第五章 Out of Blue

5-1 

「何て言ったの? 有子」

「足掻いても無駄です。蘭様に何かあったらどうするのです?」

 一瞬、あしほは何を言われているのかわからなかった。

 蘭。そう、蘭が大変なことにならないように尽力している。

 けれど、要求を呑めば。

 要求を呑んでしまえば、どうなる?

 また元の妖精のような存在感のない存在に戻って。

 埋没する。

 あの寺の意図するままの人形に戻る。実権と引き換えに。

 生徒たちの集合の努力を引き出すような指導者としての資質も無視されて。

 それは楽だろうなとあしほは思った。

 思ってしまった。

 姉のように才も適性も本来はないのだ。

 楽になるだろう。それを知っている。

 いや。それは嘘だ。ごまかしだ。

 楽になど、ならない。

「彼女たちは本気だと申しあげているのです、あしほ様」

「でも」

「さ、もうお遊びはおしまいにしてこちらにおいでなさい」

「……」

「今日は凪様もいらっしゃいます。それなのにこんなことがあってはもう手遅れです」

「いやっ」

 有子が伸ばした手を、反射的にあしほははねのけた。

 父の名を持ち出されては堪らない。

「どうして急にそんなこと言うの?」

「あなたがあんまり聞き分けのない子供だからです。それともあなたの大切なコレクションのことを叔母様に知られたいのですか?」

「有子…!」

 やはり知られていたのか。

 趣味のことを。

 そうだとしても、どうしてこのタイミングで持ち出すのだ。

 まるで自分を支配するように。

 いや、そうだ。

 完全に見失っていたのは自分か。

 有子に注意しろと、姉が言っていたのはこういうことか。

 失意に陥り、あしほは立ちすくむ。

「あしほ様。さあ…こちらへ」

 有子が手を伸ばしてくる。

 あしほは見つめる。

 この手をとればこのように張り切る機会は失われるだろう。

 ある意味ではそれはとても楽な状態だ。

 楽になるとはどういうことか。

 この要求を呑み文化祭を取りやめにし、そして叔母との賭けに負ける。

「あなたは…」

 あしほはよろけた。壁を支えに大きく息を吐いた。

「誰の味方なの? 何がほしいの?」

「私は」

 その時だ。有子の背後から走りよってくる何者かをあしほは視界に認めた。

 それはあっという間にやってきて有子の頭上に足を掲げた。

「せくしぃアタアアアアーーーック!」

 あしほは輝くものを見た。

 光を帯びて煌くハイヒールの裏側。

 それは即ち豊田しのぶ…いや、せくしぃ☆ぼでぃ悪魔くいーんの足だった。際どい角度であるにも関わらず高く掲げられ、有子の脳天に踵から落とされる。

 くいーんは、有子の頭上高くから足を振り下ろす。

「はぐぅっ…!」

 奇矯な悲鳴と共に有子はその場に崩れ折れた。

 しのぶがその背を容赦なく蹴倒す。

 侍女の上に馬乗りになり、あしほを睨みつけた。

「不本意ながら助けに来てやったぞ、めるるん!」

「姉さん…」

 着替えてくる暇があったのなら有子を捕まえておいてほしかったとあしほは言いたかったが何も言わずにおく。

「体育館裏の倉庫だ、行け!」

 あしほは頷くと身を翻して階段を駆け下りて行く。

「あしほ様!」

 尚も有子は追おうとする。だが、しのぶはそれを許さず跨ったきり動かない。

「まだ勝手な真似をするつもりか」

「私のどこが勝手だと仰るのです! 誰のためにっ…」

 有子はしのぶの腕の関節を掴むと、思い切り力を込めて握りしめる。

「誰のためだと、思ってるんですかっ」

「ぐっ…お、ま、えなああああ!」

 痛みに呻いて有子の肩を押さえていたしのぶの肘が浮く。

 その隙に腕を払おうとした有子だが、しのぶは腿を滑らせた。その腋下を腿で強く押さえつけた。地に縫いとめるように。

「おまえという奴は!」

「邪魔なさるなら蹴りますよ!」

 充分に妹の足音が遠ざかるのを耳で確認しながら、しのぶは身を屈めた。

 侍女は瞬きする。

 しのぶの意図が汲めない。

 いや、何をしようというのか、何をされようというのかはわかった。ただ、どういう気持ちでそれが為されるのかが読めない。

 しのぶの気持ちがわかったことなど、一度もない。

 何故、蹴りますなどと言ったのか、それだけは自覚していた。

 あなたは何者かと、あしほは尋ねた。

 あしほになら答えることはできただろう。

 しかし、この女の前では。

 この変人に対しては、わからないとしか言えなくなる。

 しのぶの唇がこちらの口に押し付けられるのを感じた。柔らかい感触。それは

すぐに離れた。

 蹴りますと言う前に蹴っていただろう。それができたなら!

 往来する生徒たちは突然の大人たちの激しい攻防を前にして、その場から距離を置いて見つめていた。だが、豊田教員とその家の侍女の唇が触れ合うのを見て

きゃあっと声をあげた。

「あなたは…人前で何をなさるんです!」

「今日は見世物だらけだ。私も提供してみたくなった」

 有子の目元に朱がさしている。それを見て、しのぶはにやけた。

「効を奏したな」

「そうやっておふざけになる! あなたはいいのですか、それで! あしほ様が逃れれば、必ず再びあなたに目が向けられるのでふよ! ひたたたたた! ひた

いひたいひたいでふううう!」

 後半はつねられて声にならなかった。

「一部の生徒たちを唆したのはおまえだろう?」

「私ではありまへん! 馬鹿をおっはらないへ! ひたいひたいひたいでふったら!」

「ふん」

 ひねくれた侍女の頬から指を離して、しのぶは鼻白む。

 股下から持ちあがろうとしてくる侍女の上体を物憂げな目で見据えた。

「やってくれたな、おまえは本当に。おまえの目的は果たされるだろうよ。親父殿はさっきここに到着したらしいからな。この騒ぎを知れば…賭けは失敗だ。あしほは自由がきかなくなる。嬉しいか?」

