第三章 灰色の雨

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「文芸部・美術部漫画コースの選択者及び、アニメ研究会漫画研究会の諸君。本日はよく集まってくれたのだ」

 学院の地下一階には特別教室がある。その一室、美術・家庭教室に集う生徒たちの影。

 黒板にはあしほの写真が貼られている。

 その脇にはこう記されている。

『第十三回 文化部合同集会』

 回数から、慣習化されていた集会だとわかる。文化部の有志メンバーが部を越えて寄り集まり、アニメや漫画、主にボーイズラブ系のコンテンツについて語り合い、創作物を見せ合うことを目的としてきた会だ。その日までは。

 現在、生徒会の施策に対して、彼女たちは危機感を抱いていた。

「われらがオタク文化が汚されつつある!」

 壇上に立つのは文芸部の部長だ。

 ショートカットの真面目そうな少女だ。これまではこの集団の纏め役にすぎなかった。しかし、彼女の面は今や責務を負った者の厳しい顔つきとなっている。それに向き合う生徒たちも同じだ。

「生徒会の突然の宣言は由々しき事態なのだ! オタク文化はフォークロアでなければならない。マイノリティでなければならない。断じて大衆の目にさらされるポップカルチャーであってはならないのだ! 密かな楽しみを奪われてはならないのだ!」

「そうだそうだ!」

「そんなのはオタクとは言わない!」

「あくまでもわれらの愉悦は隠匿されねばならないのだ。白日のもとにさらされて何がオタクであろう?」

 黒板に大きな字でこう書いた。

『打倒・生徒会』と。

 オタク文化はあくまでもひっそりと育まれるもの。

 むしろそれが秘密であることにこそ愉悦が見出されるのであり、大多数の賛同を得ればその文化はただの大衆芸能と成り下がる。自分たちだけに共通の暗号を、生徒会の方策として用いる姿勢が鼻持ちならない。

 これは彼女たちにとって自然の反感であった。

 一団の議論が意識の共有化の前に熱を帯びたときだ。

 教室の扉が開き、一同ははっとする。視線がそちらに集まる。

 そこには、剣道部の部長が立っていた。ポニーテールに袴姿が麗しい少女だ。

「話は聞かせてもらっちゃいましたああ」

 剣道部だけではない。

 背後にはソフトボール部、テニス部、バスケットボール部、陸上部など、各運動部の部長たちが集っている。

「生徒会の横暴は私たち運動部にも気持ちのいいものではありませんねええ。不本意ながら、この集まりに参加させちゃってもらえませんかああ?」

「お、おまえら…」

 文芸部部長は眩しげに目を細めた。

「良かろう。普段から激しく運動を行う連中など、何が楽しいのかわからないと思っていたが…なかなか話のわかる奴らだったのだな」

「くっ…私たちとしても、文系の連中が地下でいじいじと寄り集まって何が楽しいのかと思っていましたがああ、共通の見解がある以上は仲良くしちゃおうじゃありませんかああ」

