(2)
さあ、切り出そう。
「今日は突然お呼び立てして済みません」
僕はあの写真を真ん中に置く。
「この写真。三ツ矢さんのですよね?」
写真をじっと見つめる三ツ矢さん。僕は彼女の返事をじっと待った。認めるか。ウソをつき通すのか。
「そうだよ」
静かに。僕を見ずに三ツ矢さんが返事をした。
「それはあたしが持ってた写真。写ってるのもあたしさ」
やっぱりか……。
「僕が知りたいのは、三ツ矢さんがなぜその写真を捨てずに部屋に置いていったか、です。でも、それをお聞きする前に……」
僕は大きく深呼吸をした。
「僕がなぜその写真に執着するのか。それを、三ツ矢さんに話さないとなりませんよね。今のままじゃ、僕は単なる気持ち悪いロリコン男だ。いや、すでにそう思われてるのかもしれませんけど」
三ツ矢さんがくすっと笑った。
「そだね。あたしがそれを話すかどうかも。あんたの話を聞いてから決めるよ」
僕はコーヒーを口に含む。インスタントでないコーヒーを飲むのは久しぶりだ。やっぱりおいしいなあ。暖かい店内。おいしいコーヒー。話す相手が目の前にいること。僕には……ずっとなかった世界。ただ、それに浸る間もなく僕のお腹が鳴り出した。ぐるるるる。ああ腹が減った。それが紛れもなく僕の現実だってこと。そこから話しよう。
「僕はね。この写真にすがったんですよ」
顔を伏せていた三ツ矢さんが、顔を上げて僕を見る。
「すがった?」
「そうです」
ふう……。
「この写真を最初に見た時。僕は、この女の子の表情に絶望しか感じ取ることが出来なかった。でも、これは昔の古い写真です。だから、今はきっと幸せに暮らしてるんじゃないか。それは僕の予想じゃなくて、願望です。そうあって欲しい。もしそうなら、僕にもチャンスがあるかもしれない」
「チャン……ス?」
「はい」
「何の?」
「まともに生きる、です」
「今はまともじゃないの?」
返事の代わりに僕の腹が鳴った。ぐうううっ。
「まともじゃないでしょうね。ほとんど引きこもりのニートみたいなもんでしたから」
「そうは……見えないけど」
「今はね」
僕は残っていたコーヒーに砂糖を入れて、口に流し込んだ。少しの間だけでも、腹を黙らせるために。
「三ツ矢さん。僕はほとんど学校に行ったことがありません。こてこての不登校児でした。僕には学校っていうところが、自分を壊す場所にしか思えなかった。学校に何か原因があったわけじゃないです。きっと僕が……おかしかったんでしょう」
最初僕を見ていた三ツ矢さんの視線が、少しずつ下がって来た。
「僕と親との関係は、それがきっかけで崩れました。最初は僕をなんとか学校に行かせようと手を尽くしていた親が、僕を放置するようになった。僕は家の中に捨てられたんです」
「へえー」
乾いた反応だ。続けよう。
「当たり前ですけど、僕は怖くなりました。このまま本当に親から見放されたら、僕は生きて行けなくなる。その恐怖だけに駆り立てられて、大検受けてバイトしながら夜間部のある大学に通った。卒業してから、一度就職しました」
「まともになったんじゃん」
「いいえ。僕は、その間もずっと実家に住み着いてたんですよ。ドブネズミかゴキブリみたいに。親は僕を完全に無視してましたから、僕に家賃や生活費を入れろって言ってきたことはなかったんです。僕は実家という家賃タダのアパートに住んでたみたいなもんです」
自分の腐肉をちぎり取るようにして、話を続けた。
「僕はね、そのことを当然みたいに考えてた。就職した会社をすぐに辞めて、アルバイトを転々として自分の食費だけ稼ぐ。そういうだらしない生活をしてきました。なんの目標も。生き甲斐もなく。だらだらと」
ふう……。三ツ矢さんの肩が落ちる。そうだろうな。あまりにだらしない生き方だから。
「でもね。急に事態が変わったんです」
「は?」
「今年の九月に。両親が海外旅行先のホテルに遺書を残して失踪しました。理由は、父が経営してた会社の倒産です」
がたっ! 眼色を失った三ツ矢さんが、立ち上がった。視線とわずかな笑いで、着席を促す。三ツ矢さんが落ち着くのを待って、その後の顛末を話した。