 既に祭は破綻した。そのことを告げている。

 ぴたりと泣き止んで、有子は仰臥する。

「嬉しゅうございます」

 その手を動かしても、しのぶは邪険にしなかった。

「それはあなた様の自由が確約されたということですから…」

 しのぶの面に陰りが帯びる。

「違うな。叔母のためだ」

「何故信じてくださらないのです?」

「だから嘘はやめろというんだ。声の色と感触が物語っている」

 嘘の感触は嫌いだった。ざらつきがある。

 有子から戦意が喪失されたことを確認し、しのぶは立ちあがった。

 悔しいことだが侍女の…いや、叔母の妨害計画は成就するだろう。

 目的は文化祭の中止などではない。

 来訪者、特に父兄の前でトラブルが起きることを目指していたはずだ。

 それによってあしほから奪われるものが何であるのか。

 ひとつしかない。自由だ。

「知らんぞ、祟られても」

「何です?」

 有子は乱れた衣服を直しながら上体を起こした。

「御剣蘭、恐らくあれは」

 しのぶの唇がその推測を紡ぐ。

 有子は、耳を疑った。




 蘭の監禁を目の当たりにした直後、校内から流れてきた放送を耳にした不良の一味は顔を見合わせていた。

「なあ、ちょっと度がすぎるんじゃねえか」

「けど…関係ねえだろ」

「…あのなあ、おまえら」

 動揺する少女たちに、リーダーがついに声を投じる。

「御剣の奴を、おまえらはどう思う?」

 唐突な問いかけだった。

 少女たちの視線が一斉にそちらを向き、サキは言いづらそうに黙する。

 しかし、鼻の頭をかきながらこう続けた。

「いや、別に生徒会も御剣も好きじゃねえけどよ…けど、親に出資してもらった道具を振りまわして部活動やってるお嬢さん方が妙な目立ち方をするってのが頂

けねえんだよ」

「ああ、ま、そりゃそうだよな」

 否やはない。

 喧嘩のプロでもないお嬢様方が陣地取りの真似事をして喜んでいるような姿を見過ごすほど懐は広くない。

「な、なあ、あたしさ…」

 一人が、おずおずと手をあげた。

「じ、実はよ…ちょっと応募してみたんだ。宣伝コンテスト」

 その告白に少女たちはざわめいた。

「ま、まじか?」

「ああ。な、なんつうか、別に大した意味はなかったんだけどよ。ほ、ほら、うち、もうすぐ妹が誕生日でよ。賞品があったら丁度いいかなって感じでよ…当選しても匿名希望はそれでいいらしいからよ」

 一人がその少女の肩を叩いた。

「いや…実はあたしも出したんだよな。やっぱ賞品目当てだけどよ」

「え、まじ? あたしも。ゲーム機ほしいよな?」

 すると少女たちは堰を切ったように話しはじめた。

「おまえも出したっつってたよな? 学園祭のテーマフレーズ部門」

「あたし、看板デザイン部門」

「実行委員のTシャツ部門」

「実は、あたしもだ」

 はいはいと挙手しているうちに、大半が応募していたことが判明した。

 残る一人は壁に凭れているリーダーのみだ。

 少女たちは固唾を呑んで、纏め役を見つめた。

 サキは咳払いする。ぼそっと告げた。

「イメージキャラクター部門」

「一番目立つやつ!」

 一味はどよめいた。しかし驚きはそれだけに留まらない。

「…優勝した」

 サキは真っ赤になってそう告げた。

「な、なんだって!」

「じゃじゃじゃあ、今回のイメージキャラ『まなびの・その』ちゃんってサキが考えたのか?」

「おおおお! 賞品獲得じゃあん!」

「ま、まあな…ちょっとマウンテンバイクほしくなったからよ…」

 少女たちはひとしきり盛りあがった。サキは赤面しながらも続ける。

「あの茶番劇以来、あの会長隠しているつもりか何も言ってこねえくせによ。応募したらあからさまに会釈してきやがったことがあってよ…」

「あ、あたしも、実は」

「ああ、あたしも」

「う、嬉しかったのかな…」

「…じゃねえ?」

 しん、と少女たちは静まり返った。

 サキは彼女たちの様子に目を細める。

 彼女は悪事を統率する者でもあったが、だからこそ善悪の境を知っている。

「…御剣はよ。うちらよりもギャル寄りだからな。毛色が違いすぎるし、あいつは友達が多いわりに一匹狼タイプで群れはつくらねえ。生意気だとは思ってたが認識を変えることがあってな」

「認識?」

「あたしさ。ほんとは美術がやりたかったんだよな。けど金がかかっからできねえだろ。でも偶然、御剣の作品を教室掃除したときに見たことがあってよ。絵に金が必要だって考えは間違いじゃねえかって思ったんだよな…なあ、あいつの絵を見たことあるか?」