「なんだとこのスポーツ馬鹿」

「何ですってええ、根暗オタクううう」

「まあまあ部長方」

「まあまあまあまあ」

 いきなり険悪な運動部と文化部だ。

「せっかくご挨拶にきたんですから」

「そうですよ、仲良くやりましょう」

 共々、それぞれの部員に宥められて尖った空気をおさめる。 

「む…そうだったな」

「ちょっと大人げありませんでしたわ…」

 どこかお互いにわだかまりを感じつつも一種の同盟が成立される。

 そこへ、涼やかな声が響いた。

「楽しそうですね、皆様」

 教室の入り口にあらわれた美女。一同はその人物を見て仰天した。

「あ、あなたはああ…?」

「な、何の用なのだ!」

「いいえ、まさか」

 その女は妖艶に微笑む。

「それよりも標的を間違えているようでしたから、教えにきたのです。あなた方の狙うべき人物は…」

 あしほの写真の脇に、その女はもう一枚の写真を貼り付けて指で示した。

「こちら。御剣蘭…彼女こそが諸悪の根源です」

 何故彼女がそんな情報を提供するのかわからない。

 少女たちは固唾を呑んだ。

「それは…確かなのですかああ?」

「われらを霍乱させるための作戦ではないのだろうな!」

「何を仰います。よく考えればわかるはず。どうしていきなりあの生徒会長があのような施策を提唱したのか…不自然だと思いませんこと?」

「そ、そう言われてみれば…」

 一同はどよめいた。

「この少女の入れ知恵と考えれば筋が通るのではありませんこと?」

「確かに御剣は常々自分のオタクだからな。しかし、何故われわれにあなたが加担する?」

「利害の一致です」

「そちらにとっても御剣の存在は不都合だ…と、とらえて良いのだな?」

 文芸部部長が女に歩み寄る。

「ええ」

 その女は理解を得て満足げに笑みを浮かべた。

「その通りですわ。皆様」



「お帰りなさいませ、あしほ様」

「ただいま」

 蘭たち三姉妹と別れ帰宅したあしほは、有子の艶然たる微笑を見てほっとする。

 しかし、その笑顔にどこか翳りが感じられた。

「どうかしたの?」

「ええと、その…あしほ様…今日はあかし様からのご連絡があります」

「叔母様から? 今すぐ試験をするわ」

「いいえ。試験の必要はありません」

「え? それっ、て……」

 あしほは厭な予感を覚える。

「ええ、お察しの通り」

 侍女はなるべく気を持たせないようににこやかに告げた。

「お叱りがあるようです…」

「ま」

 あしほは青くなった。

「まさか…」

 侍女は律儀に頷いた。

「お察しの通りです」

 試験免除されるということはその必要がない…つまり、直接の通達がある場合を示す。十中八九、それは何か忠告することがあるという意味だ。

 あしほも青ざめようというものだ。

「…有子……あなたが…伝えたの? その…」

 有子が近頃自分が学校で何をしているか、知らないはずがない。

 しかし、有子は答えなかった。

「有子が何もせずとも…あかし様は何でもご存知です」

 答えになっていない、とは言えなかった。

 その通りだからだ。

 豊田の親戚や檀家である生徒はあしほだけではない。

 その者たちがあしほの愚行を家に知らせないはずがなかった。


 ☆


 あしほは床に直に正座してその画面と向き合っていた。

 指先はわずかに震えている。

 画面の向こうには厳しい顔つきの叔母がいる。

 父と同様、本家ともオンラインでつながっているのだ。

 叔母の背後には床の間が映っている。

 落ち着いた佇まいの和室だ。それは寺社でなければありえない広さを呈する。

 豊泉寺の当主はこの豊田あかし。僧名は灯菫とうどうと云う。

 しのぶとあしほの叔母、即ち二人の母の妹にあたる。

 豊泉寺はまごうかたなき尼寺だ。

 しのぶが放擲し、あしほが期待される家業とはこの寺の継承にほかならない。しのぶは高校を卒業すれば得度して髪を落とす予定だった。 

 その義務を放擲したがために、あしほが目されるようになった。

 豊泉寺を継ぐ者には必ずその兆候があらわれる。現在、この豊田の一族で資格があるのはあしほとしのぶの姉妹だけだ。

 当代の住職であるあかしには子供がいない。

 親戚筋には同年代の子らもいるが、その資格がない。

 資格は厳しい修行の末にあらわれるといったものではない。

 生まれつきの『ある素養』だ。

 科学の進んだ現代で、素養も資格もあったものではないとしのぶは切り捨てる。だが、この叔母には通用しない。

 しのぶやあしほに与えられた資格を神仏からの思し召しだと言い切る。

 そんな生き方をしてきた厳格な僧だ。

「最近の様子はどうです?」

 あしほは、極度の惧れを感じていた。

「あ、あの…」

 とめどない冷や汗が額を頬を伝い落ちていく。

 尼僧はあしほを見据える。

 幾枚のレンズを透過されようとも、どんなに離れた地域間の通信であろうとも同じことだ。その眼力。その威力にあしほは動けない。

「どうもここのところ、妙な報告を耳にしましたからね」

「み、妙な噂、と仰いますと…」

「得体の知れない格好で学内を駆けずりまわっている、といった知らせですよ」

「ひっ」

「びくびくするのはおよし。問いに答えなさい」

「あの」

 どうする?

