第二章

◆真実

 議会がいったん休会を採決して閉じたあとで、エリザベトはアレクサンデルの執務室に連れこまれた。

 人払いされた執務室には、机についたアレクサンデルと、向かいに置かれた肘掛け椅子で唇をきつく結んでいるエリザベト、そしてやや離れて、扉を押さえるように背中を預けて腕を組んでいるゲオルクの、三人だけだ。

 ゲオルクの片手に握られた、冷たく濡らしたガーゼに、生々しい出血の染みがまだ鮮やかである。

「あれは、――彼女は、いったいどこで生かされていたの?」

 沈黙を破って訊いたのは、エリザベトだった。

 その瞳はさっきの興奮を残してぎらぎらと輝き、対照的に落ちつきはらったアレクサンデル王の顔を、まっすぐ睨みつけていた。

「極秘の研究所だよ。現在は治安局局長ゲオルクによって管理されている。奇病の研究を行っている地下施設の、厳重に鍵のかかった檻の中にシャルロッテは閉じこめられていたんだ」

 アレクサンデルは少し疲れたような顔をしていた。かえって色気を増すような紫色の瞳を細めてつづける。

「シャルロッテの処刑時は、燃料の不足によって火刑から絞首刑に切り替えられ、暴動抑止のため刑は非公開となっていたからね。クアドラートの権力で門をくぐることもできたかもしれないが、レーンベルク公爵は身内のものに引き留められてシャルロッテの処刑現場に来ることができなかったって?」

 老公爵が愛人の死に目に会えなかった話は、エリザベトも本人からさんざん聞いていた。

 その話をする老公爵の声はこの世のすべてを呪うようだった。

 だがさっき、愛人の腕のなかで干からびて死んでいった老公爵のささやき。あれほど幸福な愛の感情に満ちた声を、エリザベトは知らなかった。

「どうりでゲオルク・ブルーメンタールが、すべての糾弾に反論できなかったはずね。だって、すべてが真実だったのだもの」

 エリザベトは混乱する頭で、せめて嘲笑をこころみた。

 すると、やたらに深い溜息が執務机の向こうから聞こえた。

「苦しげでも、悲しげでも、混乱していてさえ、いつでも君は美しいよ。哀しくなるくらい美しいよ。僕は僕を憎む君の瞳さえ、好きなんだよ。大好きなんだよ。それを失わずにすむなら何だってしようと思っていた。隠し通すつもりだった。あいつがぶち壊したけど」

 左手をまっすぐ伸ばしてゲオルクを指差す。

「アレクサンデル」

 子供を諭すような返事がある。

「冗談だよゲオルク。君の判断は正しい。いいかいエリザベト、今から言うことを君は信じようとしないかもしれない。僕たちは今まで、真実を語ることで事実を君から遠ざけてきた。君がそれを信じずにいられるように」

「信じるも信じないも、何を言っているのかわからないわ」

「奇病を生み出したのはクラナッハだ」

 玉座から命令を下すときの声でアレクサンデルが言った。

 エリザベトは首を振る。

「そんな戯言は何度も聞いたわ。あなたたちがクラナッハの力を疎んでついた嘘、でたらめ、大芝居。見飽きているのよ、いい加減にして」

「アレクサンデル。時間の無駄だ」

 エリザベトは冷たく言い放ったゲオルクを見返り、不快に眉をひそめた。

「いいや、ゲオルク。エリスは君が思っているほど分からず屋ではないんだよ。エリスはただ、真似をしているんだ。エリスの憧れの冬の女王の真似をね。とても誇り高くて、自由気ままな女王様だったんだ」

「ソフィネの悪口はやめて」

「女王様の悪口は言っていない。彼女は完成された女王様だったよ。エリスのは、へたくそな二番煎じだけれどね」

「……」

「それだけエリスはソフィネを愛しているんだ。クラナッハの罪を信じられないのはしょうがない。けれど、事実は、愛の力では、どうにもならない。ヴェステン聖王国に奇病を初めて創りだしたのはクラナッハ家が所有していた秘密研究所だ」