 うっとりするような口調だった。

「べらぼうに、あいつの絵はうめえんだ」

 そのとき、プールサイドの遊歩道を向こうから歩いてくる生徒が見えた。

 彼女は不良たちの集団を見ると足を止めた。

 少女たちは彼女を見逃さなかった。

「おい。こんな隅っこに何の用だ? あんた」

 サキの状況判断は素早かった。

 その顔は覚えがある。

 文科系の部活動の一員。

 恐らく、その生徒は御剣蘭を閉じ込めた側の一員だ。

 文化祭の最中にこんな僻地まで歩いてくること自体が何かおかしい。

 彼女は丸めた大きな紙を手にしていた。

「そりゃあ、何だ? …見せてみな」

 ポスターを手にした生徒が身を翻した。

 それが合図だ。意思確認は必要なかった。

 少女たちはハイエナのように走り出した。

 文科系の少女が彼女たちの足の速さに叶うはずがなかった。

 悪さをしては逃げることを得意とする連中から。



 あしほはまっしぐらに体育館を目指す。その姿に生徒たちが声をかけた。

「会長だっ」

「会長! 大丈夫ですかあっ」

「会長、頑張ってえ!」

 あしほは驚いて立ち止まりそうになった。

 だが、手を振って応えるに留めた。

 どうやらポスター回収の伝令がうまい具合に伝わったようだ。

 対抗の姿勢を示せば応援してくれる生徒たちもいる。

 人の気持ち。それはひどく移ろいやすい。

 けれども今はそれがありがたい。

「あしほさん!」

「こっちです!」

「なこちゃん、みかちゃん!」

 グラウンドへ走り出るとなことみかが駆け寄ってきた。

 二人を伴ってどんどん走る。

 あしほに併走しながら、みかが問いを発した。

「あしほ様、あなたのお姉様は何者ですの? 私たちのこと…あ、いえ、蘭お姉様の居場所をすぐに見つけ出しました…まるで千里眼の主のよう」

 あしほの駆ける速度が緩んだ。

 軽く口の端を噛む。その様子に、みかも口を一度噤んだ。

「姉に、会ったのね。ご、ごめんなさい…詳しくは言えないけど…ちょっと、うちは、特殊というかっ…」

「…私たちが自らのことを明かさないのに、あなた様のお身内のことを知りたがるのは卑怯でしょうね」

「自ら、って?」

「何でもありません。今は蘭お姉様が先ですわ」

 何か秘匿しているみかが気になった。しかし確かに蘭の救出が先だ。

 体育館裏の倉庫がぐんぐん迫ってきた。そこに乗り込む前に、あしほはみかとなこを連れて体育館に入る。体育館裏の倉庫の陰に一旦身を隠した。

 するとみかが突然に抱えていた荷を開いた。

「あしほ様、こちらを着用してください。これは今までのコスプレ衣装と格段に異なる出来です」

「え、ええ! 悪いけれど、今、そんな暇は…」

「こんなときだからこそ、です」

 みかが力んだ。

 正直なところ、みかの趣味ではないか? と確認したくなるような煌きを帯びている。

「あまり、後々で大事にならないようにした方がいいのでしょう?」

「う。そ、そりゃあそうだけど…」 

「だったらショウタイムにしましょう」

「絶対に似合いますようっ。なこも見てみたいですっ!」

「高級な布地で縫ってありますの」

 ぐいぐいと衣装を進めてくるなことみかに、あしほはたじろいだ。

 彼女たちの理屈はあしほにもわかる。あしほがポスター探しを宝探しに置換したのと同じ理由で、蘭奪還の過程をパフォーマンスに仕立ててしまえばいい。

 観客がいないとしてもこちらが余裕を見せ付けるほどに後々で首謀者たちの罪は軽くなるはずだ。その考えに彼女たちが応じてくれれば、だが。

 あしほは逡巡する。問題は蘭を取り戻せるか、その一点ではない。

 置き去りにした者たちとの和解が必須だ。

「あしほさん」

 みかが、一歩進み出た。

「姉がご心配をおかけして申し訳ありませんがよろしくお願いいたします」

 深々と頭を下げる。なこにそれも倣う。

 あしほは抗えなくなる。

「…わかった」

 手を伸ばし、その衣装を受け取った。

「妹って、苦労するものなのよね」

 蘭やしのぶが聞いたら反論するであろうと思いながらも、あしほはつぶやいた。

「本当、その通りですわ」

「同感のスノウスマイルですっ!」

 無邪気に妹たちは笑いあった。



 スマートフォンが鳴り響いた。

 通話ボタンを押して応じた。

「はい」

「豊田あしほ会長だな。決心は固まったか?」

「ええ」

「ふん。所詮、その程度でしかなかったのだな。貴様らの計画はそもそもが矛盾していたのだ。秘匿されるべき趣味を衆人環視のもとにさらしても意味がないのだ」

「蘭は」

 あしほは、その首謀者の言葉を断ち切るように問う。

「蘭は無事でしょうね?」

 冴え冴えとしたその声の響きに、通話機の向こうの首謀者がしばし言葉をなくした。

「安否確認くらいはさせてやるのだ」

 すぐに聞き慣れた声があしほの耳を打った。

「会長! 蘭…ごめんなさい…ごめんお、蘭が迷惑かけてっ…」

 ああ。

 たった半日会っていなかっただけなのにと、あしほは思った。

 少しだけ笑う。それから頬を引きしめてこう叱った。

「本当よ。雨が降っても風が吹いても嵐がきても成功させるって言ったくせに…あなたときたら!」

 通話が切れた。

 一団はその倉庫の扉の向こうから突然に音が響いてくるのを聞いた。驚きを以ってそちらに注視する。

 扉は、外側から開かれた。

 軽快なミュージックと共に。

「めるめるめるるんめるめるるん」

 すっとミニスカートから伸びる脚。

「めるめるめるるんめるめるるん…」

 胸元にはリボン。髪はツインテール。

「はぁと☆すいーつ天使…」

 額にティアラ。掌にはロッド。

「めるるん、こうりーーーん!」

 一言一句過たず、あしほは諳んじた。

