エピローグ

エピローグ


 帆船の白い帆が風をはらむ――。青い空の下、潮風にまかれて、黒髪の美少女が旅装のドレスの裾をおさえた。

 南を見つめて琥珀色の瞳がきらきらと陽に輝く。

「フロイライン、こっちよ。うろうろしないで!」

 乾いたデッキの上を、しゃくしゃくとした優雅なあしどりで黒猫がくる。

「お魚もらえた? わたしもお腹すいてきちゃった」

 黒猫を抱きあげ、陽の匂いのするつややかな毛並みに頬ずりをした。

「クラナッハ様、日和のいい出港になりましたなあ」

 乗り合わせたクラナーン人の知人が夫人を伴い、帽子を掲げてデッキを歩いてきた。

 彼の双子の子供たちが、働く水夫の周りをきゃっきゃとはしゃぎまわって上等な服を汚している。

「ソフィネおねえちゃまー!」

「おねえちゃまー」

 彼女の視線に気づいて双子たちが腕を振った。

 ソフィネは双子に好かれるその笑顔で、手を振りかえした。

「初めて大海に出た日の高揚は一生忘れられるものじゃないって、父が言っていましたわ」

「私は出航早々ひどい船酔いになって、父上に介抱された御恩を忘れませんよ。若かったなあ、あの頃は……」

 遠い目をして紳士は水平線を眺めた。

 ヴェステン聖王国を出てから初めて知ったことだが、〈クラナーン断罪〉後に捕らえられたクラナーン人のうち、奇病に感染していない者はひそかに国外に逃がされていたのだそうだ。紳士と家族もそうだった。

 これから船が向かう新大陸は、そんな人々が新しい夢を持ち寄ってあつまる新天地だ。

「わたし、幼いころからずっと、航海に憧れていましたの」

 果てしない蒼い海に向かって、ソフィネは希望の瞳をひらく。

 いちど失われた夢だった。

 永久の命を与えられた代わりに、永遠に失われた夢だった。

 けれど今、ソフィネは儚い命と、自由をその手に握っている。

「わたし本当はアレクのことなんてとっくにあきらめがついていたんだけど」

 一人になって、船のへりに頬杖をつきながら水面を眺めていると、トビウオの群れが白い筋をひいて通り過ぎていく。「にゃあにゃあ」美味しそう、と訴えるようにフロイライン・ソフィネが鳴いた。

 黒猫のソフィネは奇病の治療法の実験台一号となり、オランジェリーの雫花の灰を食べて、奇病克服の第一号となった。ふつうの猫に戻ったのである。

「何だか誤解されたままなのよね」

 ソフィネがアレクサンデルを殺したいほど憎んだのは、焦がれるほどに憧れた航海の夢を断たれたせい。

 誰より自由であることが、ソフィネの誇りだったから。

 ソフィネの怒りはそれだけだった。

「まあ、いっか。誤解させておいたほうが面白いと思っちゃったんだし」

 ヴェステン聖王国は先ごろ、先王の〈クラナーン断罪〉を誤りと認め、名誉回復の王勅を出した。前代未聞の掌返しに、政治は大混乱だという。

 きっかけは、ブルーメンタールの失脚だ。クアドラート四大公爵による告発は、貴族らに疑いの芽をまく充分な効果があった。クラナーン人に濡れ衣を着せることでクラナッハ家を追い落とし、ブルーメンタール家はその地位を手に入れた――いったんストーリーが力を持つと、貴族連中から毛嫌いされていたブルーメンタールは不利だった。

 追求が深まる前に、当主のゲオルク・ブルーメンタールは自邸に火をかけ自殺したと見られている。

 クラナッハ家も、ブルーメンタール家も、あれだけの隆盛をきわめながら一瞬でヴェステン聖王国から姿を消した。

 ソフィネが乗っているこの船は、旧ブルーメンタール商会の船だ。今は親戚筋の番頭が事業を継いで、名前を変えている。

 ゲオルクという片腕を失い、嵐のような権力闘争にふりまわされながら、アレクサンデルは国をたてなおす舵取りに忙殺されているはずだ。アレクサンデルはそうやって罰を受けている。王として重ねた罪に、王としてあがなえるだけの贖いをしてる。

