も見えないけれど、敵意は無かった。けれど、目下の大群に対して悪意があると、透花は悟った。

 視線を戻す。気づいたときには遅かった。落ちている最中なのに、自分の周りにも、ノロノロと動く人たちが流れていた。

 いつの間にか――流れは右から左の直線ではなく、ぐるぐるとした渦になっていた。延々と周り続ける濁流は、怠惰と甘えの竜巻だった。どこかに構えることなく、道を流れて放浪する。最初の目的だったモラトリアムは消え失せて、傷を舐めあう集合と化していた。そこまでいくと、もう流れは混沌でしかなくって――だからもう、流れは、これからはこれ以外のものには、なれないだろう。

 透花の後ろの人影が、気が狂ったように叫んだ。いや、狂っていた。濁流に引き寄せられると、人影は裸亀貝クリオネみたいに人の身体に見立てた口を開け、流れに任せて、口腔に濁流の人々を飲み込んでいく。飲み込まれたうちの、赤いバイクの一人が死んだ事を、透花は漠然と悟った。

 落ちる恐怖より、周りで起こっていることのほうが、よっぽど恐怖だった。

 人影は愚者を食い物にする。その人影の後ろには、様々な、輪郭を持たない人影が重なっている。人数すらもおぼろげだ。

 その、幽霊のような輪郭の無い人影の一人が、愚者を食う人影の中で暴れていた。ずるりとか、ぐちゅりとか、そういう音を立てて、曖昧な人影から、輪郭を持った人影が生まれ、そしてまた濁流に飛び込んでいく。

 そして一番後ろにいる、一番曖昧な、一番大きな人影が、手前の幽霊のような輪郭の人影に、ゆっくり、ゆっくりと忍び寄り、そして同じように身体に見立てた口を開け、その巨大な牙を突き立てた――!


 目が覚める。いやな汗が噴出していた。生きている自分を感じ取る。目が覚めると同時に、夢の内容が薄らいでいく。意識して、現実のことは何も考えないようにする。目を閉じて、まどろみの中に戻り、断片をかき集めていく。

 目覚めは悪かった。いやな夢を見た――憂鬱な空気をまとった人間の海に、ビルの屋上から飛び降りる映像だった。魚群みたいな人々の群れは、あまりに現実離れしているのに、映像は妙にリアルだった。

 そして――ワケの分からない黒い人影。その後ろにいる、薄い人影……良く分からなかったが、透花が見れたのは、二種類だった。そして、手前の人影を、奥の人影が……。

 透花は、身の毛がよだった。いやな予感がした。

「最悪……」

 これを、そう呼ばずしてなんと言おうか。

 まだ室内は暗い。夜中だろう。透花は一階に下りると、冷蔵庫から、一リットルのペットボトルを取り出した。透花の専用のミネラルウォーターである。

 豪快にも、それに口を付けて、中身をがぶがぶと飲む。ただの水だが、冷たい何かが食道を冷まして潤していく感覚は気持ちいい。

 それで気分を誤魔化してから、透花は自室のベッドの上に戻って、曖昧な睡眠についた。


 甘い香りの快楽も、一夜もすれば頭痛に変わる。

 少し前まで、危険ドラッグは合法ドラッグという名前だったらしいが、呼称を意図的に変えた警察の方針も分かる気がする。なるほど一般に認知されている下手な薬物より、新手のクスリは性質が悪そうだ。

 それもこれも、一般への技術の漏出に原因があるのだろう。無料動画サイトで、外国人が農薬か何かを使って、薬物を精錬する方法を紹介した動画があったらしい。情報化社会では、独占すれば富となるものを、どういうわけか広めたがる人間が、勝手に情報を提供してくれる。

 問題になるのが、提供した情報を鵜呑みにしてしまう輩がいるということだ。このハートペインを精錬した人間も、そういう類に違い無い。快感を催す機能は有していても、質が悪く、不純物も混じっている。

 やろうと思えば、誰でも、何かをある程度、達成できる時代になった。その弊害として、今までありもしなかった問題が多発する。『馬鹿と鋏は使いよう』という言葉があるが、使う側が馬鹿では目も当てられない。

 透花は、担任と副担任の変更といった日常的ニュースを、授業と同じように軽く聞き流した。興味があるのは、そんなことではなく、この馬鹿に使われた鋏に切られる者たちの事。

 彼らはどうして、こんな危なげなものに手を染めたがるのだろう?

 日常からの逃脱? 好奇心の逸脱? 輪廻からの解脱?

 一人一人、その理由は違うのだろう。しかし大抵は予測しうる。健全な集合において理解される範疇の差異は、廃通りという不健全な集合において、ダシにされる程度の隙、弱所でしか無いのだ。

 彼らほど、人間をやっている者はいないだろう。四速歩行の動物は、仰向けに寝たりしない。いつ襲われるか分からないから、常に足を折りたたみつつ、耳を研ぎ澄まして眠る。イルカなんて左脳と右脳を、交互に眠らせる始末だ。

 その点、人間というのは愚かしい。歩くときには弱点である胸や腹を見せ、わざわざ転倒しやすい二足で歩行する。それは襲撃者がいないゆえの傲慢が理由だろう。だが、廃通りの消費者は違う。傲慢が原因ではない。彼らが手を地から離したのは、社会の中で四足歩行する事に疲れたのだ。

 疲弊によって見せた弱点に、噛み付く馬鹿がいる。それの尻拭いを、私がしなくちゃいけないのかと思うと、透花は憂鬱な気分になった。

 透花は、ある意味、それら全てにおいてシンパシーを感じざるを得ない立場にある。だから分かる。このパステルカラーに満ちた世界で、ダルトーンに廃れた連中は、廃通りと同じ臭いがする連中だ。

 甘い香りに湿潤は無い。擦り切れそうに乾燥していて、すぐに朽ちそうな儚さがある。


 教室という集合は、グループという子集合の総体である。個人という最小単位で見るよりも、グループという単位で見る方が、教室の本質には近づける気がする。

 その中で、昨日嗅いだ、あの乾燥した甘ったるい匂いが残っている人間を探す。それには昼休みの教室がうってつけだ。教室中を移動するフリをして、後ろを、横を、通り過ぎて匂いを嗅ぐ。

 生来の感性なのか、透花は鋭い五感を持っていた。五感が鋭いと、感受性の豊かさに繋がると聞いたことがあるが、それにしては自分はドライな性格だと自覚している。

 昨日記憶した匂いと、現在の人間の匂いを比較するくらい、造作も無い作業だった。煙草を吸えばイヤでも臭いが染み付くように、それが他の匂いでも例外では無い。

 香水の匂い、除光液の匂い、芳香剤の匂い、その他諸々Whatnot、エトセトラEtc.

 少女たちのまとう空気は、混濁した混沌、もはやカオスだった。匂いにおい臭いニオイで誤魔化すために厚く塗りたくる感じ。何層にも積み重なった匂いは境界を失って混ざり合い、別の『におい』に変貌を遂げていた。

 だが、その中に甘ったるい匂いがあるのを、透花は嗅ぎ逃さなかった。

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