 強盗に突然押し入られた銀行員らのように一団は閉口した。

 もうその人には迷いも無く、ポージングも完全で美しい。

 そこには、完全無欠の魔法少女が立っていた。

 突っ込みも許さないほど、堂々たる姿で。



「何が」 

 文芸部の部長は眉間に皺を寄せた。

「何がめるるんだ、ふざけるのもいいかげんにするのだあああ!」

 ポージングを静かにおさめて、あしほは真顔になる。

「そう、ですよね…」

「オタク文化をさらけだすなと言っているそばからコスプレでご登場とは何事なのだああ!」

 頭を掻き毟りながら地団太を踏む。

 指先で背後の蘭を指し示して文芸部部長は怒鳴った。

「御剣はわれらの手の内にあるのだぞ!」

 示された先の蘭を見て、あしほは瞬間無表情になった。

 頬を火照らせて目をそらす。

「ごめんなさい。お楽しみだったようね。邪魔しない方が良かったかしら」

「この縛り方は趣味ではなくてこれしか資料がなかったのだああっ!」

「会長、馬鹿言ってないで助けるお!」

 蘭が訴えると、あしほは笑ってみせた。

「それは無理」

「諦めた? 何しにきたお!」

「だって」

 ぐるりとあたりを見渡して、あしほは穏やかに微笑む。

「私は一人だけれど、相手は大勢いるし腕力では剣道部部長の竹下さん、知力では文芸部部長の松平さんにはかなわないもの」

「冷たいおおお!」

 蘭は泣きそうだ。

 名を呼ばれた剣道部の部長、竹下たけしたみおは笑ってみせた。

「あらあ、ご自覚があるのはいいことですうう」

「ええ。降参します、コスプレネーム華蓮カレンさん」

「は」

 みおの顔が凍りついた。

「それから、オリジナルBL小説サイト『真夜中』の管理人ハルカさん」

 まっすぐに目を見て言われた文芸部部長、松平悠美まつだいらゆみは強張った。

「ひ」

「な、何のことですのおお!」

「まったく何を言い出すのだ、貴様あああ!」

 二人は恐慌状態に陥った。

「ごまかす必要はないわ。こっちが華蓮さんの夏のコミサの写真」

 あしほは、胸の隠しからゲームのヒロインのコスチュームに身を包んでいるみおの写真を取り出した。あたりのメンバーがざわめいた。

「部長?」

「憧れの部長がコスプレイヤーだったなんて…」

「や、やめるですうう! わわ私の、それは、ちょっとした、あの…違うですうう、妹がレイヤーなものだから、夏と冬のコミサは付き合わされちゃうんですうう!」

 ひそひそと囁きあいながら、部員やほかの生徒たちがみおの周りから引いていく。

「ちょちょちょっと何ですのおお!」

「剣道部部長、隠すことはないのだ」

「うあうああ! やめてくださああい! 私はそんなんじゃありませえん! あなた方みたいに男同士の恋愛漫画や恋愛小説で喜ぶ趣味はないんですからああ!」

「大きなお世話なのだ!」

 あしほは、更に隠していた文庫本を取り出した。

「これが夏のコミサでハルカさんのサークルが発刊していた新刊のBL小説文庫版。A6ってすごいわね。A5版よりも印刷代がかかると聞いているわ」

「ううううう! 何故そこまで知っている! 何がいけないのだ、営利目的ではないぞ!」

 分が悪いと知った途端に、ハルカ、もとい悠美は開き直った。

 きっと二人はあしほを睨んだ。

「愚弄するなら許さないのだ!」

「仲間割れさせようという魂胆ですわねええ!」

「いいえ」

 あしほは堂々と声を張りあげた。

「私は、豊泉寺女子高等学院生徒会会長です。生徒たちに関して知らないことはありません」

「だ、だ、だからと言って人の弱みを握るなんぞ卑怯極まりないのだ、この外道!」

 己を棚にあげるとはこのことだ。

「ごめんなさい」

 しかしあしほは頭を下げた。その一言に、少女たちが静まる。

「見守るという名目であなた方のことを掌握するのは行き過ぎた真似です」

 それはあしほにとって改めて詮議することすらしてこなかった行為だ。

「だけど、その趣味を弱みだなんて言わないで下さい。私は憧れていました。あなた方に…学外で、自由に創作をして自分を表現してそんな風に趣味に打ち込める皆さんに」

 あしほはスマートフォンを取り出す。画面を操作し、それを掲げた。

「これが私の書斎です。ご確認ください」

 少女たちはその画像を見て静まり返った。

「こ、これは…い、異常ですうう!」

「この量…もう書店の域なのだ!」

 書斎と呼ばれたそれは金庫室に相違なかった。びっしりとボーイズラブ関連の漫画や小説が並べられている。その規模と量が尋常ではない。悠美はうろたえた。

「も、もしや、貴様…」

「ええ。こんな格好で言うのもかなり極っているようで恥ずかしいけれど…私も、松平さん、あなたと同じ趣味の女子です」

「何…だと…」

 少女たちは騒然となった。それ以上に一驚したのは蘭だ。

「か、会長…いいのかお? よ、よりによって学園祭で…こんな形でみんなに知られちゃうのはっ…!」

「いいの。蘭。ありがとう。あなたが勇気をくれたから大丈夫」

 あしほは凛々しく言い放った。

「あなた方の秘密を暴くような気持ちではありませんでした。けれど謝ります。申し訳ありませんでした」

 深く頭を下げた。一同はあしほの思いがけない従順さに動揺を見せる。しかし、竹下みおが抗議するように腕組みした。

「いい度胸ですう、会長。誠意を見せてくれるというなら要求を呑んでくれちゃうというわけですかああ」

「いえ、それはできません」

「お、おい、竹下…」

「松平さん…いいんですかあ? 私は許せないですうっ。いいですか、みなさあん! こんな人を許していいと思うんですかあっ! いくら学校を統括する権限があるとはいえ私たちの秘密をどこまで把握しているかわかったものではありま