 認めれば追及は免れない。

 しかし、ごまかしは見抜かれる。

 あしほの判断は早かった。

「も、申し訳ありません。叔母様」

 彼女は深く頭を下げた。ひれ伏すように。

「確かに私はここのところ…こ、こすぷ…いえ、妙な扮装を学内で…していましたが…けして遊んでいたわけではありません」

「ふむ。それはよくわからない金髪の娘とやらが原因でしょうか?」

 あしほは息を呑む。

 もうそんなことまで知れているのか?

 それはそうだ。

 自分を生徒会長の座から追い落としたい生徒らは、実際のところ他にもいる。

 素養があり、叔母の姪というだけで会長となり将来この寺を背負いたつ自分を…疎む者は、いるのだ。密かに。

「あれは邪悪な匂いがします」

「そんなっ。御剣さんは…」

「何です?」

「あの…でも、あの…あ、う…クラスメイト…で…学内でもおかしなことばかりしてますが…彼女は…学校を愛する…重要な生徒です…」

「それはおまえと親しくするに足る人物なのですか?」

 そうはっきり問われると、あしほは弱ってしまう。

 彼女が親しくするに足るかどうか、などと確かめる暇もなしに親しくしてきたのだから。

「重要な人物であることは確かです…」

 そうとしか言えず、あしほは俯いた。

 弱みを握られて命令を受けるようになったという状態では、擁護する言葉が出てこない。迂闊な表現をすれば秘密の趣味が露呈されてしまう。

 それを避けようとすると、うまい言葉が出ない。

「なるほど。大した人物ではないが、その重要な金髪娘によって、おまえは妙な扮装をするようになったということですね。しかし、立場が違いすぎる…おまえは自分とその者の差異に惹かれたのですか?」

「そ、それはっ…」

「あの娘は除籍しましょうか」

「待ってください!」

 あっさりと重大なことを決めようとする叔母の横暴は今に始まったことではない。

 叔母は、母亡きあとの実質的な育ての親だ。

 身の周りのことについて決定するだけの権限がある。

 あしほは当然この叔母に感謝している。尊敬も、している。

 けれども、折にふれて自分たちのためにならないと決め付けた相手や物事をこのようにあっさり打ち捨てるのも、この叔母だ。

 だからこそ、姉は膨大な財産を築いてそれを明け渡さなければならなかった。

「いずれにしろ今ではおまえだけが、この寺を継ぐ身。剃髪も卒業まで待つという約束ですがこんな悪影響を及ぼすようでは…」

 そのときだ。

「あかし叔母さん、いい加減にしないか」

 聞き知った声が背後から届き、あしほは慌てて振り向いた。

 誰あろう、己が姉の姿をそこに認めてあしほは狼狽した。

 クローゼットから作務衣姿で出てきたのだから当然だ。

「有子! これはどういうこと?」

「はい、あしほ様。しのぶ様がどうしてもあしほ様の部屋にあがりこみ、あかし様との面談を邪魔したいと仰るため従ったまででございます」

 内容はまるきりあしほの意思を無視したものだ。

 はきはきと丁寧に伝えられてあしほは眉間に皺を寄せる。

「どうして一言私に言わないの!」

「しのぶ様がそうしろと仰られましたもので」

「私への配慮は?」

「申し訳ありません。私も精一杯引きとめようとしたのですが…」

 有子は深く頭を下げた。

 あしほは肩を落とす。

「静粛になさい」

 あかしの声が響き渡る。あしほはびくりと身を震わせた。

 しかし、しのぶがあしほを庇うように一歩進み出る。

「あしほの言い分を聞いたらどうです」

「何です、しのぶさん。あなたは二度とこの寺院と学院に関わる資格はないのでは?」

 家庭における比較対象。コンプレックスをあしほに根付かせてきたのはこの叔母だ。しかし、この姉自身でもある。怪物は自在だ。家庭の枠に収まらずに社会的な生き物となりつつある。あしほを家に置き去りにしているのが自分だと、し

