第26話 焔の日 街娘の交渉

 三日目の戦いが終わったその日の日暮れ。

 中立都市マルタのいつもの酒場に、はちみつ色の髪をした街娘の姿がある。

 焔の日の夜に必ず訪れるその街娘は、一人でテーブル席へと座っている。

 きっと来てくれるであろう待ち人を待っているのだ。

 そしてほどなくして現れた顔に包帯を巻いたミイラ男の姿を見た途端、ラクシュミアの表情は自然と綻ぶ。


「やあやあ、ヴィン。なんだかとっても久しぶりだね」

久しぶりだな、ミア。元気そうで何よりだ」

「元気なように見えるかな?」

「元気じゃなければ、そんな嬉しそうに笑ってはくれないと思うが?」


 ミイラ男の指摘に、ラクシュミアは苦笑してしまう。


「本当は笑っている場合じゃないんだけどね。でもやっぱりここでこうしてヴィンに会うと、どうしても嬉しくなっちゃう。……嫌な女なのかな、私?」

「もしミアが嫌な女なら俺も嫌な男になるな。俺も同じだよ。ミアの顔を見ただけで心が温かくなってしまう。今がどういう状況だと分かっていも。それでもミアの顔が見られてとても嬉しい」


 そう笑うヴィンセントの言葉に、「ありがとう」と口にするラクシュミアは再び笑顔を浮かべる。

 

 ウェイトレスに料理と飲み物を注文。乾杯し、軽く喉を潤したところで、ラクシュミアがさっそく話を切り出す。


「その……今日、ヴィンたちが捕まえた子のことなんだけど……」


 それは黒狼軍と戦闘に敗れ捕らえられた双月の騎士の片割れネルのこと。


「丁重に扱っているよ。ケガの治療も済ませて、今は捕虜として牢屋に入ってもらっている。その身柄は責任を持って管理している」


 皇国軍、としてではなく、黒狼軍が。

 その言葉は、ヴィンセントたちがネルの正体に気づいていることを如実に示していた。


「実はお願いしたいことがあるの」

「あの騎士のことでだろ?」


 核心を突く言葉に思わず周囲の目を気にしてしまう。


「ヴィン。そこはもうちょっと隠語でいこう」

「それもそうだな。じゃあウチが捕まえた、元気な猫、としよう」


 その例えに、ラクシュミアの頭の中で、ネルが金髪猫になって「ふしゃー」と毛を逆立てているのが容易に想像できた。


「それはとてもいい例えだね」

「それで? その元気な猫がどうしたいんだ?」

「単刀直入に言うけど、返してほしいんだよね」

「なるほど」

「もちろん、タダでとは言わない。そちらの要望には出来うる限り答えるつもりだよ」


 真剣な表情を浮かべるラクシュミアの顔をミイラ男がジッと見つめる。


「……どうしたの?」

「いや、なんというか。まるでいつものラクシュミアじゃないみたいだと思って」

「えっと……それってどういう意味?」

「褒め言葉のつもりだよ。今のラクシュミアの表情は凛々しくて、思わず見惚れてしまった」


 ヴィンセントの真っすぐな言葉に、ラクシュミアの顔は一気に真っ赤になる。


「ちょ、そういうこと言わないでよ! 恥ずかしいじゃん!」

「いつもラクシュミアのことをとても愛らしく可愛いと思っている。だけどそういう表情も出来るんだなと思ったんだ。そしてそれを見られたのが、なんというか……嬉しい」

「だ、だから真顔でそういうこと言わないの!」


 実直であるヴィンセントのあまりにも真っすぐな言葉の数々に、ラクシュミアの顔が限界まで真っ赤になる。


「たぶん、仮面の下ではいつもそういう表情なんだろうな、と思ったんだ」


 だがその一言を聞いて、ラクシュミアは口を閉じて俯いてしまう。


「……その、なんだかゴメン」

「? なぜ謝る?」

「せっかく焔の日の夜にこの場所で、こうしてヴィンと一緒にいられるのに、今日の私はたぶん、いつもの街娘の自分には戻れていない。偽りの仮面軍師の気持ちのまま、ここに来てしまっているのかもしれない」