せえん! 人の秘密裏の楽しみを暴いて何が憧れですかああ!」

 みほはスマートフォンを取り出した。

「学園祭を中止しないなら最後の手段を実行しちゃいますうう!」

「竹下さん!」

「いざというときのためにいい、十八禁のポスターを貼る準備をさせちゃってますうう!」

「だめ! 小さい子が見たりしたら大変だわ!」

「会長は人がオタク趣味を隠すためにい、どれほど気を使っちゃっているかあ、

わかるんですかあっ! 私はあ、コスプレのためにい、スタイルを維持しちゃいながらあ、レイヤーであることを隠しちゃうためえ、リア充を装ってきちゃいましたああ! 苦労を踏みにじっちゃうような真似をしちゃったのはあなたですう! みんなの宝物を政治利用しちゃおうとしたのはあ、会長ですう!」

 オタク趣味を完全に秘匿してきた分だけ、みほの怒りは激しかった。表面上では押し込められ潜伏していた不満が爆発したのだ。

「今すぐ指示を出しちゃいますうう!」

「だめえっ!」

 あしほが腕を伸ばす。

 みおが逃れる。

 スマートフォンの通話ボタンを押しながら倉庫の外へとまろび出た。

 その足はその場から動かなくなった。

「御苦労さん」

 扉の外には奨学生の群れが待ちかまえていた。みおたちのやりとりを聞きながら動向を探っていたのだ。不良たちはそれぞれ腕にポスターを抱えていた。最初に捕まえた生徒からしめあげて場所を吐き出させ回収してきたのだ。

 みおは、不意を突かれて立ち尽くす。

「な、何ですかああっ!」 

「せっかくのハレの日に問題を起こすなら、あたしらに面通ししてもらおうか」

 時代錯誤な台詞だったがみおは気圧されて反応できない。

 サキが、みおの手から安々とスマートフォンを奪った。

「うううっ! こんな伏兵を用意しちゃっていたとは卑怯ですう、会長うう!」

 だがあしほも呆然としている。当然だ。思いも寄らぬ相手が味方になってくれたのだから。

「…あ、あの…あなた方は…」

「勘違いすんな」

 あしほの視線に耐え切れないのか、不良の筆頭は目をそらした。

「祭を見まわるのは反社会的組織の義務だからよ」

 みおを睨み据えた。

「いたずらがすぎるんじゃねえのか」

「くっ…あなたたちいいっ」

 ぎりぎりと睨みあう。

 だが、後に引けなくなったみおに声をかけた者がある。松平悠美だ。

「竹下」

「な、何ですかああ、悪趣味な部長さあん」

「悪趣味で悪かったな! もう、どう見ても私たちの負けだ」

「け…けど、それはああ…悔しいですうっ」

「それにな」

 のんびりと、文芸部部長は告げた。

「私は、もう少しおまえのレイヤー活動について伺いたいのだ」

「…は」

 みお含め、一同は意外な言葉に静止する。

「いいじゃないか。おまえの艶姿。何だ、その。私は見劣りする容姿だから自分では行わないが実を言えばイベントで撮影させてもらうこともあるのだ」

「え? え…そ、そうなの…ですかああ? い、意外ですう…」

 自分の趣味を文芸部員が肯定した途端、みおは目をくるんと見開いた。

 コスプレイヤーという自らの体を張る趣味の主には生物としてのプライドがかかっている。オタクである悠美の一言には真実味があった。だからこそ、みおをしばし黙らせる効果があった。