のぶも、わかってはいる。

「あしほは私の家族だ」

 強い眼差しでしのぶは言い切る。

「寺や家を捨てようとも、己が自由を買い取ったまでのこと。あしほを捨てた覚えはない」

「姉さん…」

 あしほは瞬きする。

「都合のいいことを言うものではありません」

 あかしがその顔を険しくする。

 しかし、しのぶは微笑すら浮かべて返す。

「こうしようじゃないか、叔母様。この子は文化祭で昨年度の寺院への寄付金の倍額を稼ぎ出す。この約束を果たす」

 あしほは放たれた言葉の意味を理解できず、首をかしげた。

「ね、ね、姉さん? 何を言って…」

「黙るんだ、あしほ」

 姉の口調の強さに、あしほは声を失う。

「それは金髪娘も併せての効果として、だ。そのことが証明できれば、彼女らの関係が子供の戯れでなく社会へ貢献する良きつながりであると認めてくださるだろう?」

「や、やめて…勝手に!」

「良いでしょう。できるのですね? あしほ」

「やれるな? あしほ!」

 二人の怪物から睨まれて、あしほは身を固くする。

「は、は、はい…」

 小さくなって頷いた。


 ☆


 叔母との通話が切れた後。

「すまん」

 額を床にこすりつけんばかりにして、しのぶはあしほに詫びた。

 半ば放心しているあしほに対して、悪いことをしたという自覚はあるのだ。

 あしほは、大きなため息をどふううと吐いて恨めしげに姉を睨んだ。

「すまん。だがな、あしほ。これくらいのことをしなければ、おまえはっ…」

「この守銭奴…まさかお金のためにあんな条件儲けたんじゃないでしょうね」

「おまえのためだよ」

「……大きなお世話! この馬鹿! 変態! 勝算はあるの? なかったら許さない!」

 負ける確率が高い賭けはしないものだ。この姉は。

 そう信じたい。

 しかし、返る言葉に気を失いかけた。

「まあ…おまえ次第といったところか」

「勝手に約束をしておきながら! そんな不安定な条件に姉さんは賭けたの?」

「いいや。おまえを信頼している。近頃のおまえなら何かしてくれそうだ」

 それはあしほ一人でなく、御剣蘭の存在を遠からず指している。

 言外に彼女からの影響を指摘されて、あしほは黙る。

「違うのか?」

「……私がどれだけ困っているのか、知らないくせに…!」

 あしほは正直に答えた。

「御剣さんのことが少しだけわかってきたのは確か。でも…困る!」

 堅苦しく告げるあしほを見て、しのぶはようやく立ちあがる。

「何が困る?」

「い、家の事情に巻き込むなんて…」

「…それは困っているとは言わないな」

 あしほの頬を両方の掌で挟むと、その額を額にくっつけた。

「母さんが死んでからおまえは変わったからな。誰かと心を共有するのは悪いことじゃないよ」

「……」

 あしほは俯いた。

 そう。

 幼くして二人は母である人を喪失していた。

 その悲しみを共有できるのは、確かにこの姉だけだ。

 あしほは、母が死んだ頃のことをよく覚えていない。

 まだ幼かった頃の話だ。

 姉が母にどんな想いを抱いているのか、あしほは聞いたことがない。

 それは禁忌であるような気がしていた。

「今日、御剣さんの家で夕飯をいただいたの。小さな喫茶店で…カウンターの向こうで妹のみかちゃんが料理して、なこちゃんがお皿を運んでくれて。ごはんを食べたの。狭いテーブルだけれど、近くて……」

