(3)

 じっと俯いている三ツ矢さんに、続けて話しかける。


「僕は……写真のこと以外にも、三ツ矢さんのことですごく違和感を持ってることがあります」

「は?」


 三ツ矢さんが、顔を歪めて僕を見る。


「少なくとも、美容室の同僚の方やここのマスターとは親しげに話をしてる。さっき手のかかるお客さんがいたって言われてたから、お客さんともやり取りしてるってことですよね。それに、先ほどここに来られた時も僕と普通に話をしましたよね」

「ああ」

「でも、三ツ矢さんが一葉館にいた短い間、他の部屋の方々は揃って三ツ矢さんのことをこきおろしてます。無愛想でなんの挨拶もない、非常識な人だって。小野さんも心配してました。あんな無愛想で美容師なんてやってけんのかねって。おかしい。どう考えてもおかしい。イメージがズレてる」


 あのチラシに載っていた、恐ろしいほどぎごちない笑顔を思い出す。


「大家さんが言ってたセリフ。そして一葉館にいる間の三ツ矢さんの態度の変化。僕が思い付く理由は、これも一つだけです」

「うん」

「三ツ矢さんが一葉館にいる間に、辛い決断を迫られていることがあった。それは、人のことなんか一切気にしていられないほど深刻なもの。そして、今でもまだ決着がついていない。違いますか?」


 ふう。小さな吐息を漏らした三ツ矢さんが、寂しそうな笑みを浮かべながらゆっくり顔を上げた。


「あんた、すごいね。どんぴしゃりだよ」


 当たって……しまったか。


「僕も切羽詰まってた。いや、違うな。今も切羽詰まってるんですよ」

「うん」

「僕はバイト先の店長にいつも言われてます。もっと必死に生きろって。でも、僕は今でも必死に生きてます。いきなり親と家を引っぱがされて、引きこもってられなくなって。ぐだぐだだった僕にとっては、これでも十分必死なんです」


 空腹で震えるようになった拳を握って、堪える。


「でも、それだけじゃ続かない。ただ生きてるってだけじゃなくて、ちゃんと自分で前へ進もうとするなら。僕には何かきっかけがいる。ヒントが欲しい。横手さんにきついことを言われました。この写真にシンクロしたら、あんた首吊るよって」


 うん。三ツ矢さんが頷いた。


「だから三ツ矢さんにお話を伺って、自分なりにこなしたいんです。それは三ツ矢さんの中に踏み込むことになるかもしれない。でも……」


 でも。僕はその先は言わなかった。言えなかった。人の生き方に関わる。触るんじゃない。関わる。大家さんの投げかけはとても重いものだ。小野さん、横手さん、梅田さん、園部さん。僕は、彼らの生き方を見せてもらった。でも、僕はその方針に何も関わっていない。映画を見たのと何も変わらない。僕がどんな感想を持ったところで、それが彼らの生き方を変えることはないのだから。


 でも、三ツ矢さんの場合。それがどういう方向に転ぶか分からない。話を聞くことで。僕は積極的に三ツ矢さんの選択に関わることになるんだろう。それは、僕が三ツ矢さんの生き方を曲げる結果にもなりかねない。それを覚悟できるの? 大家さんが僕に突き付けたのは本当に重い問いだった。


 ぐうぐうとひっきりなしに鳴り続けるお腹をどやし続けながら。僕は三ツ矢さんの返事を、黙って待ち続けた。しばらくじっと僕を見据えていた三ツ矢さんが、さっと腰を上げた。


「出よう。あんた、晩ご飯まだなんでしょ? わたしも仕事上がってすぐ来たからお腹空いた。ママがご飯作ってくれてるけど、あんた呼ぶわけにはいかないから外で食べようか」


 ママ? 首を傾げた僕をせき立てるように、店の外に押し出して。三ツ矢さんがカウンターの奥に声を掛けた。


「マスター、コーヒーごちそうさまー!」

「おう、またなー」


 のんびりした返事が聞こえてきた。


◇ ◇ ◇


 寒風が薄着に突き刺さる。僕が美容室の前で待ってる間に、喫茶店の中で暖まっていた体がすっかり冷えきってしまった。まるで寄る辺ない野良猫だ。園部さんのことなんかなにも言えない。がたがた震え上がっていたところに、着替えた三ツ矢さんが暖かそうなダウンジャケットを着て出てきた。いいなあ……。