「…いいじゃないか。今回は、私たちが仲良くなれたってことで」

 みおは戸惑いを隠せない。

「松平さん…」

「確かに会長はいけ好かないのだ。しかし、今回はやり方を間違えていたのだ」

 悠美はあしほを見据えた。

「私はおまえを嫉視していたようだ、会長」

 あしほは瞠目する。

「そんな…私、私こそ、あなたのように活動的な人が羨ましいんです」

 ゆっくりと首を振る。

 それは本音だった。

「文化部部長として恥ずかしい真似をした。もしも文系の催しがある時は積極的に介入させてもらうのだ。正面から正々堂々とな」

「…はい!」

 あしほは破顔する。

「よろしくお願いします!」

 握手しようと悠美が手のひらを差し出したが、あしほは深々とお辞儀をした。

「…どうもすれ違うな」

「え?」

「何でもないのだ」

 顔をあげたあしほが瞬きすると、文化部部長は顔を赤くして手をひっこめた。

 二人を遠目に見守るサキに、その仲間が声をかける。

「一件落着ってとこじゃねえ?」

 サキは苦笑いした。

「蘭、大丈夫?」

 あしほは縄をといてやりながら蘭に声をかける。

「大丈夫おっ。それより会長、似合ってる。はぁと☆すいーつ天使! さまになってたっ」

「あ。あはははは」

「うひひっ」

 縄が外れる。途端に蘭はあしほにぎゅっと抱きついてきた。

「ありがとう、会長っ」

「ちょ、ちょっと、ばかっ」

 あしほはよろけながらもその身を受け止めた。

「良かった、あなたが無事で。蘭」

 少し涙ぐんで、そうした。

 次の瞬間、ざわりとあしほは背後から訪れる覚えのある感触に表情を失った。

「楽しそうだな」 

 体育館裏の遊歩道を悠然と歩いてくる者がある。ダークスーツに撫で付けた髪。生徒でないのは一目瞭然の中年男性だ。学外から訪れた者でもなかった。

 豊田凪。あしほの父である、その人だった。

 どの者よりも真っ青な表情で、あしほはそれを出迎えた。

 何しろ身に纏っているものは誰が見ても浮かれきった魔法少女の格好そのものなのだから。娘の前で歩みを止めると、豊田の婿養子は半ば呆然としながらもこう問う。

「あしほ。それはおまえの私服か?」

「……。……。……」

 答えに窮した末に、少女は返した。

「……これは、その…かっ…かっ…仮装です…伝統を研究する文化人類学の学術的実践…です…」

 ひゅう、と親子の間を冷え切った風が吹きぬけた。


 ☆


 教員たちは久方ぶりに姿をあらわした学園の責任者を手厚くもてなしたがった。それを一切断ると、凪は応接室に蘭とあしほを通した。

 本皮のソファに深々と彼は座る。

「御剣さんだね。話は聞いている。あしほと仲良くしてくださってありがとう」

「そ、そんなあ、御礼を言われることじゃないおっ」

 お叱りを受けると思いきや開口一番礼を言われた。

 正面から学園長に頭を下げられて、蘭はぶぶぶと掌を振る。

 それから次の一言に凍りついた。

「だが、これきりにしていただきたい」

「へっ」

 蘭は妙なしゃっくりのような声をあげた。

 凪は意に介さないようにしてあしほに向き直る。

「アニメや漫画を好むことについて、私は追及しないよ。あしほ」

 語りかけられて、あしほは顔をあげる。

「あ、あの……やっぱりご存知なんですね…」

「当たり前だ。おまえの動向は豊田の将来を左右する。学校の方針に趣味を用いようとしたのは良くなかったな。脅されてそうなったというのも良くなかった」

 それを聞いてカッとなったのはあしほではない。

 傍らにいる蘭だった。

「そんな言い方するなら蘭が悪い!」

 しかし凪は一瞥するに留めた。

「御剣さん、あなたのことは伺っています。しかし、責められるべきは隙をつくったわが娘。わが一族の後継者のご友人をつとめていただくにはあなたでは荷が重い。私は檀家であるから豊田に入ることを許された婿養子だ。それでも直系の娘よりも実際のところ立場は軽い。あしほはこの先の生涯を豊田に捧げる身。お友達としてのお付き合いはありがたいがこれきりご勘弁頂こう」

「ごかんべん? な…何言ってるの?」

「あなたにはご両親がいないと聞いている」

 ある書類を凪は机上に置いた。

 相当の額の小切手と、遠方の私立学園への編入手続きの書類一式だった。

「これ以上娘がご迷惑をおかけしないよう、あなたはこちらの学校に入りなさい。あなた一人とは言わない。妹さんも一緒に編入させるし学費は豊田が負担する。少ないがこちらは生活費だ。当面あなた方が卒業して社会人として自立できるようになるまで生計の助けとなる額だ。あしほがご迷惑をおかけしたなら済まなかった」

「な、な、な、な…」

 蘭の顔は蒼白になる。あまりの怒りに。

「ふざけるんじゃないっ! 憤慨のボルケーノおおおっ!」

 強烈な怒気をあらわにする。

 思わず妹の口癖が飛び出て、土石流火砕流が四方八方に飛び散りそうだ。

「蘭が脅したのに、どうして父親が会長の代わりに謝るの! こんなお金いらないっ! おかしい! 友達に条件つけられたりする人間が何の教えを受けるの? 趣味を排してまで受ける束縛なんか! 会長だって嫌に決まってる!」

 その小切手を引っつかむと勢い良く破り捨てた。

「では、君がわが娘の身代わりになることができるとでも?」

「お父様!」

 あしほは驚いた。

「私や姉さんの身代わりなんて誰にもできません!」

「いいや、あしほ。その生徒はどうにも怪しい術を有している」

「え…?」

 あしほは訝しげな目をして蘭を見た。そうしてしまった。

 思わず、危機的な状況に於いてそうしてしまったのだ。

 少女二人の視線が絡んだ。

 蘭は、悲しげな目をして、笑った。

 あしほは自覚する。

 そのような目で見てはいけなかった、と。

「な、何のことっ? 蘭は蘭っ」

 それはいつもの蘭の口調だ。わがままで身勝手で強引な、蘭だった。

 あしほはわずかに安堵する。

「そ、そうよ…蘭は普通の女の子よ」

 しかし、父親は冷酷だった。

 蘭の手から免れた書類を人差し指でとんと叩いた。

「御剣さん。あなたはこの紙の文字がどのようにお見えになりますか」

「ふえ? 何の話?」

 蘭は首を傾げた。

「お父様…おやめください!」

 あしほが制止するが、凪は尚も言葉を重ねた。

「わが娘にはこの文字に色がついて見える。それだけではない。付属して音が聞こえ人の気配に付属する光や色をも目視する」

「…え? え?…」

 蘭はあしほを振り返る。あしほは俯いた。

「その色や音を感知する感覚、現代では共感覚といって解明されつつある現象だ。科学がそこまで発達していなかった時代、私たちの一族に代々その感覚を有して生まれた者は寺の住持をつとめる素養があるとされそのように義務付けられてきた。現在では科学的に解明されているからといっても特殊であることに相違ない。方針は変わらない」

「だ…だからって、会長が、そんな…」

「わが寺の経典を正しく読むのに必要な感覚でね。これは重要なことだ。私たちの寺の檀家には国家の中枢にある方々もおられ一族間の関わりは深い。その寺宝をないがしろにすれば寺の信用に関わる不祥事。信者の皆様にとってもこれは大切なこと」

