(2)

 カップを持った大家さんに、話を切り出す。


「三ツ矢さんから伺った話。それは、一見筋が通ってました」

「一見、て?」

「引っ越してきた時に、押し入れに落ちていた写真がなんとなく気に入って、あそこに貼っていた。でも、自分の写真じゃないから、出る時にはそのまま置いていった。それが、三ツ矢さんの説明でした。でも、その後小野さんと話してて、それはどうにもおかしいって」

「どこが?」

「僕がここにお世話になる時にも思ったんですけど、大家さんは、ここ、一葉館を本当に大事にされてますよね。古いからって一切の手抜きはしてない。引っ越された後のチェックを怠るとは考えられないです。たとえ、それが一枚の写真だとしても」


 大家さんには、僕の突然の指摘が意外だったんだろう。眉をひそめたまま、僕の顔を凝視してる。


「コルクボードのこともそうです。三ツ矢さんは壁に染みを付けちゃったから、隠すのにコルクボードを貼った。そう言いました。もし僕が同じことをすれば、その日のうちに叩き出されるでしょう?」

「そうね」

「それに。三ツ矢さんの前にこの部屋におられた杉谷さんて方のことも、小野さんに伺いました。ここ、長かったんですね」

「ええ、そう」

「あの写真が、杉谷さんのものでないことはほぼ間違いないと思います。写真の中途半端な古さ。杉谷さんが独身だったこと。それを考えると」

「三ツ矢さんがウソをついてるって言いたいわけ?」

「はい。そして大家さんも、僕にウソをついてますよね」


 大家さんが、顔を強張らせた。


「どうして? わたしがどうして弓長さんにウソをつく必要があるの?」

「さあ、それは僕には分かりません。分かりませんけど」


 僕は、じっと床を見下ろした。それから……。


「僕に対して、ではなくて。大家さんの願望から出たんじゃないかなと」

「願……望?」

「はい。あの写真を、三ツ矢さんが取りに来るってことを期待して。あえて残しておいた。でも、僕にはそう言えないから、三ツ矢さんが忘れて行ったって言い訳をした」


 ずっと僕を凝視していた大家さんが、すうっと視線を外した。


「あの時大家さんは、諦めたんじゃないかと。三ツ矢さんはあの写真をもう取りに来ない。だから僕に、要らなければ捨ててと言った」


 僕は、床にあぐらをかいて座った。


「大家さんが言った通りに僕があの写真を捨てていれば。何も起こりませんでした。何も、ね。でも、僕にはあの写真がどうしても捨てられなかった。前も言いましたけど、僕にはロリコンのけはありません。僕があの写真に執着するのは、写ってる子の絶望の表情がどうしても気になるからです」

「絶望……ね。うん」

「きれいな服を着せられているのに、自分にはもう何も楽しいことはないって喜怒哀楽を全部放棄したみたいな、諦めと絶望の表情」

「なるほど」

「あれは昔の写真です。だから、今はそれが解消されてるんじゃないか。そんな、なんの根拠もない思い込みがあって。だから捨てられなかったんです。僕にもそんな幸運があるかもしれないって思えるから。でも、そんなのただの幻想です。それにすがるのは馬鹿げたこと。だから、辿ってみよう、確かめてみようと思ったんですよ。あの写真の続きを」

「ねえ。弓長さん。なんでそこまであの写真にこだわるの? わたしにはそれがすごく異常に思えるんだけど」

「確かに異常かもしれません」


 異常か。これまでは間違いなくそうだった。そして、僕は異常でもかまわなかったんだ。だけど……。


 実家と言うアパートを失って、ここに来て。これからも僕がバイトと部屋との往復だけで全部の時間を使ってしまえば、僕の生き方は今までと何も変わらない。そして、親と言う庇護者を失った僕に待っているのは、間違いなく破滅だ。


 僕が自分しか見ていなかった時には途絶していた道。その道が今……交差してる。ここに来てから否応無しにここの住人の生き方に関わってて、それは僕にとって得がたいチャンスなんだろう。だから、自分をこじ開けないとならない。自分に交差したものを活かさないとならない。僕にとって、この写真は鍵なんだ。自分と外とをつなぐ道のゲートを開ける鍵。


 少なくとも大家さんには僕の状況をしっかり話しておかないと、写真にこだわることに理解が得られない。腹をくくろう。


「大家さん。僕がここに来た時に、実家を引き払ったって話をしましたよね」

「ええ」

「僕の両親は、今年の九月に海外旅行先で遺書を残して失踪しています。僕に残されたのは、両親が残した借金だけでした。実家はその債務整理のために競売にかけられた。僕は家を追い出されたんです」


 大家さんの顔色が変わった。


「そして僕は。それまでずっと実家にしがみついてました。この年まで定職に就かないで、アルバイトを点々として。一応アルバイトとは言っても働いていたので、純粋なニートではないかもしれません。でも、精神的には間違いなくニートなんです」

「そんなふうには見えないけど……」

「いえ、僕は不登校児でした。小中高とほとんど学校に行ってません。親は僕を早くに見放して、同じ家に住んでいながら僕を放置してたんです」


 大家さんは、首を傾げて僕の顔を見る。


「でも、弓長さんは今働いてらっしゃるし。受け答えにも変なところは感じないけど?」


 苦笑する。


「僕は怖かったんですよ」

「え?」

「このまま、親が僕と本当に縁を切ったら、僕は破滅だって。恐怖が僕を無理矢理外に向かわせたんです。自分からそうしたかったわけじゃありません」

「ふうん……」

「大検を受けて、バイトしながら通える夜間部のある大学に行って。卒業してから一応就職しました。そのまま自立すればよかったんでしょうけど、僕にはそんな気概も元気もなかった。すぐに会社を辞めて。バイトで自分の食料だけ確保しながら、実家と言う名の家賃ゼロのアパートで暮らしてたんです。なんの目標も危機感もなく」


 大家さんが絶句してる。


「僕は、だらしない園部さんて子と同じですよ。何も変わりません。小野さんや横手さんみたいに、あの子に生き方を指南できるようなものは、これっぽっちも持ってないんです。だから、単に自分の縄張りを守ることしかできない。出てけとしか言えない」

「うん」

「あの写真の女の子は、ぐだぐだな僕と違ってきっと今は幸福を掴んでるんじゃないかって。それがあの写真にこだわる理由です。でもさっきも言ったように、それは勝手な僕の思い込みに過ぎない。だからどうしても確かめたいんですよ」

「そういうことか……」


 大家さんは僕から視線を外して、コルクボードの方を見た。


「確かに。弓長さんの言われた通りよ。わたしは弓長さんにウソをついた。あれは、わざと残しておいたの。でも、ね」


 冷めてしまったコーヒーを一口含んだ大家さんが、苦さに顔をしかめた。


「残しておいたわけは、弓長さんの推測とは違う」


 そう言って、大きな溜息をついた。



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