「しかし、クラナッハは奇病をわざと王都に撒いたわけではない、と思われる。最初は事故だった。その事故を、私の父ミハエルが利用した」

 エリザベトは驚いて、ゲオルクをもう一度ふりかえった。

「認めるの?」

 濃く翳らせた青い瞳で床の一点を見つめながらゲオルクは頷いた。

「クアドラートの告発はおおむね事実だ」

「クラナッハが何を目的に奇病を開発していたのかはわからない」

 と、アレクサンデルが言った。「当主は口を閉ざしたまま刑死を受け入れた。とにかく、何代にも渡ってクラナッハは力を持ちすぎたんだね。永い癒着は腐敗を避けられない。先王は潔癖な人だったから、どこかで苦虫を噛む思いをしていたのだろう。ミハエル・ブルーメンタールからクラナッハの疑わしさを吹き込まれたとき、一も二もなく腐敗の一掃の機会に飛びついた」

「父は下水道を監視して奇病患者を捕獲し、王都に感染者を増やすことに成功した。父は奇病がクラナッハ由来のものであることを知らず、元から世間にあるクラナーン民族への差別感情を利用して罪をなすりつける計画で、偽の研究所までをでっちあげていた。だが、クラナッハ邸を形式的に捜査したさい、本物の研究所の存在が明らかになった」

「なぜ最初期の奇病発生が事故によるものと断定されているかといえば、クラナッハ家の者たちを捕縛したとき、彼らのほとんどが既に奇病に感染していたからだ」

 エリザベトはびくりとふるえてアレクサンデルを見つめた。

「……ソフィネも?」

 はっきりと彼は頷いた。

「ああ」

「だからといって……だからといって、殺していいということにはならないわ」

 エリザベトの瞳に涙があふれた。

 ソフィネが、病に冒されていた――。その事実は時を経てエリザベトの息を苦しくさせた。誇り高いソフィネが、どうにもならない病に冒されて、どんなに苦しんでいただろう。エリザベトは何も知らなかった。何も知らなかった……。

「絶対に、そんなこと。許されないのよ……」

「クラナッハ家、およびクラナーン民族にすべての罪を負わせることで、人々の恐怖と怨嗟は奇病そのものではなく、彼らに向いた。君もそうだ、エリス」

 エリザベトの反応をみるとアレクサンデルは微笑をよぎらせた。

 彼女の瞳に浮かんだ動揺にさえ、彼は見惚れているのだ。

「君はソフィネを殺した僕を恨むことに夢中で、〈魔女の呪病〉には何の関心も向けようとしなかった。街に増えつづけていた死体のことも。人々の恐怖も。……憎しみにひた走る君にとってはどうでもいいことだっただろう?」

 エリザベトはとうとう、言葉を失ってしまった。

「事故にせよ〈地獄の季節〉の種をまいたクラナッハ家には、見せしめとして最大限の効果を上げながら死んでもらう必要があった。――ソフィネだけは、せめて火刑じゃなければよかったのに? だけど、誇り高いソフィネが、一人だけ特別扱いされることを受け入れたと思うかい。一人だけひそかに助命され、地下の深くに実験体として監禁されることを彼女が受け入れたと思うかい?」

「もうやめて!」

 両手で耳を塞いでエリザベトは叫んだ。


――わたしはね、エリス。いつか、お父様の船に乗って、遥かの大陸に行ってみたいの


 ソフィネの夢。ソフィネの世界。ソフィネの自信にあふれた瞳……。

 アレクサンデルの言うとおりだ。

 病がソフィネを冒したそのときに、ソフィネの未来は閉ざされ、断たれてしまった。

「僕が幼馴染を焼き殺した事実は、ほかの事実で打ち消せるものじゃない。エリス、君は僕をずっと憎めばいい。僕にはそれでも充分だよ。君が僕のほうを一生、見つめつづけてくれるなら」