「き」

「しのぶが立場を放擲した以上、適しているのはあしほだけだ」

「気色悪い…だって、だって、それじゃあ本人の意志はどうなるのっ!」

 蘭が青ざめてそう言い募る。

 あしほはさっと顔を背けた。誰よりも自分がそう感じているために。

「か、会長…会長は、それでいいの?」

「……」

「会長…ねえ、会長…」

 繰り返し呼びかける蘭。

 しかし、あしほは歯噛みするばかりだ。

 二人の断絶を存分に眺め、凪は席を立つ。

「本日一日くらいは容赦しよう。あしほ。おまえが陶冶されれば学園は無事で済む。そのお友達も…喫茶店も」

「お父様…」

 あからさまな脅迫の言葉。

 命令とはこういうことをあらわすのだ。

 あしほは、知っていた。

 蘭がおふざけで用いるような、そんな生易しいものではない。

 知っている。

「最後の祭りを楽しんでおきなさい。これっきりおまえは落飾らくしょくすることだ」

 扉が閉ざされた。

 廊下に出た凪は向かい側の窓辺で待っていた人物とそのまま対峙する。

「何もしてくれるな、しのぶ。おまえにはわからんよ。俺の立場ではあかりの妹や檀家のお歴々には逆らえん」

 敢えて邪魔をせずに待っていたあしほの姉は、一刀両断する。

「わかりたくもない」

 険しい表情でそれだけ伝える。

 身を翻し足早に去る。

 聡明な長女が既に胸のうちで画策しているであろう何事かを、愚かな婿養子は察することもできない。

「いい加減、報酬なしにお家の伝書鳩というのもうんざりだな…あかり」

 もういない妻の姿を求めて、彼は窓越しに空を仰いだ。



 地下鉄に乗りたい。

「地下鉄に乗ろう」

 そう言ったのは、あしほだった。

 ずっとしたかったことだから、と。

 長く深い地下を自動的に下るエスカレーター。

 前後に乗っている人はほとんどいない。

 のぼりのエスカレーターにはまだちらほらと学園祭に向かう親子連れや他校の学生らしき来訪客らの姿がある。

 学園祭のあと、大概の生徒たちは体育館で行われる懇親会に参加する。自由参加だが、まだ帰る者はほとんどいなかった。

 何歩分か先に蘭の背中がある。

 ああ灰色だと、あしほは思った。

 忘れていた。

 明るい色、鮮やかな色に取り囲まれるように感じていたのに。

 灰色の世界だ。

 蘭といると本当はいつでもいい匂いがしていい感触がして柔らかな光を覚える。

 そんなことを口にしたことはない。

 誰にも理解されない感覚だから。

 共有、できない秘密だった。

 けれど自分は自分の殻に戻る。それだけだ。

「私たちの違い、あなたは聞いたよね。いつだったか」

 静かに呟くと、蘭は息をつめて抗うように問う。

「こういうことだって言いたいの? 会長」

 その金色の髪が、小さく遠く見える。

「小さい頃から文字に色が付いて見えた。人といると匂いや味を覚えるの。食べ物を味わうと音律を感じる。それが不思議なことだと思わずに大きくなって…ある日知らされたの。うちの寺では殊更にそれが大切なしるしなんだって」

「豊田先生も一緒?」

「姉さんはもっと特殊。音や光が具体的に私より鮮やかに見えるみたいなの。壁に遮られている向こうの空間でもその人の色や光が透視されたり、もう立ち去っていてもしばらくそこにいた人の声なんかがずれて聞こえるの。幼い頃はそれで悩まされていたみたい…私よりも長じているということもあって周囲の期待を背負って…それで修練に励んでいた時期もあるのだけれど」

「…それで、先生は蘭の居場所も当ててくれた?」

「そうよ」

 ずっと、こんなふうに蘭といられたらいいな。そう思う。

 いや、今までもそうしてみたかったのかもしれない。

 朝になったら待ち合わせて同じ場所に向かって発進する電車に乗り、帰りも時間をあわせて一緒に帰る。ずっと一緒にいる。

 そんな具合に、いつから望みはじめていたのだろう。

 雨が降っているように感じた。

 密閉された地下の空間なのに。

 蘭が好きだ。

 今ならわかる。

 いつしかこの少女なしにはいられなくなっている。

 何も包み隠さず、趣味を恥らうこともなく、誇り高くて、わがままで…

 だから。

 あれ、と、あしほは思った。

 そう、雨だ。

 灰色の、雨が降っていた。

 いつのことだろう?