 何よりも。

 アレクサンデルの心の拠り所だったエリザベト・バルヒェットは死んだ。

 アレクサンデルが、死んでもいいくらい心待ちにしていた婚礼も、もうできない。

「かわいそうなアレク……」

 得意の微笑を浮かべて、ソフィネは肩に流れる黒髪をかきあげた。

「アレクには悪いけど、夢が叶うってすてきね!」

 毛づくろいするフロイライン・ソフィネの襟飾りをちょんと指先ではねてやった。

 気品ある黒猫には、イーリスのブローチがとてもよく似合っている。

 親友を思い出させる可憐な深紫の花。

――さよなら、またね

 帆船のデッキから遥かに眺めやる水平線の、その向こうに、いつか見えてくるはずの新大陸へと夢を馳せ、ソフィネはドライエックに別れを告げた。





「えらい人おこんばんわー」

 執務机でぼんやりしていたアレクサンデルは、聞こえた声で顔をあげた。

「リュリュか」

 バルヒェット公爵から預かった儀礼用の黒杖スタブを持って、紅の瞳の少年執事が立っていた。

「リュリュか。あぶない、疲労しすぎて意識がもうなかった。リュリュ知っているか、玉座で廷臣を睨みつけながら仮眠するのが僕の特技の一つだって。スタブを返却したい? クアドラートまでが王を見放すというわけか」

 自嘲ぎみにアレクサンデルは呟いた。

「『自由な国をおつくりになればよい。陛下のなさりたいように』」

 リュリュがバルヒェット公爵にそっくりの口真似をした。

「おそろしいことを言うものだ」

 机上に置かれたスタブを眺めやって、アレクサンデルは自嘲を深めた。

 いまは困難なときだが、アレクサンデルの手にあまるほどの状況ではない。退屈するよりましだと思っている自分もいる。

 古びて濁りきった宮廷政治や国のかたちを変革するために、混乱は好機とも言える。

 ただアレクサンデルは自分が、信じる正しさのためにどこまでも残酷になれることを知っていた。

 そしてその結果を後悔したこともなかった。

「先王は王としての基本能力に欠ける人ではなかったが、裏側では小心な人でさ。懐へ入ったミハエルが権力を振るいだすと、結局ブルーメンタール一族もクラナッハ一族と同じようになるだけだと気づいて、気弱な後悔に取り憑かれた。先王はクラナッハの亡霊に悩まされて自殺にいたったんだ。しかしどういうわけか、僕には先王の殊勝さが受け継がれていないんだよ」

 アレクサンデルは言葉を切った。

 話に興味のない少年がおおっぴらにあくびをしていたからである。

「もののついでにリュリュもお届けー」

 少年は、向かいの椅子にちょこんと腰を落ち着けた。

「うん?」

「リュリュ、ご主人様に捨てられたー」

 口を尖らせてリュリュは嘆いた。

 バルヒェット公爵令嬢エリザベト・バルヒェットは死んだ。

 奇病の流行の犠牲になった、ということに公式上はなっている。

 ゲオルク・ブルーメンタールの自殺と同じ日だったことにつながりを見出す者はいない。

「捨てられた、か」

「こくこく」

 とリュリュは頷きを擬音にした。

「僕もだよ」

「こくこく」

 眠そうな目をこすってリュリュは、書類で散らかった机上をくるくると眺めた。

 アレクサンデルは侍従を呼んで夜食を言いつけた。まだ仕事が残っているから、眠気覚ましの必要がある。

 リュリュがポケットから何やら取りだして、手の中でカードを切りはじめた。

「〈ヨーカー要ラズ〉しましま」

 華麗な手つきで手札が配られた。それを取りあげ、アレクサンデルは呟いた。

「ふたりで〈ヨーカー要ラズ〉はなあ」

 淡々と札を取りあい、数字を合わせて場に捨て去っていく。

 子供騙しのゲームだが、優雅に構えていたアレクサンデルの表情はだんだんと深刻になっていった。

 一組、また一組、つぎつぎとカップルが成立し、去っていく。

 そしてアレクサンデルの手は空っぽになった。

「もののみごとにリュリュの負けー」

 駄目押しとばかりにリュリュが手中のカードをひっくり返した。

 みじめで奇矯な道化のヨーカー。

 ひとりぼっちの悪魔。

「――」

 アレクサンデルは片手で顔をおおい、肩を震わせた。

「ふっ……」

 ……わかってるよ。わかっているよ。復讐なんだ。僕がこうして生きることになったのは。君の敵はずっと、ただひとり、僕だったから。

 くるくると紅玉の瞳をきらめかせるリュリュの前で、散乱する書類の上にばたりと伏したアレクサンデルが、子供みたいに泣きだした。

 愛してた。愛してたんだ。

「よしよしー」

 頭のかたちすら美しい王の、短く刈られた黄金の髪を少年がぐしゃぐしゃに撫でた。

 リュリュは知っていた。

「泣かないえらい人は、泣いたらすっきりしましまよー」

 リュリュは知っていた。

 過酷な飢えと寒さで泣くことも喋ることも忘れてしまった孤児のリュリュが初めて声を取り戻したのは、ヴェステン聖王国の公爵邸に連れてこられて、おそろしいくらい美しく気高い深紫色の瞳をした令嬢に無言で抱きしめられたときだったから。