 父も母もいない。その点は共通していた。

 けれども全く別物だった。

 少女の声は澄んでいた。

「私、楽しかったの。今日は、とても」

 あしほはしのぶに請う。自ら何かを願うのは初めてだった。

 手を差し出す。

「私は学校生活を失いたくない…失わないよう努力する」

 当然のようにその手を取ると、しのぶは妹を強く抱きしめた。

「力になるよ」

 しかし、しのぶの目には厳しい光が宿っていた。

 あしほからは見えない位置に立つ有子に、その視線は転じられる。

 無言の確認に、有子は恭しく頭を下げる。しかし、恭順の意をあらわしながらも、侍女はこう申し出た。

「その計画、有子も微力ながらお手伝いさせていただきますわ」

 その言葉にしのぶは瞬きし、何か言いかけた。だが、それよりも早くあしほは反応していた。

「お願い、有子」

 お日様のような笑顔だ。

 邪気のないその笑みに二人の女は口を噤んだ。


 ☆


 翌日の昼休み。

 相も変わらず対面してランチを広げる会長とギャルの姿があった。

 生徒会室は妙な沈黙に支配されていた。

 おかしいとあしほは思う。

 いつもならば、のべつまくなしに生徒オタク化計画を詳らかに提唱しているはずの蘭の唇。それが固く閉ざされている。

 おかしいと蘭は思う。

 いつもなら自分の話は半分どころか一割ですら真面目にとるのを躊躇する生徒会長が、来訪した時点から背筋を伸ばして自分を待ちかまえていた。迷惑そうな顔も疎ましげな表情もなしだ。

