136 『漆黒龍皇ニーズヘッグ173世』

 銀髪の少女はそれから、床に視線を向けた。


「冬市郎よ。わらわに、ひとつ試してみたい方法がある」

「えっ? 試してみたい方法?」

「ふむ。床のこの『魔法陣』の力を借りようと思うのだ」

「力を借りる? 姉ちゃんが描いた魔法陣の?」


 中二病喫茶『ブラックエリクサー』の床。そこには、僕の姉の手によって描かれた珍妙ちんみょうな魔法陣がいくつか存在している。

 どれもキラキラと輝く蛍光けいこう塗料とりょうによって描かれたものだ。


 灰音はその中のひとつ――『漆黒龍皇しっこくりゅうおうニーズヘッグ173世』の魔法陣を指差しながら言った。


「ふむ。わらわはこれから『漆黒龍皇』の力を借り、栄町さんに取りいているものを追い払おうと考えておる」


 灰音の発言に、僕は驚いた。

 なぜなら、床のこれが『漆黒龍皇』の魔法陣であることを、僕は灰音に一度も話したことがないからだ。


 この魔法陣を描き、『漆黒龍皇』のものであると設定したのは僕の姉である。

 当時の姉は『漆黒龍皇ニーズヘッグ173世の邪悪さを象徴するエピソード』なんてものまで考え、僕に教えてくれた。


 けれど……姉自身、今ではその設定を綺麗さっぱり忘れている。

 だからこれが『漆黒龍皇』の魔法陣であることをきちんと知っているのは、この世で僕だけ。

 そう思っていたのだが……。


 僕は一応確認してみる。


「なあ、灰音。この魔法陣が『漆黒龍皇』のものであることは、姉ちゃんから聞いたのか?」

「んっ? いや、姉様からは聞いておらぬぞ」

「じゃあ、誰から聞いたんだ?」

「『漆黒龍皇ニーズヘッグ173世』本人から直接聞いたのだ」

「はあ?」


 僕のそんなマヌケな声が店内に響くと、灰音が詳しい説明をしてくれる。


 話によると、店にお客さんが一人もいないとき、灰音は魔法陣の上に立って瞑想めいそうをしているらしい。

 この店はお客さんが一人もいない時間が多い。きっとよく瞑想できることだろう。

 そして、灰音は瞑想しているとき、魔法陣のぬしである『漆黒龍皇』と対話することが可能になるとのことだった。


「ふむ。魔法陣の上に立ち、鼻呼吸で心を集中させて瞑想する――」

「鼻呼吸……」

「うむ。『呼吸の流れ』に意識を集中しながらも、両目は閉じずに店の入口に向けておく。そうすれば、お客様がやって来たときすぐに瞑想をやめて接客に向かうことができるのだ」


 灰音の話に僕は、軽く苦笑いを浮かべた。


「え、えっと……そのぉ、僕には瞑想ってどんなものかわからないんだけど……。目を開けたままでもできるのか?」

「姿勢を正しく、そして鼻呼吸さえしっかりしておれば、わらわは目を開けたままでも瞑想することは可能だのぉ」

「へ、へえ……」

「もちろん、目を閉じていた方が瞑想はしやすいのだがな」

「そうなんだ……」


 銀髪の少女は、こくりとうなずくと言った。


「うむ。この魔法陣の上で瞑想しているときに漆黒龍皇の声が聞こえてきたのだ。最初はうまく話せなかったのだがのぉ。最近ようやく漆黒龍皇とも打ち解けてきてな」


 僕は、はじめて灰音に声をかけた日のことを思い出す。

 彼女は神社の老木に手を当てていた。『老木と昔話をしていた』と僕に教えてくれたのだ。


 もしかすると……。

 あのとき灰音は本当に、老木と会話していたのかもしれない。

 この銀髪の少女は、『神社の老木』や『魔法陣の主』と本当に会話することができるのではないだろうか?


 そんな考えが、僕の頭をよぎった。

 魔法陣の主と会話ができなければ、『漆黒龍皇ニーズヘッグ173世』の名前を、灰音がどこでどうやって知ったのか説明がつかない気がするのだ。


 キーナに向かって灰音が微笑みかける。


「うむ、栄町さん。それでは、魔法陣の上に移動しようかのぉ」


 銀髪の少女は、床の魔法陣の中心に設置されたテーブル席へとキーナを連れていった。

 その席は、僕が灰音を店にはじめて連れてきたとき、彼女が座りたいと希望した席でもある。

『漆黒龍皇』の魔法陣の中心にあるテーブル席だから、もしかすると灰音は当時から何かを感じとっていたのかもしれない。

 それであのとき灰音は、この席に座りたいと僕に言ったのではないだろうか?