 何かがおかしい。

 何かがあしほの内側で噛み合わずに軋んで唸った。

 何かを、自分は忘れている…

「かーいちょう」

 気が付くと、蘭がこちらを振り返って顔を覗き込まれていた。

 いつも、そうするように。

 エスカレーターで振り向いたら危ない。

 いつもならそう注意していただろうが、できなかった。

 空白の時間の真ん中にいて、蘭はこちらを見ていた。

 まだ降りきるまでには充分な時間がある。

 だから、というのではない。

 あしほは注意しない。蘭を見下ろす。

 もういっそ抱きしめたいような気持ちで。

「蘭ね、今日は本当は学園祭のあとに渡したいものがあったんだあ」

 にひいっ、と蘭は笑った。いつもの、ように。

「こないだのコミサのときの御礼お。…今渡しておくね」

 蘭が鞄から取り出したのはスケッチブックだった。

「はいっ」

 差し出されて、あしほはそろっと受け取る。

 ぱらぱらとそれをめくっていくうちに、少女の瞳は輝き出した。

「こ、これ…こんなもの…どうしたの」

 それは、あしほの好きな『剣持あずま』直筆の絵が綴られたスケッチブックだった。軽いタッチだがあしほの好きなキャラクターばかりが描かれている。

「売り子してくれたバイト代に、って。遅くなってごめん、って」

「そんな…だって、あの日は交通費やお昼代まで負担していただいて、新刊までくださって…こちらが御礼を言いたいくらいだったのに」

「会長は特別お」

「でも」

「これは!」

 蘭は急に声を張りあげた。

 そっけなく弧を描く高い天井に、その声は反響した。

「これは会長が生まれて初めて自分の気持ちに応じて動いて得た報酬!」

 怒っているような。

 泣いているような。

 そんな声だった。

「自分の気持ちに…応じて…」

「だから受け取る権利がある」

「権利…」

「ね? だから受け取ってほしい」

「それは…命令?」

 あしほは、冗談にしようとした。くすりと笑ってみせた。

 すると、蘭は頬を火照らせた。

「ち、ちがうお! 会長に、自分の意思でちゃんと選び取ってほしいんだお」

 あしほの意地悪な反応に傷付いたのが明らかだった。

 離別の予感に神経質になっている己を知る。

 本当は意地悪を言うつもりじゃなかった。

 無意識に腕を伸ばしていた。蘭の肩を掴んだ。

「蘭…一緒にいよう。このまま、電車に乗って最後まで行こう」

 蘭が息を呑む。

「一緒に逃げて。何でも…何でもするから」

 エスカレーターはそうしている間にも二人を運んでいく。

「だめだおう、会長…そんなことできないお…そのお願いは…きけない…」

「どうして?」

「あのね。蘭ねえ、誰も会長にあげなかったキラキラしたもの、蘭がたくさんあげたかった」

 蘭は、ぽんと会長の頭に掌をのせた。

「だけど…学園祭、失敗しちゃって…お願いちゃんとかなわくてごめん」

「そんなの…!」

「会長。今会長の心は真っ黒で…怒りに染まっている…それじゃ…」

 あしほは蘭が苦しげに顔を歪め、こちらに身を預けてくるのを抱きとめた。

「う、うう…」

 蘭が呻吟する。

「蘭? 蘭! どうしたの?」

「あ、あのね…会長は会長でいて…怒らないで…自分を失わないで、お願い…蘭ね、蘭もね、お願いがある」

 蘭はポケットを探りスマートフォンを掴んで取り出した。

 そして、かつてあしほが恥ずかしいと思っていた画像を消去した。

「会長は、これで自由」

 これでおしまいだと言われた気がした。

「これで平等だから…関係が平らになったから、大丈夫」

「そんな、の…いらない。蘭」

「会長、お願い。諦めないでね。蘭みたいに…賭けに出たらだめお。蘭ね。蘭、それでも嬉しかった。会長を選んで良かった。ずっと死にながら生かされているみたいな日々のなかで、会長はねえ、かわいくてねえ、最後にひときわ大きく輝いている星みたいだった」

「な…何を言ってるの? 蘭…」

「会長、蘭を」

「蘭?」

「怒らないでね」

 それは薄淡い光だった。

 月にかかる雲のような淡い光をあしほは見た。

 その光はたちまち膨大なものへと成長する。

 確実な強い発光に目を射抜かれて、思わずまぶたを閉ざした。

 そうしてはならなかったのに。

 ふと、体が軽くなる。

 蘭の体重が失せたのだ。

 いや、体重だけではない。

 蘭そのものが。

 少女は瞬きした。

「蘭?」

 いない。

 蘭のいた場所に、彼女の衣服も鞄も靴も残っていない。

 金色の髪の少女がいない。

 無機質な駅の構内を、最初から蘭なんぞのせていなかったかのようにエスカレーターは流れていく。その静かな鳴動音。

 この世から、彼女だけが一切取り払われていた。

 突然の喪失に、あしほは微動だにできない。

「ら、ん…?」

 みるみるうちに改札へ続くコンコースが迫ってくる。

 一体、何が起きたのか。

 何を、自分は失ったのか。

 誰が、消えたのか。

 小さく強い白銀の光が目を射抜いた。

 それは指輪だ。

 指輪だけが残っている。

 エスカレーターの振動に震えて蘭のいた位置に落ちている。

 あしほは反射的にそれを拾いあげて握り締めた。

 唯一、確実に残っているそれを握りしめた。その瞬間実感した。

 蘭が、これを残して消えてしまったこと。

「ど…して」

 泣きながら、あしほは今降りてきたエスカレーターを見あげる。

 当然のようにその人の姿が見えない。どこにも。

「…やだあっ…」

 あしほは小さな子のように嗚咽しながら見回した。

「蘭…」

 反対側ののぼりのエスカレーターには人がいて、泣いているあしほを不思議そうに見遣りながらもすれ違っていく。

「誰か! 女の子を見ませんでしたか!」

 あしほは反対側のその人たちに呼びかけたが、誰もが目をそらしてしまう。

 物理的に人ひとりが消えることなどありえない。

 しかし、それすらもあしほにとっては問題ではない。

 消えたのが蘭であること。

 その存在であることが問題だった。

 エスカレーターを駆け下りて改札の前のフロアを探す。

 けれどもどこにもいない。

 泣きながら、探す。

 完全な混迷と絶望が少女の手足を掴み、心臓を握りつぶす。

「…やだ…やだ、いやだ! やだあっ!」

 その人がいない。

「いやあああっ!」

 そのことが。

 ついにあしほは膝折って地に伏してしまった。

 様子のおかしな少女がいるといって親切な乗客が連れてきた駅員は、少女を宥めるのに苦労した。

 少女は混乱しきって、その場から離れようとしなかった。

 そうして。

 蘭だけではない。

 翌日から、あしほの姿もまた学校のどこにも見られなくなった。








もしも愛した人と離れてしまったらどうする?

ついに戻らない王子様を探して、あたしは旅に出たの。

そうして色んな人に出会った。

金糸に縁取られたドレスや赤い絨毯。

王宮。

王国を形作っていたものが何か知ったの。

それは私たちではなかったわ。

それは。

それはね。

あの子なら、知っている。


あの子だけが。


あたしを知っている。


鍵を持ってる。


あの、小さな。



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ふじょ☆ゆり 玉置こさめ @kurokawa

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