 どういう気持ちの変化なのか。

 しかも、自分が机を動かし会長の向かいの席について弁当を広げるまでの一連の動作を、まるでどこかの特務機関の最高司令官のように顔の前で手を組んで凝

視している。

「会長?」

 目の前で蘭が掌を閃かせる。

「どした? なんか悪いものでも食べた?」

 すると、あしほはようやく正気づいた。正面を見据え肩を揺らした。

 その瞳は爛々と輝いていた。

 腰を浮かせ、そのまま勢いよく蘭の両手を握りしめた。

「み、みみみ…御剣さん」

「ふ…ふえっ」

「あのっ…」

 間近にあしほの顔が迫る。

 蘭は赤面する。

 しかし、その反応も眼中に入らない様子だ。

 あしほは自らの鼻先を蘭の鼻先にこすりつけんばかりの距離で迫る。

「お、おおおおお願いがあるの」

「え」

 常日頃命令する立場であるのは蘭の側だ。

 お願いと聞かされて瞬きする。

「会長…わかったお。あ、あの、近いよ、会長」

「え?」

「顔が…その…」

「あ、ご、ごめんなさい…」

 冷静でなくなっていた己に気付いて、あしほは蘭の手を離した。

 居ずまいを正して席についた。

 蘭が小さく笑った。

「や、やはは。そんな畏まらないでお願いなら聞かせて。会長って普段は澄ましているけど、案外子供っぽいところあるお」

「そ…」

「今だってそう。周りが見えなくなっちゃう感じ」

「そうかな…」

「だおっ」

 半信半疑に頬に手を添えてあしほが考え込む。

 その隙に蘭はぷいと顔をそらした。熱っている頬を宥めようと掌で扇いだ。

 あしほは咳払いして向き直る。

 いざとなると、どう切り出したものか。

 そもそも蘭との関係性の影響で文化祭に自らの学生生活を賭さなければならなくなったとは言いづらい。

 しかも、蘭が退校をほのめかされたなどと言い切れるものではない。

 非常識の固まりのような叔母の思考をそのまま伝えることは躊躇される。

 お願いの内容が自身のエゴだと承知だ。

 それでも、伝えるしかない。

「お願いっていうのはね…その…もうすぐ文化祭があるでしょう? それを踏まえて、その…あ、あなたの計画を拡大化させたいの。早い話…文化祭の演出を手伝ってほしいの」

「蘭が?」

 淡い瞳を揺らがせて、蘭は瞬きする。

「そ、そ、そう…あの…実は…私の叔母…実質的にこの学院の長である人が、その、私のことを…その」

「まさか」

 蘭は目を見開く。

「趣味のことがばれたのかおっ?」

 あしほよりも慌てて、今度は蘭が迫って尋ねた。

「え? い、いえ…違うわ。ただ、その、私たちの関係が…」

「ああ、なあんだ! よかったあ。会長の秘密がばれたら大変っ」

「……」

 解せないものを見る眼差しで、あしほは蘭を見つめた。

「不思議なことを言うのね、御剣さん…だって、あなたは、その…私の趣味が公然たるものとなるように尽力しているのではなかったの?」

「それは生徒たちの間のことだお。家族のことは、会長が決断するものでそ? 蘭はそこまで立ち入るつもりはないお。だから焦ったあ…」

 意外だった。

「だって、あの画像で脅してきたのは…」

「それとこれとは別おっ」

 蘭は眉間に皺寄せた。

 家族に知られるのと友人に知られるのとでは、確かに深刻さが異なる。そうした常識は弁えている。

 あしほは、もう、どうしてとは思わなかった。

 蘭はこういう人なのだ。

 破天荒だけれど常識はある。妙なところで気を遣う、こういう人なのだ。

 胸に火の点るような感覚にとらわれた。

 けれど、これを何とあらわせばよいのか…

 どう伝えればいいのかわからない。

 それが何故だか苦しい。

「会長、どしたの?」

「…な、何でもない」

 俯きかけると、いつものように無邪気に蘭が覗き込んでくる。

 もうこの距離感にも慣れてしまった。

 そのくせ、彼女は自分が接近するとはねのけようとしてしまうけれど。

 蘭が困りそうな解説は省いて、あしほは事の次第を説明した。

 可及的速やかに叔母の思惑への対策を立てる必要があること。姉が協力を申し出ていること。文化祭の収益はもともと学院のものとされるが、その結果次第であしほの交友関係が制限される可能性があること。

 けれど、自分や蘭の学籍まで関わってくるとは言えなかった。

 プレッシャーを与えたくはないという気持ちもあった。

 これだけは伝えた。

「そ、その…あなたの計画は、今までの、その…影響を見る限り、無意味ではないと思ってるの」

 それを聞いた蘭は、明らかに瞳を輝かせた。

「でそ? でそ? 蘭、偉い?」

「う。え、偉いかどうかはともかく…だ、だから…協力してほしいの。改めて正式に学園祭をプロデュースしてくれたら嬉しい。けれど、今までは私が命令に従って唯々諾々と流されていただけだから…これをお願いする以上は、対等な関係でなければならないの」

