第二章 梅に鶯

第一話 マリエ美容室

(1)

「ねえ、たみちゃん。ほんとに行っちゃうのかい?」


 そう言って、ママが寂しそうにわたしの手を握った。


「やだなあ、ママ。ここを辞めるわけじゃないんだから。でも、いつまでもママやゆかりさんに迷惑かけるわけにはいかないもん」

「そりゃそうだけどさ」


 ゆかりさんも寂しそうだ。


「なんか、ほんとに妹ができたみたいだったから」

「うん……」


 わたしも泣きそうになる。


 わたしが一葉館に逃げ込んで、この世の終わりが来たみたいに悩んでた時。わたしの周りは、どこもかしこも不運と不幸で埋め尽くされてた。もう、自分にはどこにも出口がないんじゃないかって。そんな考えしか浮かんでこなかった。

 ここまでがんばって。がんばって、がんばって。でも行く先々の看板には、全部『はずれ』って書いてある。わたしはやり切れなかった。崩れそうだった。あの写真に対する反発だけが、残り少ないわたしのエネルギー。それが切れたら……。そんなん、考えたくなかったけど。


 でも、わたしは神様って絶対にいると思う。養親に見つかりにくい、古くて目立たない美容室を探してうろうろしてた時に、ママのところを見つけたんだ。あれは神様が導いてくれたんだと、本当にそう思う。


 わたしは、今でもあの時のことを鮮明に覚えてる。


◇ ◇ ◇


「あのう……」


 だいぶくたびれた感じの扉を引き開けて、わたしは顔だけ突っ込んで店内を見回した。


 店の外から見えてた通りに、お客さんは誰もいない。前にわたしが働いていた店とは全然世界が違う。くすんだ、寂れた、古臭い店。店長さんなのかな。疲れた顔をしただいぶ年のおばさんが、手にしていた雑誌を置いてわたしの方を見た。ちょっと不思議そうな顔をしてる。


「いらっしゃいませ。あの、ご予約は?」


 予約取るほど流行っている店には見えなかったけど……。


「あ、いえ、求人誌を見て伺ったんですけどぉ」

「は?」


 おばさんが、びっくり顔でわたしをじっと見つめる。


「うち、そんなん出してたっけ?」


 えっ!? わたしもびっくりする。二人してどうやって話したもんか困っちゃって、しばらく顔を見合わせていた。


「まあ、入って」


 わたしを店の中に招き入れたおばさんが、待ち合いのソファーにしんどそうに腰を下ろした。


「ゆかりかな……」


 そうぽつりと漏らしたおばさんが、わたしの顔を見て少しだけ笑った。


「わたしは竹内たけうち真理江まりえです。あなたは?」


 わたしは自分の名前を言いたくなかった。でも、わたしが前の店で働いてた時の貯えはそんなにいっぱいあるわけじゃない。贅沢を言ってる場合じゃない。


「三ツ矢多美って言います」

「いくつ?」

「二十三です」

「あなたみたいな若い人が、なんでうちみたいなおんぼろのとこに?」


 わたしが言いよどんでたところに、三十歳くらいなのかな、わたしよりはだいぶ年上な感じの女の人が店に入ってきた。


「あれ?」


 その人がわたしを見てびっくりする。おばさんが、座ったままで文句を言った。


「ああ、ゆかり。あんた勝手に求人出したんでしょ。なんでそんなことするの!」


 怒るおばさん。ゆかりって呼ばれた女の人は、ぷいっと横を向いた。


「ママ! 今のまんまだったらうちはジリ貧なの。わたし一人じゃそんなにこなせない。ママは体のことがあるから、今までみたいに店に立てないでしょ?」

「だけどさあ」

「だけども、したけどもないの。うちみたいな店は、求人の条件よくないもん。募集かけたって誰かが来てくれるあてなんてないんだから。まず動かないと」


 ゆかりさんは、そう言った後でわたしの顔を見た。それからおばさんに確認する。


「ママ、お客さんなの?」

「あんたが出した求人に応募してきた子みたいよ?」

「ええっ!?」


 目を真ん丸にして、びっくりしてる。自分で求人かけときながら、ほんとに応募者がいるなんて思ってなかったみたいな。なんか、おもしろい人。


「んまー、おばちゃんが来るかと思ったのに、こんな若い子が?」


 ゆかりさんが、わたしをまじまじと見る。


「ええとー。名前は? それと、職歴を聞きたい」

「あ、あの。三ツ矢多美です。二十三です。この前まで中塚のローリーってとこで働いてました」


 のけぞって驚くゆかりさん。


「ローリー!? もしかして田島ゆえさんとこっ!?」

「は、はい……」

「すっごい高級店じゃないの。なんでそんなすごいとこで働いてた子がうちみたいなとこに? あんた、そこで何かやらかしたの?」


 じろじろとわたしを見回すゆかりさん。この状況で、わたしが作り話なんかできるわけない。さっさと諦めるか、それとも正直に事情を話すか……。わたしは迷った。黙っちゃったわたしをかばうみたいに、おばさんが口を出した。


「ゆかり。あんた、最初っからそんなにがりがり問い詰めてどうすんの! うちは来てもらう立場なんだから、ちょっとは気ぃ遣いなさいよ」

「ええー?」


 不服そうなゆかりさん。わたしはゆかりさんのその様子を見て考えた。カギを握っているのは、おばさんじゃなくて、求人を出したゆかりさんだ。ゆかりさんにうんと言わせないと、どうにもならない。個人でやってるみたいな小さな店で、求人出してるところはほとんどない。隠れ場所を探してるわたしは、食い下がるしかなかった。


 わたしは覚悟した。全部話そう。それで養親にわたしのことが漏れたら、わたしに運がなかったってこと。人生を諦めるしかしょうがないかもしれない。そんな考え方、したくもないけど。


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