 そしてまた、リュリュは知っていた。

 不世出の英才王アレクサンデルを子供みたいに泣かすことができるのは、あとにもさきにもエリザベト・バルヒェットだけだろうということを――。





「先生、おれもう外で遊びたいよう」

 寝台からがんぜなく叫ぶ男の子の元に歩みより、髪は鼠色、左眼に銀のモノクルを嵌めた医者が毛布をかけなおしてやる。

「あと一日だけ寝ていなさい。いまは病気が逃げてったあとに体が元気を取り戻しているところなんだ」

「一日っていつまで? 朝まで? お昼ごはんまで? おやつの時間まで?」

「昼ごはんを食べて、お母さんが迎えにきたら君は自由」

「わあい」

 寝台の木枠をがたがた言わせて男の子は喜んだ。

「先生、ありがとーう!」

 行きかけていた医者が立ちどまり、ほんの一瞬沈黙した。

「いや、どういたしまして」

 軽く手を振って、医者は病室を移った。

 衰弱のはげしい患者を集めた部屋で、彼はさっそく奥のほうで患者の包帯を取り替えている手伝い婦に呼ばれた。傷口が化膿しているという。

「ああ、僕がやります」

 急いで駆けよって消毒を引き継ぐ。

「せんせ、きょうは、彼女はどこに行ったんですね?」

 つれあいの見舞いに来ている粉屋の親父が、二つ向こうの寝台脇から訊いてくる。

 ほかの見舞い人や、耳だけは元気に退屈した患者たちがいっせいに首を伸ばして頷きあった。

「鍛冶屋のクラウスさんの家に調合した軟膏を届けに行ってるんです。クラウスさん、奇病が治ったとたんに張り切って今度は火傷してしまったようで」

「先生が届けに出たんじゃあ、うろうろ迷って三日くらい帰ってこられないからねえ!」

「ちげえねえな!」

 病室中からにやにやとした同情の顔を向けられて、作業に屈みこんだまま医者は肩をすくめた。

「僕はこのあたりの育ちではないので……」

 それを言ったら彼女だってそうなのだが(しかもむしろ彼女のほうがいちだんとワケありっぽい掃き溜めのツルなのだが)、

――じゃあしょうがねえよな。

 とそのつど納得顏で〆てくれるのが下町の人々の気のいいところであった。

 噂をすればなんとやらで、下町の『奇病診療所』においてひそかに〈銀の匙の女王〉の異名を持つ女性が廊下から病室を覗いた。

「ここだったの、ゲオルク。いま帰ったわ」

「おかえり。ありがとう」

「イェニーはスープをぜんぶ飲んだかしら」

「さっき見たときは飲んでなかったな」

「そう。じゃあ、わたくしが付いていてあげなくってはね」

 球技のボールを追うように先生と女王を交互に見ていた人々が、意味ありげに目配せしあう。

 先生は女王のほうを見ないし、女王はてきぱきと患者の枕を直したりして先生に背を向けてのやりとりだ。まるで長年連れ添った夫婦のような空気感であるが、先生と女王は所帯をともに暮らしているわけではない。

「ねえねえリジーさん。先生とリジーさんはいつ結婚なさるのかね?」

 短気で知られるエルマー爺さんが単刀直入に訊いた。

 奥のほうで先生が鉗子を床にとりおとした。

「結婚ですって?」

 と女王がふりかえる。

「わたくしたち結婚はできませんのよ……だって〝結婚に必要なダイヤモンド〟は診療所の経費のために売ってしまったし、あんなに大きな雫じゃなくても、今さらダイヤを買い直すお金がもったいないんですもの」