 あしほが席を立つのを、蘭は見た。

「力を貸してください。お願いします」

 頭を下げるのを見た。

 あたりの大気が静まった。

 蘭はあしほのつむじを見たきり、身を固くしていた。

 不審に思ったあしほが顔をあげる。

「あの…だめ、かしら?」

「う、ううんっ」

 蘭は首を振った。否定する。

「会長のお願い、蘭、力になるお」

 少しだけ泣きそうな声だった。

 あしほは、眉間に皺を寄せてしまう。

「あの、ごめんなさい。本当に…あのね、私の都合で…もし気がのらなければ…」

「大丈夫、任せて!」

 急いたように、遠慮がちなあしほの言葉を断ち切るように蘭は言い切った。

「嬉しい」

 掌を差し出した。

 あしほは自然にそれに応じる。

「会長が、蘭に『お願い』してくれて…嬉しい」

 その喜びようの異様なことに、何の疑問も抱かず…

 その掌を握ったことを覚えている。

 確かに、その手をつないで、握りしめて、それから。

 全身の血の巡りが急激に早まるように、感じた。

 体が何かに包まれるように熱くなるのを…

 あしほは、その場で意識を失った。

 足元から力が抜けてただ人形のように倒れこむ。

 その瞬間、その身に、ある力が作用した。

 あしほの体はふわりと浮きあがる。

 その力は彼女の肢体をゆっくりと床に横たえた。

 残るのは静寂ばかりだ。

 教室内は純白の光に包まれている。

 蘭の瞳は潤んでいる。

 そうして、ただ、確かに今あしほとつながった己の掌を見た。

 自分の指に宿った白銀のその指輪を見つめた。

 蘭はあしほのそばにそっと寄りそう。

 痩せた体に抱きつくようにして起こしてやる。

「会長…」

 つぶやきは誰の耳に届くこともなく、響いて消えた。



 ☆


 雨が降っていた。

 冷たい雨だ。

 灰色の路地。

 何ということのない街角に、小さかった頃の自分がいる。その子はあるものを街の隅に見つけ出して、顔を輝かせ、それから泣きそうになる…

 遠い昔のこと。

 まだ幼い頃のことだ。

 やけに鮮やかに思い出された。

 目が覚めて、感覚が取り戻される。視界には無機質な天井。

 あしほはあたりを見まわした。

 清潔な寝具にカーテンの衝立。その向こうに誰かがいる。

「御剣…さん?」

 保健室だ。さっきまで生徒会室にいたはずが。

 不思議に思いながら身を起こす。

 思わず蘭の名を呼んでいたが、衝立の向こうの人物が彼女とは限らない。無意識につぶやいていた名前が、その人の耳に届いてしまったかと口元を押さえた。

 そっと寝台を降りた。

 足元にはきちんと上履きが揃っていた。それを履いている間も、衝立の向こうの人は静かだった。

 自分を待っている。そんな気がした。

 映像、匂いや音、感触。そんな具合に体に刻まれる記憶よりも、もっと別のところにある感覚で覚えている。

 そうだ。

 彼女と接したことがある。

 けれど、どこで?

 あしほは幼年期からこの学院の箱入りだ。

 御剣蘭は中等部から一緒になった生徒だった。

 クラスも委員会も部活動も重なることはなかった。

 まして、あしほは生徒会の業務にその頃からかかりきりだった。

 そういえば、今の趣味をもつようになってからは、同じ趣味を公言している蘭を妙に意識するようになったものだ。そのせいだろうか?