 それを素直に謝罪するラクシュミアに、ヴィンセントは首を横に振る。


「謝る必要もないし、変でもない。それもまたミアの本当の姿であるということだと俺は思っている」

「本当の私?」

「ここでいつも笑ってくれているミアも本当のミアの姿だろうが、そうやって凛々しく立ち振る舞えるミアもまた、ミアの本当の姿ということだ」

「ありがとう、ヴィン」

「ああ」


 笑顔を浮かべるヴィンセント。そんなヴィンセントの視線をいつもよりも感じ、ラクシュミアは思ったことを尋ねてみる。


「えっと……もしかしてヴィン、私を元気づけるとかじゃなくて、本当にいつもと違う雰囲気の私を見られて嬉しいと思ってくれている、とか?」


 おずおずとしたその指摘に、ヴィンセントはビクリと反応すると、目に見えて同様を見せ始める。

 やがて観念したように、コクリと頷く。


「……実はそうなんだ」


 包帯の下から覗かせる黒い瞳を泳が恥ずかしがるヴィンの初々しい反応に、ラクシュミアもなんだか恥ずかしくなってきてしまった。だけど、それ以上にとてもとても嬉しくなってしまった。


「そうか。ヴィンはとっても嬉しいんだ。そうかそうか」


 本当に嬉しそうに微笑むラクシュミアの笑顔に、ミイラ男の表情また、自然と優しい笑顔になる。


 そんな完全に自分たちの世界に入っている、二人。

 だが次の瞬間、少し離れた二つの席から咳払いが飛んでくる。

 それに気づき、「ハッ」となった二人は、わざとらしい咳払いと共に、気持ちを切り替え、仕切り直す。


「ミアの要望通りに、元気な猫を返すのはこちらとしても問題はない。あの猫は

「……やっぱり気づいた?」

「肩を矢で射抜いたからな。治療をする為に鎧を脱がせた」

「……ヴィンのエッチ」


 頬を膨らませるラクシュミアを見て、ヴィンセントは慌てる。


「違う。俺が脱がせたんじゃない。そういう報告を受けただけだ」

「ほんとうに?」

「本当だ」

「ほんとうに、ほんとう?」

「ああ。正義神に誓って」


 疑いの眼差しを向けるラクシュミアに、自国が崇拝する神の名前まで持ち出したヴィンセント。

 その必死さに、ラクシュミアは頷く。


「うん、なら信じる」


 どこかホッとした表情を浮かべるヴィンセント。


「その……これは帝国では許されてはいないことなのだろ?」

「そうだね。私と事情は似ているよ。ネルは本来、騎士になれる子じゃない」

「だけど身分を偽り、戦場に立っている?」

「それはネルと弟のノートンだけの秘密なんだ。もちろんこれは、

「だけどミアたちは知ってしまった」


 ラクシュミアは頷く。

 ラクシュミアの部下であるカリナ率いる天眼衆たちは、その秘密を調べ上げてしまった。そして双子がそうしている事情に関してもおよその察しがついている。

 天眼の軍師があの双月の騎士を重用するのは、二人が優秀であることは間違いない。だが、その事情を知ってしまったからであるということがまったくない、と言えば嘘になる。


「だからお願いしたいの。ヴィン、捕虜であるネルを無事に返してほしい」


 そう頭を下げようとするラクシュミアをヴィンセントは手で制する。


「そんなことをする必要はない。事情は分かった。こちらとしても従来通りの捕虜交換でそちらに引き渡そうと考えている」


 ヴィンセントの申し出にホッとしつつも素直に喜べないラクシュミア。

 しかしすぐに目を泳がせ始める。


「……」

「どうした、ミア?」

「そのことなんだけど……実は捕虜の返還にあたってある程度便宜を図ってほしいんだけど」


 非常に言いにくそうなラクシュミアの表情からヴィンセントは全てを察する。


「つまり秘密裏に捕虜を解放してほしいと?」

「まあ有体に言ってしまえばね」

「それは無理な相談だな」

「もちろん、タダじゃない。さっきも言ったけど、可能な限りそちらの望む条件は呑むよ。こう見えて、私はとっても偉いから」


 そうふんぞり返る、実は帝国軍の総指揮を務めている街娘。


「なるほど、なんでもか」

「うん。なんでも言って」

「なら天眼の軍師が皇国軍に下るならば、その条件を呑んでもいい」


 そう口角を上げるヴィンセントに、ラクシュミアは口をパクパクさせる。


「……それはちょっと難しいかな」

「だろうな」


 ラクシュミアは揺らがぬミイラ男の瞳をじっと見つめる。


「どうしてもダメ?」

「そもそも根本的な話だが。あの元気な猫が黒狼に敵わずに捕まったという事実こそが、現在の局面において重要だ。その優位性をこちらが放棄する理由はどこにもない」

「その通りだね」

「元気な猫がこちらに捕まったことを、帝国軍そちらがひた隠しにしているのならば、なおの事、それを公表するべきであるというのが、皇国軍こちらの考えだ」


 ラクシュミアの提案からそれを察したヴィンセントの言葉に「うん」としか頷けないラクシュミア。もちろん、そのことがヴィンセントたちにバレることも思慮に入れて、ラクシュミアはここに交渉しにきている。

 そんなラクシュミアにヴィンセントは続ける。


「俺としても元気な猫の事情も察するし、騎士として見せしめのような行為をしようとは思わない。元気な猫の正体だけは出来うる限り伏せるつもりだ。だからと言って、俺たちが元気な猫に勝って捕らえた事実を公表しない理由にはならない」