「はあ、ダイヤモンド?」

 病室の人々は話がのみこめずに顔を見合わせた。

「結婚するのにそんなたいそうなもんが要るたあ、大変だなあ」

「だって、要るでしょう? 結婚するには花嫁のお守りのダイヤモンドが要るでしょう? みなさんも結婚は大変だったでしょう?」

 ぶんぶんぶん、と病室中の人々が首を振った。

「あいや、結婚は大変だがダイヤは要らんよ」

「要らないの?」

 うんうんうん、と病室中の人々が首を縦に振った。

「教会へいって、相手のとこに転がりこむだけのことさね」

 どうやら壮絶な勘違いをしていたらしく、女王は顔を真っ赤にして黙りこんだ。

「ど、どうしたんだね、リジーさん」

「そう……そうなのね……そうだったの。いいえ、べつに何でもないのよ」

 赤くなったり青くなったり微笑んだりしながらひとりごとを言う様子は、みんなをどこかいたたまれない気持ちにさせた。

 その高貴な深紫の瞳でじっと見つめられると、どんなに駄々をこねる子供でも偏屈な老人でも食欲がゼロであっても気圧されて、差し出されたスプーンを咥えずにはいられなくなる〈銀の匙の女王〉――。

 彼女は、さいごに「おほほ」と王侯貴族のごとく気高く美しい極上の笑みをみせて病室中を凍りつかせると、さっさとイェニーの元に赴いていった。

「せんせ、あれ追っかけたほうがいいと思うね」

 粉屋の親父がワケ知り顔で助言した。

 「包帯は任せて任せて」、と手伝い婦のおかみさんが先生をむりやり追いやった。

 先生は患者の血膿で汚れた両手を見下ろしてから、周囲にぺこりと頭を下げ、慌てて病室から出ていった。




 エリザベトは病棟に囲まれた中庭に出て息を吸った。

 街を歩いて乱れたを直そうとしてピンを外し、黄金こがねの髪を振った。陽射しにきらきらと、彼女の金色は本物の黄金おうごんみたいに輝く。

「エリザベト!」

 せっぱつまった声で名前を呼ばれて、ふりかえった。

「あら、何かしら。どうしたの?」

 患者の処置で汚れた手を中途半端に掲げながら、ゲオルクが近づいてくる。

「落ち着いたらと思っていたんだ。奇病が収束したら、考える暇もできるだろうからと……」

「何が? いったい何の話なの? そこの井戸で手を洗っていらっしゃれば? 桶を持っていてさしあげるわ」

「エリザベト。君は面白い勘違いをしていたみたいだが、僕の想いを誤解していたわけではない。怖がらなくていい」

「怖がってなんか」

 思わず、きっ、と睨みあげると、ゲオルクのまなざしが優しくなった。

「ダイヤより固い君の誇りがそんなことで傷つくとも思えないが」

 エリザベトはなんとなく赤くなって彼から目をそらす。

「イェニーで二四八七人目なんだ」

 と、ゲオルクが口調をおごそかに変えて言った。

 二四八七人。

 それは王都で処刑された奇病患者の数だ。

 そして現在、この診療所が受け入れた二四八七人目の患者が回復に向かっている。

 この診療所はふつうの病気や怪我も受け入れているから、すべてが奇病患者ではない。王都では奇病の流行はこの一年でほぼ収束した。今は地方から回されてくる患者がぽつぽつといる程度だ。

「……そうなのね」

 エリザベトの瞳にじわりと温かい涙が浮かんだ。

「暇は相変わらずないが、そろそろ考えなければいけないと思っている」

 こそこそと涙をぬぐって、そのままエリザベトはゲオルクの顔が見られなくなった。

「でもわたくし、そんなことなさっていただかなくても今が充分しあわせよ。ずっとおかしな勘違いをしていてもよかったって思うくらい」

 下を向いて、あかぎれの手を揉みあわせる。

 いつも夕方にゲオルクが、その手に軟膏を塗ってくれるときのことを思い出して、エリザベトはさらに赤くなった。

「それなんだ。僕も今はぜんぜん幸福だ。だが、これでは君は不満足だと思う。僕がもっと、不幸にならないと……」

 はっとしてエリザベトは顔をあげた。

「そうね」

 左眼のモノクルの奥で、ゲオルクが微笑った気がした。

 エリザベトは昂然と顎を高くして、誇りにみちた深紫の瞳をきらめかせる。

「そうよね。そういうことなら……」

 エリザベトはそっと手を伸ばして、ゲオルクのモノクルを外した。

「そういうことなら、よくってよ。……手を洗っていらっしゃらないの?」

 冴えざえと澄んだ青い瞳で、ゲオルクがエリザベトを見つめる。

「ああ、たった今は必要ないな」

 使えない手を中途半端に浮かせたままのゲオルクの前で、エリザベトが爪先立った。

 廊下の窓からみんなに見守られていることも知らないで、明るい自由な太陽の下で、二人は永遠の誓いの口づけをかわした――。



                                 ◇おわり

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紫の血と冬の女王 石川 @herma

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