「僕には、両親が残した借金だけが残りました。相続放棄したので僕が借金を背負うことはなくなりましたけど、実家は債務整理のために競売にかけられた。僕は家を出て行かないとならなくなったんです」
また……腹が鳴る。ぐうううっ。
「貯金なんかこれっぽっちもありません。なけなしの有り金はたいて、一葉館に転がり込んだ」
僕は自分を指差した。
「このくそ寒いのに冬服がない。家賃と光熱費だけでアルバイト代がほとんど消える。コンビニのバイトなんで売れ残りの弁当をもらえるんですけど、それが僕の命綱です。さっき三ツ矢さんが、なんで先に注文しなかったって言ったでしょ? したくても出来ないんですよ。お金がなくて」
「ひどい……ね」
「仕方ないです。自業自得ですから」
僕は、空になったコーヒーカップに目を落とす。
「いっぺんに何もかもなくして。僕は呆然としてたんですよ。悲しいとか辛いとか、そんなことを考える余裕もなかった。ただ……明日をどうするか。それしか考えられなかった。そこにこの写真があった。あったんです」
僕は顔を上げて、三ツ矢さんを見つめる。
「さっき言ったみたいに。これは過去の写真だから今はきっと幸せになってるだろうって。そういう自分の願望をここに重ねました。それを確かめたかったっていうのが最初の動機です」
「最初の?」
三ツ矢さんも、僕をじっと凝視した。
「そうです。でもね、写真のことで最初に伺った時に、三ツ矢さんも大家さんも僕にウソをついた。三ツ矢さんは、その写真が自分のものじゃないって言い、大家さんはその写真があることに気付かなかったって言った」
「うん」
「なぜウソをつく必要があったのか、僕はそれをずっと考えてたんです。いろいろ考えたんですけど、僕には一つの理由しか思い付かなかったです」
「なに?」
「気付いて欲しいってこと。ウソを越えて、辿り着いて欲しいってこと。大家さんは、それをサポートしただけ。もし、三ツ矢さんが今何不自由なく幸せな毎日を過ごされているなら、そもそもあの写真を部屋に残す意味は何もない。捨てるだけでいいんですから」
「うん」
「大家さんをそう問い詰めたら。大家さんから言われました。三ツ矢さんはあの写真に結論を預けていった、と。大家さんがそう言われるってことは、大家さんは三ツ矢さんの事情をご存じなんでしょう?」
三ツ矢さんが頷いた。
「でも、大家さんはそれを一言も僕に漏らしませんでした。大家さんが僕に言ったこと。三ツ矢さんの生き方に関わる勇気があるなら、本人から直接聞きなさい」
「そ……か」
「はい。その過程で、僕が三ツ矢さんに写真のことをお聞きしたい理由も変わりました」
「どんなふうに?」
思わず苦笑する。
「一葉館に来てから。僕は否応無しにあそこに住む人たちの生き方に触れました。もう実家でぐだぐだしてた時みたいに、自分の部屋に閉じこもって死んだ振りしてる場合じゃない。もう僕には後がないんだってことを、毎日思い知らされてる。突破口が欲しいんですよ。今までの自分の生き方をぶっ壊すための」
あの写真を目の前にかざす。
「この女の子の過去がどうであれ、この子が成長して三ツ矢さんになった。僕は三ツ矢さんが今幸せか、そうでないかは知らない。だけどそれよりも」
僕はもう一度その写真をじっと見つめた。
「僕は、事実を。三ツ矢さんがどう生きて来たのか、そのこと自体を。余計な幻想抜きでちゃんと見て、聞いて、消化しないとならない。それが今日伺った理由です。僕の興味本位じゃないってことを信用してもらうために。僕の事情は最初に全部お話ししようと。そう思ってさっき話しました。こんなこと、人に自慢できることじゃありません。隠すつもりはないですけど、知ってるのは大家さんだけです」
三ツ矢さんの顔に迷いの表情が浮かんだ。僕が写真の女の子の行く末に甘い幻想を被せていたみたいに、三ツ矢さんもまた、僕に何か過大な期待を寄せていたのかもしれない。
ぐうううっ。また腹が……鳴った。
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