004 銀髪の少女
気もそぞろ……というやつだろうか。
昼休み明けの授業が、まったく頭に入ってこない。
仮に、数学の時間に教師が、教科書を投げ捨てて『おいしいきんぴらごぼうの作り方』を黒板に書いていたとしても、僕は何の疑問も感じずに真顔でそれを自分のノートに書き写したことだろう。
それぐらい思考が停止していた。
絶対に
そこに差し込んだ一筋の光明。
正直、授業など受けている場合ではないのだ。僕はさっさと行動に移りたかった。
「早ク放課後ニ、ナラナイカナ」と右足が言った。
「中二病喫茶ノ救世主ガ、見ツカルトイイナ」と左足が続ける。
同意だ。
足の裏たちの言葉に、僕は小さくうなずいた。
彼らの声が聞こえるようになってから、おおよそ一年――。
足の裏たちと僕とが、それなりに仲良くなるには、充分な時間だったようだ。
ちなみに、足の裏たちの声は、脳みそや意識に直接語りかけてくるテレパシーのようなものではない。
まるで足の裏に人間がいて、その人が僕に向かって直接語りかけてくるような、そんな感じである。
足の裏には、口も穴もない。
それなのに不思議なものだ。
当初はそう不思議に思っていた僕だが、一年もいっしょに過ごしていると、もはや何も疑問に思わなくなっていた。
当たり前のようになっている奇妙な共同生活。
油断し過ぎて僕は時々、足の裏たちの声を聞き逃すこともある。
たとえばテレビを観ているとき。
急に足の裏たちから話しかけられると、テレビの音が邪魔をして、その声を聞き逃す。
「えっ? 今、何て言った?」
慌ててそう聞き返しても、すでに遅い。
足の裏たちは機嫌を悪くして、二度と同じ言葉を口にしてくれなかったりもした。
人間と同じで彼らは、ほんの
そんな足の裏たちの声は、僕以外の人間には聞こえない。
足の裏たちも、それはよくわかっているようで、僕の周囲に誰か人がいても、こいつらはまったく気にせず、好き勝手なタイミングで会話をはじめる。
足の裏たちがはじめて人前で会話をしたとき――あのとき僕は、動揺して背中に冷たい汗をかきまくったものだ。
けれど、周囲の反応から、その声が自分以外の人間には聞こえていないことを理解すると、僕は徐々に慣れていった。
とは言え、時には動揺してしまうこともある。
たとえば夏場。
ぎゅうぎゅう詰めのエレベーターに乗ったときなど。
「HAHAHAッ! 隣ノオバサンカラ、ナンダカ酸ッパイ臭イガスルゼ!」と右足が言った。
「強烈ダゼ。キット脇ノ下ノ臭イダナ! HAHAHAッ!」と左足が続けた。
他人には聞こえていないと、わかってはいる。
けれど、エレベーターの中で僕は、なんだか生きた心地がしなかった。
そんな足の裏たちなのだが、時々、右足と左足とで意見が分かれることがある。
僕は、基本的に右足の意見に従うことにしていた。
右足はプライドが高いからだ。
それは利き足としてのプライドだろうか?
ともかく、左足はそのことをよく理解しているようで、最終的には右足に意見をゆずることが多かった。
左足は自分がそうした方が、全員の関係が上手くまわることを、悟っている様子だったのだ。
事実そのおかげで、一人とふたつの足の裏は、大きなケンカをすることもなく、これまで上手くやってきたのである。
集団生活を
人間にも足の裏にも、左足の裏のような存在は、やはり必要なのかもしれない。
右足が眠っているとき、たまに左足が、
「マア、右足ノ言ウコトダカラサア。仕方ガナイヨネ」
と声をかけてくることがあった。
そんなとき僕は、
「お前も大変だな」
と両目を細め、優しく応えてやるのである。
放課後――。
手早く帰り支度を済ませると、僕は教室を飛び出す。
向かった先は『本物の中二病の女の子』がいるらしい二年五組の教室。
五組の前の廊下では、一足早く駆けつけたキーナが、黒髪のポニーテールを静かに揺らしながら待機していた。
「冬市郎くん。ターゲットはまだ、五組の教室から移動していないッス!」
どこかヤンチャに輝く栗色の瞳。キーナは眉毛をキリリっと動かした。
スパイごっこをしている女子高生――。
そんな雰囲気を全身から漂わせている。
僕たち二人は、後方の開いている扉から五組の様子をのぞき見る。
「冬市郎くん、たぶんあの子ッスよ……」
キーナが指差す先。
教室の奥の方で、大人しそうな少女が一人座っていた。
この角度からは、顔がよく見えない。
だが、髪が銀色のおかっぱであることは確認できる。
そしてキーナの情報通り、左手には指ぬきの黒い革手袋が装着されていた。
そんな銀髪の少女は、黙々と帰り支度を進めている。