 そう至極全うに語るミイラ男をただじっと見つめる、ラクシュミア。


「? どうした、ミア?」

「なんだか、カッコいい」


 途端、ヴィンセントの顔が真っ赤になっていく。


「と、突然どうした?」

「もちろん、ヴィンはいつでもカッコいいんだけどさ、今日のヴィンはいつにもましてカッコよく見えるんだよね」


 ニコニコと嬉しそうに笑うラクシュミアは、自分の気持ちをキチンと告げる。


「そういうヴィンの真っすぐなところは、私はとっても大好きだよ」

「な、なにを……」


 動揺するヴィンセント見て、ラクシュミアは意地悪く笑う。


「さっきの仕返し」

「からかわないでくれ」

「からかってはいないよ。本当にそう思っているから」


 顔を真っ赤にしたヴィンセントは、今度こそ何も言葉が出てこずに、何かをごまかすかのように、目の前のジョッキの中身を喉に流し込む。

 そんなヴィンセントにラクシュミアは頷く。


「そうだね。今日は私もいつもの街娘に戻れていないけど、ヴィンもいつものミイラ男じゃないんだよね。戦場に立つ黒狼のままなんだよね」


 二人ともが、ほんの数刻前まで、戦場で睨み合い、戦っていたのだ。

 軍師として、騎士として。

 それを理解したからこそ、ラクシュミアは椅子から立ち上がる。


「ちょっと顔を洗ってくるね。気持ちを切り替えてくる。それで仕切り直し。私もそういうつもりで席に戻ってくるから」

「ミア」

「ごめんね。本当は楽しい時間のはずなのに。だけど今日はこんな私に付き合って。私も大事な仲間を取り戻すために本気なんだ」


 そう言い残して、ラクシュミアは踵を返す。



 洗面所に向かう途中、ラクシュミアの隣に並ぶ美女がいる。

 離れた席でラクシュミアとヴィンセントの様子を見ていたカリナだ。


「いつになく真剣じゃない」

「そうならざる得ないでしょ。状況が状況だもん。それで? ヴィン側はいつもの二人は来ている?」

「それがあの小っちゃい弓兵の女の子だけで、無精髭のダメ男は来ていないみたい。一応、ケイオスに見張ってもらっているわ」

「そっか、あの無精髭の副官さんは来ていないのか。よかったね、カリナ」

「どういう意味かしら?」


 不機嫌そうに睨みつけてくるカリナに「いえいえなんでもありません」と肩を竦めて見せる。


「だけどそうなると、余計に難しいな」

「というと?」

「もしここに無精髭の副官さんがいてくれたら交渉はスムーズに進められたと思うんだ。なにせあの副官さんは酸いも甘いも分かっている人だから」

「確かにそういう意味で良くも悪くも融通は利きそうよね、あの無精髭」


 その顔を思い出して、なんとも嫌そうな表情を浮かべるカリナ。


「交渉っていうのは、いかに相手にこちらの要望を飲ませるかにある。そしてその際、相手を納得させるためにどれだけの手札を用意できるかにある」

「こちらの手札は幾らでもあるんでしょ?」

「もちろん。幾つも用意してきたよ。……だけどヴィンが相手だとそういう訳にもいかなそうなんだよね」

「というと?」

「私たちはここに交渉をするためにやってきた。だけどヴィンはそういうつもりで、ここに来ていないんだ」

「? どういうこと?」

「ヴィンはね。善意でここに来てくれているんだ。ネルの正体を知って、私が今日ここに来ることを予期して、ああしてきてくれた。……まあ私に会いたかったというのももちろんあるだろうけどね♪」


 にやにやと嬉しそうに笑うラクシュミアの表情に、カリナは重たいため息を吐く。


「大事な話の途中に、のろけを入れるんじゃないの。……つまり黒狼卿はネルを返すためにここに来たってこと?」

「そうだと思う。ヴィンは、ネルのことを考えて、今の自分に出来るギリギリのラインまで譲歩して、なんとか無事に私たちに返してくれようとしている」


 そこでカリナはラクシュミアが言いたいことを察した。


「なるほどね。確かに、もし交渉相手があの無精髭の男だったら楽だったわね」

「間違いなく、それなりの対価を要求してくるだろうけど、それは仕方がない。こちらはそれを支払う準備はあった」

「ラクシュミアは提示された条件を呑んで、こちらの要望通りにネルをこっそりと引き取ることが出来たかもしれない。……だけど黒狼卿だとそうはいかない」


 ラクシュミアは頷く。


「なぜならヴィンは、交渉をしにきたのではなく、善意で動いているだけだから。それと私たちが戦をしているのとは話は別。そういう線引きをきっちりとした上、ここにやってきている」

「つまり、ネルの身柄引き渡しに関しては一切の交渉の余地がないと」

「ヴィンらしいと言えばヴィンらしいところなんだよね」

「それでも融通が利かなすぎじゃないかしら?」

「でもそういうところもカッコいいと思わない?」


 表情を崩してニヤニヤするラクシュミアの頭を小突くカリナ。


「思わないわよ。のろけはいいから。それでどうするつもり?」

「ベストは尽くすけど、たぶん上手くはいかないね」

「ならネルが捕まったことは、明日には帝国軍に知れ渡るか」

「仕方のないことかもね。これは受け入れるしかないかもしれない。でも一つ安心できたことがある」

「それは?」

「ネルが無事だったこと。そしてその正体がバレずに済みそうだということ。こういう言い方をしちゃいけないかもしれないけど、黒狼卿たちに捕まったことは、ネルにとってはラッキーだったかもしれないね」


 複雑な気持ちではあるが、それに関しては「そうね」とカリナも同意を見せる。


「これでネルはまだ騎士として戦えるよ」


 そうポツリと零したラクシュミアの本音を聞いてカリナは思う。

 ラクシュミアがネルを自分と重ねているということを。


 鉄仮面の下に全てを隠して軍師として采配を振るう自分と、自らを男と偽り戦う女騎士を。


「とにかく、戻ってヴィンに出来うる限りの交渉はしてみようと思うよ」


 そう意気込むラクシュミア。

 だからこそ、カリナはため息を吐く。


「それにしてもあの無精髭、本当に使えないわね。いったい何をしているのかしら?」



     ***


「いっぷしっ」


 思わずくしゃみをしたロウタは鼻を啜る。


「こりゃ、どこかの美女が噂しているかもな」


 そんなロウタのぼやきに、鉄格子の向こうにいる騎士は何も言わない。


「何か喋ってくれてもいいんじゃないか、お嬢ちゃん?」

「オレは、女じゃない!」


 牢屋の中、ベッドの上で膝を抱えるネルは悔しそうに叫んだ。


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