 今、妙に懐かしく感じるのは…

 それでも、接点を築こうと思ったことはなかったのに。

 あしほは衝立をまわり込んで、そちらを見た。

 グラウンドに面した窓際に蘭が立っている。

 背を向けている。明るい髪が月のようだ。

 彼女は以前からボーイズラブを愛してやまない。

 あしほは、蘭との密かな共通項を周囲に悟られることを畏れている。

 書店で弱みを握られたとき、思わず屈してしまった。

 実際に理不尽な命令ばかりされている。

 この先も何を命じられるかという懸念は拭えない。

 けれど、彼女の態度や言動そのものからは鬱屈した気概は感じられない。

 ただ楽しくて人を振りまわしている。無邪気な子供のように。

 窓の向こうには霧のような雨が降っていた。

 いつでも蘭は灰色の場所に立っている。そんな気がした。

 錯覚だ。そんなはずはないのに。

「やっと起きたあ、会長」

 蘭が振り向いてぱっと笑う。

「ごめんなさい。私…」

 覚えていないが記憶が抜けて気がついたら保健室にいたのだ。

 体調が悪くなったのだろうと、そのことは自覚できていた。

「大丈夫? あ。保健の先生はね、今、豊田先生のところにいるお。貧血だから、起きたら豊田先生と帰宅するといいって」

「でも午後の授業が…」

「だめ。体は大事にしないと」

 蘭は元気だ。けれども、どことなく遠く感じる。

「あの…あのね、御剣さん。さっきの話だけれども」

「ん? 学園祭プロデュースの話?」

「あの…」

 何故だろう。

 自分はとんでもない失敗をおかしたのではないか。そんな気がする。

「やるっ」

 蘭の瞳に光が宿る。

 あしほは言葉に詰まる。こんな具合に笑われたら…何も言えない。

「雨が降っても風が吹いても嵐がきても成功させるっ」

 やる気しかないという具合にガッツポーズを見せ付ける。力こぶなどできるはずのない細い腕だが張り切っている。

 心配性の生徒会長は少し迷ってから口を開いた。

「でも、あの…本当に、いいの?」

「会長。もしかして自信がないの?」

「そ、そうじゃないけど…」

「…大丈夫お」

「でも…」

 あしほは震えた。

「御剣さんは…私の趣味のことを知って…学校を盛り上げて…けれど、結局ほかの誰にも喋っていないわ」

「へ? まあ、そういう条件だから」

「でも…それがきっかけで私たちは一緒にいるようだけど…わ、私のお願いをきくメリットはないはず…」

「…メリットなんか、いらない。あのね、会長。蘭は…」

 続く言葉に、あしほは硬直する。

「蘭はねえ、会長の気持ちがよくわかる。隠して秘密にして知られたくない気持ち。利用しちゃって悪いけど、よくわかってる。むしろボーイズラブとか、会長が軽蔑するのあたりまえ。だってそれがまともだから」

「え…」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 軽蔑するのを自然だと認識しているとはどういうことか。

 そう思っているのなら、彼女が公然と趣味を喧伝するのは矛盾ではないか。

「蘭はね。まともでいらんなかった。まともでいらんないくらい、ボーイズラブにのめりこんだ。だから、まともでいられる子は羨ましいって思ってた。普通に恋愛して、部活や委員会、勉強して青春する子たちは…」

 背徳的な趣味という認識は蘭にもあるのか。

「メリットなんかいらない」

 蘭は繰り返した。

 あしほは、何と返していいかわからない。

 蘭が自らをさらしている。

 その相手が自分であることにただ驚いてしまって。

 彼女に共感できるのが自分で。

「…じゃあ…本当に?」

「もーっ」

 あしほの焦燥に満ちた確認を、蘭はやんわり遮る。

「ただね、ただ寂しい。だって、会長も最初から好きって公言してたなら、それならもっと別なふうに仲良くなれたんじゃないかって…けど、会長が、自分の趣味を周りに知られたくないのもわかってるから…だから、学校を良くする計画

立てたんだっ」

 こういう場合どうすればいいのだろう。

 歓喜に身をゆだねてしまえばいい…

 それなのに、紡がれたのは不器用な問いかけだった。

「御剣さん…あの、その…前から聞きたかったの」

「ん?」

「わ、私といて楽しい…の?」

「何言ってるの? 楽しいおっ」

「私も」

 ゆっくりと息を吐き出すように、あしほは告げた。

「あなたといるのが…楽しいの」

「うひっ」

 蘭は妙な声を出して笑った。

「絶対成功させる! 雨が降っても風が吹いても嵐がきても、ぜったい絶対っ!」

「うん…!」

 両手を掴まれて、あしほは頷く。

「よろしくね」

 彼女を頼りにしている。心からそう感じた。

 そのとき、指のあたりに触れる冷たいものに気付いた。

「…指輪?」

「あっ」

 会長が首を傾げると、蘭は慌ててそれを引っ込めた。

 そう言えば彼女はいつでも紙でできたような玩具じみた指輪をつけている。それが今日は本格的なシルバーになっていた。

 生真面目な会長は吐息した。

「貴金属はだめだっていうのに。まあ御剣さんの校則違反は、今に始まったことではないけれど…」

「まあまあ。いいお」

「良くない」

「えへえ。これは大事な指輪っ」

 でれっと眦を下げるので、あしほは何も言えなくなった。

 もしかしたら、誰かからもらったものだろうか?

 そう考えると、少しだけ呼吸が苦しくなった。








あの人は確かに王子様。

そうして、手に入らないの。

あたしは王国のお姫様。

それは本当。

ここには鍵がないの。

その鍵は別の誰かが持ってる。

自ら出ることはかなわない。

王子様がいなければ。

ここに誰かがいなければ。

あたしが存在することを、誰かがお願いしなければ。



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