「ごめんね、待たせて。喫茶店でも待たせちゃったし、お詫びに晩ご飯おごるよ」


 そんなの気にしなくていいって言えないのが寂しい。


「ありがとう。お言葉に甘えます」


 無言で幹線通り沿いのファミレスまで並んで歩いた。


 にぎわうファミレスの角の席に向かい合って座る。三ツ矢さんは、喫茶店に来た時とは別の服に着替えていた。鮮やかなえんじ色のタートルネックセーターを着て、髪は後ろに束ねている。

 前に店に行った時には化粧がぞんざいだった印象だけど、今はきっちりメイクしている。すぐに出て来なかったのは、身繕いに時間がかかったからなんだろう。僕らの横を通り過ぎる人が、三ツ矢さんの方を振り返る。きりっとした表情の、女優さんみたいな美人……そういう印象を受けるんだろう。


 でも。店長に、女の子に声掛けてどうのこうのって言われたけど、僕にはまだ他人に目をやる余裕はない。自分のことで精一杯だ。だから、同じくらいの年格好の女性と一対一で面と向かって話するって言っても、特別な感慨はない。これからどんな話になるのかっていう緊張の方が先に立つ。


 メニューを眺めていた三ツ矢さんに聞かれた。


「なんにする?」

「ああ、ミートスパでいいです。安いし」

「気にしないで、もっといいもん頼んでもいいのに」

「昨日の夕食はお握り二個だったから、僕にとってはすごく豪華ですよ」

「あんた、そんな食生活してたら体壊すよ」


 呆れ顔で見られる。


「そうなんですけどね……」


 貧乏暮らしは自慢にも何にもならないし、惨めなのはその通りだ。だからと言って、今はそれを打破する力がない。耐え凌ぐしかない。


 ウエイターを掴まえて二人分の注文を出した三ツ矢さんが、僕に聞いた。


「あたしは、あんたのフルネームを知らないんだ。まず、それを教えてくんない?」


 そういや、そうだったな。僕も三ツ矢さんの名前の方は知らない。お店の人やマスターにたみちゃんと言われてたけど……。


「僕は弓長ゆみなが利幸としゆきです。二十五」

「ふうん。トシ、か」

「ははは。店長にはそう言われてますね。ゆみとかゆみちゃんと呼ばれると、女の子に間違われるので」

「きゃはははは。そりゃ、めっちゃキモいわー」


 三ツ矢さんが声を上げて笑った。


「三ツ矢さんは? たみちゃんて言われてましたけど?」

「ああ、あたしは三ツ矢多美だから、そのまんまさ。二十三」


 二つ下か。三ツ矢さんがファミレスのアンケート用紙の裏に、備え付けの鉛筆で名前を書いた。それから……三ツ矢、のところをがりがりと横線を引いて……消した。


 ……?


「悪い。あたしは自分の姓が嫌いなんだ。誰にも呼んで欲しくない。だから、あたしのことはたみって呼んでほしい。あたしもあんたのことはトシって呼ぶから」


 お互いを姓ではなくて、名前の方で呼ぶ。一見、親しい男女の間のやり取りのように見える行為。でも三ツ矢さんの表情には、そういう浮かれたものは何も見えなかった。本当にその姓が嫌いなんだろう。僕が電話した時。喫茶店で話をしてる時。僕がずっと連呼していたその名前。それは……彼女にはどこまでも不愉快だったのかもしれない。


 微妙な空気が流れているところに、頼んでいた料理が来た。ああ……本当に。まともな料理を食べられることが嬉しい。僕が食い入るようにスパゲティを見ていたのが、情けなかったんだろう。三ツ矢さんがぼそっと言った。


「あんた、ほんとに食生活が悲惨そうだね」

「さっきも言ったじゃないですか」

「いやあ、冗談なんかと思ってたけど。その顔見ちゃうとねー」


 三ツ矢さんが、自分のハンバーグランチのハンバーグを半分に切って、僕の皿に乗せた。


「食べられる時に、食べときなよ。あたしは、いつでもママんとこで夕飯食べられるから」


 ううう。年下の女の子に同情されるなんて、恥ずかしいったらない。でも、今はそれどころじゃない。


「ありがたくいただきます」


 自分でも呆れるくらいにがつがつと料理を食べた。三ツ矢さんは、その様子をおもしろそうに見ていた。


 ふう……。僕らが食べ終わった後。三ツ矢さんが、セットのコーヒーを僕の方に押して寄越した。


「あたしはドリンクバーでジュース飲めるから、そっちはやるよ。飲んで」

「ありがとう」


 食器が下げられて空いたテーブルの上に、代わりに並べるように。三ツ矢さんが……ぽつぽつと話し始めた。


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