こげ茶色の革トランクを机の上に乗せると、そこに筆記用具や教科書などを丁寧に詰め込みはじめた。
「なあ、キーナ。あの子が通学用のカバンにしているのって、あの革トランクなのかな?」
「うーん、どうやらそうみたいッスね」
「ああいった革のトランクを通学カバンにしている人って、なかなかいない気がするんだけど?」
「自分もはじめて見たッス」
しばらく僕たちは、銀髪の少女よりもトランクに注目する。
僕はポリポリと頭を掻きながら言った。
「うーん。まあ、確かにあのアンティーク臭のするトランク自体は、少しオシャレな気もするんだけど……でも、あんなトランクをわざわざ通学カバンとして使っていること自体が、やっぱり……ちょっと普通じゃないような……」
キーナは「同感だ」といった様子で、こくりとうなずく。
「そうスね。あれじゃあ、通学というよりは、なんだか小旅行にでも出かけるみたいッス」
「確かに。小旅行には向いているかも」
「とにかく冬市郎くん。あの子が教室を出たら、しばらく尾行してみるッスよ」
「尾行か……そうだな。まあ、さすがに教室内で声をかける勇気はないし。でもどうやって、あの子に声をかければいいんだ?」
僕がそう尋ねると、キーナの瞳がキラリっと光る。
「それなら、自分にひとつ考えがあるッスよ!」
「えっ?」
「冬市郎くんが、あの子の前で、こう言うッス」
ニヤニヤとイタズラっぽい笑みを浮かべながら、キーナは僕に耳打ちをする。
薄桃色の彼女の可愛らしい唇――それが今、僕の耳に優しく息を吹きかけながら、同時にアドバイスをささやく。
くすぐったい。
背中がぞわぞわする。
おまけに、自分のすぐ鼻先で、女の子の甘い香りが漂っている。
正直に言って、なんだか少しエロい気分になってしまった。
ここは高校の廊下だったので、さすがに理性が飛ぶようなことはなかったが、ほんの一瞬、自分の全身から力が抜けるのがわかった。
だが――。
キーナのアドバイスを聞き終えた頃には、僕は顔を引きつらせ、たじろぐことになる。
「……まっ、マジでかっ!?」
と僕は声を震わせた。
「マジっすよ」
とキーナは言い切る。
それから彼女は、引き続きイタズラっぽい笑みを浮かべたまま、見るからにかわいらしい舌先を、チロリッと少しだけ僕に見せた。
「冬市郎くんは、今自分がアドバイスした通りのセリフを、彼女の前で口にすればいいんスよ。それで、すべてがわかるッス」
「うっ……まあ、確かに。キーナが言った通りにすれば、声をかけると同時に、相手が本物の中二病かどうかも判断できる」
「魔法の言葉ッスね」
「でも……そのセリフを口にするのは、さすがに恥ずかしい……」
キーナから教えられたセリフを、銀髪の少女に向かって実際に口にする場面を想像してみる――。
僕の額には薄っすらと汗が
自分では確認できないが、きっと耳が真っ赤になっているはずだ。
他に方法はないだろうか……と、頭の中で考えはじめてしまう。
しかし、キーナの栗色の瞳は、そんな僕の頭の中を完全に見透かしていたようだ。
彼女は、僕の顔をのぞき込みながら言った。
「冬市郎くん、ここは恥ずかしがっている場合じゃないッスよっ! 喫茶店が潰れそうなんスよね?」
足の裏たちが、キーナの援護射撃をする。
「キーナノ言ウ通リダナ」と右足が言った。
「ヤルシカナイネ」と左足が続ける。
それからキーナが、僕の
「さあ、彼女がもし本物の中二病なら、冬市郎くんのそのセリフで、きっと釣り上げられるはずッス!」
「しかし……」
「冬市郎くん! 釣り上げてくるッスよ。『中二病喫茶の救世主』を、華麗にフィッシュしてくるッス!」
やがて銀髪の少女が、革トランクを右手に教室を出ていこうと立ち上がる。
そして、彼女が教室の奥から廊下に姿を現したその刹那――。
僕は、ハッと息をのんだ。
はじめて間近で
神々しさすら感じさせる
うっとりするような長いまつ毛。そして、その下で
少し視線を下げれば、彼女の恵まれた肉体が両目に焼き付く。
長身でスタイルが良く、そしてなによりも、雄大なその胸の膨らみ。
この胸……おそらく姉ちゃんと同じくらいのサイズ?
いやいや、もしかするとそれ以上!?
僕だって健全な男子高校生だ。
思わず、銀髪少女の胸のことを考えてしまい、ボーっとしてしまう。
「いくッスよ、冬市郎くんっ!」
と、キーナが僕の肩を叩いた。
僕は我に返ると、キーナとともに銀髪少女の尾行を開始するのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます