(3)
「三ツ矢さんがあれを残していったのは」
大家さんが、今は何も貼られていないコルクボードをもう一度じっと見つめた。
「三ツ矢さんの迷い。三ツ矢さんが自分で捨てなかったのもそう。自力じゃ幕を引けなかったから、あんな形で置いていったの。誰かに結論を預けていった、そういうこと」
「何が……あったんですか?」
僕の方を振り返って、首を横に振る。
「それは、わたしからは言えない。あなたに本気で彼女の生き方に関わる勇気があるのなら、あなた自身で確かめればいいでしょ?」
そう言って背筋を伸ばした。
「わたしは彼女の意志を尊重しただけよ。次の入居者が弓長さんであってもなくても、彼女はその入居者があの写真をどう扱ったかを、わたしにこっそり尋ねて来たでしょうね。わたしはそれを待ってただけ。それだけよ」
「三ツ矢さんは、大家さんに問い合わせて来たんですか?」
「いいえ。昨日はその話はなにもなかった。でも彼女が欲しかった解答は、あなたからもらってる。三ツ矢さんはそれで満足したはずよ」
うーん、ちっとも分からない。
昨日の三ツ矢さんの反応は、とても乾いたものだった。嬉しいでも、腹立たしいでもない。むしろ気抜けするくらいに淡々としていた。急に機嫌が悪くなったのは、前の住人のことを尋ねてから……。
あっ! そ、そっか。僕はその時には、写真に関するウソのことは何も知らない。三ツ矢さんが写真の持ち主でないと分かった時点で、僕の興味は三ツ矢さんから離れて、写真の過去の方に吸い取られてしまった。話が自分から逸れたこと。それにカチンと来たんだ。なるほど。
じっと考え込む僕を残して、大家さんが立ち上がった。
「わたしが心配してたことは、一つ解消したかな。小野さんや横手さんから、あなたが努力してるってことは聞いてます。今日お話を聞くまでは、正直言って危ない人だなと思ってたけどね」
含み笑いして。それから……。
「うちみたいな古いぼろアパートに転がり込む人で、訳ありでない人なんかいないよ。みんな事情があるからうちに来る。それも含めて一葉館なの。じゃあね。お休みなさい」
そう言い残して。帰っていった。
◇ ◇ ◇
大家さんが僕の部屋を出て。ほとんど飲み残された冷めたコーヒーだけが、ぽつんと座卓に残ってる。それが……ものすごく寂しい。
ふう。カップをシンクに運んで洗おうと思ったその時、二階から大きな悲鳴が上がった。
「きゃあああっ! だ、誰かっ! 誰か来てーっ!!」
慌てて部屋を飛び出す。あれは大家さんの声だ。僕の部屋の他にも、どこかに寄ったんだろうか? 一段飛ばしで階段を上がって、声の響いた方へ駆け寄る。そこは、二階の一番端っこ、207号室。梅田さんの部屋だった。いっぱいに開いたドアの前で、大家さんが腰を抜かしてしゃがみ込んでいた。
僕が大家さんの頭越しに部屋の中を覗き込むと。雑誌や紙が散らかり放題の乱雑な部屋の真ん中。こたつに寄りかかるようにして、梅田さんが突っ伏していた。辺りは血だらけ。そして梅田さんは、意識を失っていた……。
◇ ◇ ◇
救急車で救急病院に搬送された梅田さん。付き添った僕と横手さんが、診察した医師の説明を受ける。
「睡眠薬かなんか飲んだんでしょうけど、命に関わるような量でもないですし、切り傷の方も浅い傷で出血の量も大したことはないです。どちらも処置済みですので、ご本人が目を覚まされたらそのまま引き取ってください」
あっさり。冷たいなあ。僕がそう思って顔をしかめていたのが面白かったんだろう。横手さんが僕をつついた。
「ねえ、弓長さん。あんたさ、自殺者って見たことある?」
「ありませんよ。そんなの」
「見たら、自分がそうしようとは二度と思わなくなるよ」
「げえー」
「それくらい、死ぬっていうことは汚いんだ。自分がクソの塊になるってことを覚悟する必要があるんだよ」
眠ってる梅田さんの顔を見ながら、横手さんがこぼす。
「梅ちゃんにはそんな覚悟はない。これは狂言さ」
「狂言ですか?」
「そう。自分はこんだけ追いつめられてる。誰か助けてくれってね。でも、普段はわたしらとは関わりあいたくないと思ってて、実際にあまり関わりはない。自分から頭を下げて、すんません、お願いだからわたしの悩み聞いてくださいって言えないんだよ。プライドが邪魔してね。だから自殺を演じた。注目と同情を集めるためにね」
「!! 演技なんですかっ!?」
「演技にしてはやり過ぎだけどね。いい迷惑だ」
横手さんが、ベッドの足をこんと蹴った。
◇ ◇ ◇
梅田さんは、病院に運ばれて一時間もしないうちに目を覚ました。横手さんは、梅田さんをどやしつけてすぐに病室から追い出し、待ち合い室で待機させた。梅田さんは、ふらふらはしてるけど自力で歩いてる。なるほど……。
治療費の支払いを済ませた横手さんが、病院前のタクシーを捕まえて梅田さんを押し込んだ。僕には助手席に乗るように指示する。車中では誰も口を開かなかった。
一葉館の前でみんな下りて、横手さんがタクシー代を払う。僕はぼーっと突っ立ってる梅田さんを見張っていた。その必要はなかったかもしれないけど。
大家さんは、横手さんが対応してくれたってことで家に帰ったらしい。びっくりしただろうなあ……。
横手さんは、梅田さんを急かして二階に上げた。
「あんたの部屋ん中は、今すごいことになってる。少し落ち着いてから片付けな」
そう言って、自分の部屋のドアを開けた。僕は、横手さんにあとを任せようと思って背を向けた。その背中に横手さんの声が降って来た。
「弓長さん。あんたもおいで。ぷぅも含めて、三人並べて説教してやるよ」
げえー。横手さんの指摘はダイレクトで強い。僕はもう直撃を食らってるから、そのしんどさがよく分かる。きついなあ。
でも、横手さんが僕に言うことを変えることはないだろう。僕をドブネズミと罵ったその一言で僕への制裁はもう終わってる。僕をわざわざ引きずり込んだのは、梅田さんへの直撃を避けるためじゃないだろうか。
園部さんの時と違って、梅田さんはちゃんと仕事を持ってる。それが割に合うか合わないかは別にしても、自力で生活してるっていうプライドはある。それを無闇に壊すわけにはいかない。だから僕や園部さんのようなぐだぐだ組を並べて、梅田さんが沈み過ぎないように調整するんじゃないかな。
言葉遣いとか態度を見るとワイルドな直情型に思える横手さんだけど、園部さんへの対応もそうだったし、実際はかなり心配りが細やかだ。とても大人っぽい感じがする。出かける時も颯爽としてるし、だらだらしている姿を見たことがない。
だから……最初のべろんべろんに酔っぱらった姿に、ものすごく違和感を覚えるんだ。ああいうのはその後一度も見てない。あの時だけだ。
小野さんも、ただの人のいいおじさんではなかった。大家さんが言ってたように、ここに住むということはみんな何らかの事情を抱えているってことなんだろう。きっと、横手さんにも飲まないと凌げない何かが……あの日はあったんだろう。
そんなことを考えながら、僕は招かれるまま横手さんの部屋に入った。
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