(3)

 もう一度、小野さんがくれた情報を足して、これまでのことをよく考え直してみる。何度考えても、結論は一つしか出て来ない。


「ということは。大家さんも三ツ矢さんも、嘘をついてるってことでしょうか」


 小野さんが頷いた。


「俺にはそうとしか思えねえ。それがなぜかは分かんねえけどな」


 三ツ矢さんと大家さんのこれまでの言葉を元に、今までの経緯を考え直してみる。


 大家さんの嘘。貼ってあった写真に気付かなかったってことはないはず。つまり、大家さんはあえてあの写真を貼ったままにしている。ということは、三ツ矢さんが取りにくるのを待っていたってことじゃないだろうか。僕に捨てていいって言ったのは、三ツ矢さんがその写真を取りにこなかったってことだ。三ツ矢さんは僕に、コルクボードの裏の壁に染みを作ったって自白してる。大家さんの叱責が軽かったのは、その染みを作った経緯を知ってるからじゃないだろうか?


 三ツ矢さんの嘘。三ツ矢さんの前の住人があれを残していった可能性は、ほとんどないと思う。それに、細かい大家さんが押し入れに残された写真に気付かないわけはない。と、言うことは、あの写真は少なくとも三ツ矢さんの持ち物だということだ。写っているのが本人かどうかは、まだ分からないけど。つまり、三ツ矢さんがあの写真をずっと貼ってあったのは、どういう背景かは分からないけれどあの写真が三ツ矢さんにとって重要な意味を持っているからだろう。だからこそ、目に付くところにずっと貼ってあった。でもここを出る時に、それをあえて置いていってる。


 僕はあの写真を出して、もう一度じっくりとそれを眺めてみる。小さい頃の写真は、大人になってからのとは全く感じが違うんだろう。しかも、写真が真正面からのアングルじゃないから、顔の細部がよく分からない。どんなにまじまじと見たところで、それが三ツ矢さんのものかどうか判別できない。


「うーん」


 頭を抱えちゃう。飾ってあったのはまだ分かるけど、それをなぜ置いていってしまったのか。理由が思い付かない。

 女の子の写真から目を逸らして、テレビボードの上の小野さんのご家族の写真を見る。とても幸せそうな、笑顔に溢れた集合写真。僕の家ではとうとう撮られることがなかった、幻の……写真。


「ねえ、小野さん。あの写真、いいですねえ」

「うん?」


 僕同様に何か考え込んでいた小野さんが、にっと笑った。


「だろ?」

「みんな幸せそうで」

「ああ。幸せじゃなくて、幸せそう。その通りだ」


 え?


 小野さんがさっき浮かべた微笑みを消して、写真をぼんやり見つめる。


「写真てのは残酷でね。本当は嬉しくなくても笑顔で撮れれば、そう言う風に見えるんだよ」


 どういうこと? 僕が首を傾げたのを見て、少し寂しそうに笑った。


「ふふ。俺は単身生活が長くてね。なかなか家には帰れんかった。俺は何もふざけたことはしてねえよ。まじめに仕事してただけだ。でもその間に」


 ふっと息を吐いて。


「家に、俺の居場所がなくなった」


 そんな……。


「かみさんも、こどもらも、みんな俺のいない生活が前提になった。たまに家に帰ると、厄介者扱いさ。うるせえ親父が帰ってきたってね。俺がいない時にはみんなで夕飯を食べるくせに、俺が帰った時には、みんなばらばらに外でメシを食う。誰も俺に話し掛けてこなきゃ、俺の話を聞くやつもいねえ。それが、家族かよ!」


 吐き捨てた小野さんが、残っていたお湯割りを一気にあおった。


「まだ離婚はしてねえけど、同じようなもんだな。俺はただ家族にカネを送るだけの存在さ。ふざけやがって!」


 いつもの人のよさをかなぐり捨てて、小野さんが乱暴にお湯割りを作った。


「あの写真は……」

「ああ、あれは夢さ。ばかばかしい、な」


 そう言ったきり。俯いてしまった。


 小野さんも、園部さんと同じか。家があるのにそこには帰れない。帰る家がなくなった僕と、どっちがしんどいんだろう? そんなの比べても意味はないんだけど。


 僕は手元の写真をもう一度見つめる。こんな小さな写真一枚でも、見ている人がそこにこもっている感情を全部汲み上げることは出来ない。小野さんが飾っている家族写真に写っているのは、嘘の幸福。でも、そう言われないと嘘だとは分からない。同じように。この女の子のポートレートの中に、実際どれほどの感情が塗り込められているのか。それはこの写真だけからは知りようがない。


 僕は、写真の話を三ツ矢さんに切り出した時の最初の反応がとても気になっていた。


 『捨てなかったんだ』


 確かに、そう言った。つまり、誰かが自分の貼った写真になんらかのリアクションをしてくれることを期待して、あの写真をあえて残していったとも考えられる。どんなリアクションを望んでいたのか。僕なら。僕なら、こういう想いで写真を残すだろう。


「わたしに、気付いて、ください、か……」


 僕がぽつんと口に出してしまった言葉。小野さんは、僕の方を向くことなくそれに同意した。


「ああ、俺もそう思うよ」


◇ ◇ ◇


 小野さんに写真のヒントとお酒のお礼を言って、自分の部屋に引き上げた。


 考えてみれば。僕も両親から切り離されてしまって、一人ぼっちなんだ。両親が失踪しても寂しいとか辛いとか思わなかったのは、自分に降り掛かった環境の変化に付いていくのが精一杯だったから。寂寞感を覚えてる暇がないほど、僕は崖っぷちに立ってた。今もそれが変わってるわけじゃない。

 僕が小野さんと違うのは、家族との幸福な関係をはっきり体感した経験がないってこと。それを味わったことがないから、幸福を失ったっていう実感もない。普通の人にとっては、それは明らかに異常なことなんだろう。


 寒い部屋の中で、雑音だらけのラジオの音を流しながら考える。僕は本当に、幸福を目標にして生きていけるだろうかと。それは完全なものじゃない。それに、いつか壊れてしまうかもしれない。そんなあるかないか分からないもののために。必死に生きられるのだろうか、と。


 分からない。でも、このまま一人であてどなく流れていっても、絶対に幸福には繋がらないだろう。それだけは僕でも分かる。だから、僕はまず確かめようと思う。三ツ矢さんが残した写真の意味。それは何か、を。


◇ ◇ ◇


 午前二時。小野さんのところで飲んだ酒が抜けてきたせいか、変な時間に目が覚めてしまった。


「あーあ。灯り付けっぱなしで寝ちゃってたよ」


 電気代がもったいない。


 ふう……。水でも飲もうと思って、ベッドから降りる。足を下ろした途端に、床の冷たさに縮み上がる。


「ううっ、さ、さみーっ」


 きんきんに冷え込んでるなあ。


 カーテンの隙間がきらきら光って見える。窓が霜で塞がれてるんだろう。カーテンを少し開けて窓に息を吹き掛け、手で擦った。霜が解けて開いた小さな穴から、夜の底が見える。かりかりに凍った路面の霜が、水銀灯の光を跳ね返して青白く輝いていた。一葉館の周りはしんと静まり返り、物音一つしない。美しいけれど、どこまでも寂しい光景。


 寒さに震えながらカーテンを閉めようとして、はっと気付いた。こんな時間に、一葉館の正面の道路に誰かが立っている。何をするでもない。黙って突っ立って。ただ一つ明かりが灯っているんだろう、僕の部屋の方を、じっと見つめている。それが誰かを確かめる前に。僕が開けた小さな穴は……。


 再び、霜で閉ざされた。


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