「帰るわ」

 エリザベトは椅子を立った。

「わたくし……、伯父様の最期を父に報告しなければならないし。お話が全部それで終わりなら帰るわ」

 エリザベトは熱くなった手で胸元のダイヤモンドを握りしめ、まとまりのつかない感情に引き裂かれながら、ふらふらと扉のほうへ歩いた。

 そこを塞ぐように立つゲオルクに気づいて、彼を見上げる。

 邪魔だからどいてくださらないかしら、と言おうとした。そのとき。

「まだ話は終わってないんだよ、エリス」

 背後から、いつになく厳しいアレクサンデルの声がした。

「終わったのは過去の話さ。この程度の衝撃でへたれるエリスじゃないって僕にはわかっているんだ。君はきっと自分の目で奇病の事実を確かめようとするだろう。だけど、ただでさえ外には〈地獄の季節〉のぶり返しが起きているのに、危なっかしくて自由にはしておけない。僕は今から君に監視をつけるよ。というわけで、君の監視役は、そこに立ってるゲオルクだ」

「――なんですって?!」

 アレクサンデルは執務椅子の肘掛に頬杖をつき、楽しそうにエリザベトの混乱を鑑賞している。

「ゲオルクは奇病にいちばん詳しい人間だし、しかも〈始末者〉としてもいちばん腕利きだ。暴走状態の患者ですら仕留め損なったことがない。君の護衛役には最高の人物をつけるべきだろう。なにしろ君はじきに王妃に――」

「ありえなくってよ。アレクサンデル……」

 エリザベトの唇から地獄の底の割れそうな低い声がもれた。冥府の女神レラーを呼べそうだった。

「必要ないわ。こんな危険人物は……」

 シャルロッテに断命の剣を刺したゲオルクの姿を、思い浮かべ、エリザベトは身震いをした。

「私にも公爵令嬢は不必要だ」

 居心地が悪そうにゲオルクは足元を組み替えた。

「私には奇病の再発生の原因をつきとめる仕事もある。公爵令嬢の華麗なる復讐の次は、公爵令嬢の優雅な冒険につきあわされなきゃならないのか? ご免だ」

 また侮辱だ。

「だがブーべ……バンベルク公爵の鑑定眼には用がある。面倒だが、彼に協力を仰ぐにあたってクアドラート筆頭の許可が要る」

 エリザベトは精一杯に目の前の男を見上げて睥睨した。

 しかし……。

「協力?」

「クラナッハが残した研究記録によれば、奇病はクラナーン帝国と何らかの関わりがある。その由来を解くために、ブーべの鑑定眼が必要だ。クラナッハが所有していたクラナーンの美術品のどこかに、奇病の解明の手がかりがあるはず。クラナッハもまた、同じように考えてあれらの美術品を所持していた」

「だからクラナッハの美術品を?」

 無言でゲオルクは頷いた。

「……そうだったの。わたくしがあなたに哀れみの目で見られても仕方がなかったわね」

 ゲオルクはぶきみな化け物でも現れたようにエリザベトを見た。

「その眼は何なの」

「べつに」

 エリザベトは唇を噛んでゲオルクに背を向けた。

「ブーべだったら、わたくしが紹介しなくても大喜びでクラナーン美術のもとに馳せ参じるわよ」

 アレクサンデルは椅子の背にもたれて大きく伸びをしながら、ついでのように言った。

「奇病の治療法と、再発生の原因――もし、この二つの謎が解けたら、君を解放してあげるよ」

 エリザベトは『解放』の意味をはかりかねて首を傾げる。

「アレクサンデル?」

「ゲオルクと僕を追いつめようとした君の執念で、もしそれに辿り着けたらね。僕は君をバルヒェットから解放するよ」

 真意のわからない約束をくりかえして、アレクサンデルはそこで気力の尽きたように、青白い瞼をとじた。




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