 銀髪の少女は、キーナを椅子に座らせると僕に向かって言った。


「うむ。悪いが冬市郎は、魔法陣の外に出ていてはくれぬか」

「んっ? 僕は魔法陣の外に出た方がいいの?」

「ふむ。わらわたちを外から見守っていてほしいのぉ」


 言われた通り僕は魔法陣の外に出た。

 灰音は、オープンフィンガーグローブをはめた左手を自身の大きな左胸に当てる。


 普段から姿勢のよい灰音。

 今は、さらに背筋がピンっとしており、とても美しい立ち姿であった。

 もし僕が彫刻家ちょうこくかだったら、灰音のこの立ち姿を資料写真としてほしがったかもしれない。


「ふむ。今はお客様の来店に注意を向ける必要がないので、瞑想に集中できるのぉ。普段と違って目を閉じさせてもらおうか」


 灰音はそう言うと、魔法陣の上で静かに両目を閉じた。

 そして、次の瞬間だった。

 椅子に座るキーナの背後に、もやもやっとした謎の『黒いきり』が、音もなく出現したのである。


「えっ……」


 と、僕は声を漏らした。

 出現した黒い霧だが、またたく間に人の形となった。サイズもちょうど人間と同じくらいだろうか。


 人の形といっても、目や鼻や口がしっかりとあるわけではない。

 もやっとした『人型ひとがたの黒いシルエット』が、音も立てずにキーナの背後でうごめいている感じなのだ。

 あきらかに非現実的な光景である。


 そんな黒いモヤの出現に、足の裏たちが騒ぎはじめた。


「アノ『人型ノ黒イモヤ』ハ、ナンダ?」と、右足が言う。

「キーナヲ苦シメテイタモノノ正体ナノカ……?」と、左足が続ける。


 キーナ自身は自分の背後を見ることができない。そのため、黒いモヤには気がついていないようだ。

 灰音も瞑想を続けており両目を閉じたままで、たぶんそれを見ていない。

 魔法陣の外側にいる僕と足の裏たちだけが、それの存在に気がついているようだ。


 黒いモヤなのだが、人の形をしているだけあって、その動きは人間のようであった。

 音はないが、両手をバタバタと今にも音が鳴りそうな感じで動かしており、なんだか『人があわてている様子』を黒いシルエットで表現しているみたいに見えた。

 黒いモヤは、なにか差し迫った危機を感じて、『キーナから急いで離れよう!』と、あたふたしているように僕には思えたのである。


 しかし、そのモヤがキーナの背後から逃げ出す前に――。

 床の魔法陣から霧状の黒くて大きな何かが飛び出してくる。


 飛び出してきたものは、人型のモヤと同じく黒い霧状のもの。

 けれど、その大きさは段違いだった。

 人間サイズどころか、この喫茶店の厨房ちゅうぼうにある業務用冷蔵庫なんかよりも、もっとずっと大きい。


 新たに現れた黒い霧状の巨大な何かは、人の形ではなく、


『大きく口をあけたドラゴンの顔』


 のように僕には見えた。


「なっ……」


 と、目の前の光景に僕は身動きできず、再び声を漏らすことくらいしかできなかった。


 霧状のドラゴンの顔のようなものだが、声を出した僕のことなど見向きもしない。そいつはそのまま人型の黒いモヤに喰らいつく。

 ――かと思うと、大きな口であっという間に人型のモヤをみちぎってしまったのである。


 迫力のある光景ではあったが、やはり音はなかった。

 無声映画むせいえいがの切り取られたほんの短い一部分。そんなものを観せられていたかのような気分だ。


 そして、気がつけば――。

『人型の黒いモヤ』も、『霧状のドラゴンの顔』もすっかり姿を消していたのである。


 それは、あまりにもあっさりしているというか……。

 うたた寝をしているときに少しだけ見た短い夢のようというか……。

 まあ、なんだか本当に『あっけない一瞬の出来事』だった。


 衝撃的な出来事だったわりに、『あっけなかった』という感想が僕の胸に浮かんだのは、目の前の光景に何も音がなかったことが、いくらか関係しているのかもしれない。

 まあ、大きな音が鳴れば、店の奥から姉が様子を見に来て面倒なことになったかもしれないので、音がなくてよかったと思う。


 椅子に座ったままのキーナが、やや興奮した様子で僕に向かって言った。


「うッス! 冬市郎くん。自分、黒い霧のようなものに一瞬で包まれたッスよ」

「あ、ああ……うん」

「でも、その霧はすぐに消えちゃったッスよ!」


 魔法陣の外側から眺めていた僕と違い、内側にいたキーナはその黒い霧がドラゴンの顔だとは認識できていない様子だった。

 おそらく、背後にいた人型の黒いモヤにも、最後まで気がついていなかっただろう。

 いつの間にか瞑想を終えて目を開けていた灰音が、微笑みながら言った。


「わらわと栄町さんを包んだ黒い霧の正体は、漆黒龍皇が放ったオーラの一部かのぉ」

「オーラの一部?」


 と、僕は繰り返す。


「ふむ。この床の魔法陣のサイズでは、漆黒龍皇の本体はさすがに出てこれぬと言っておった。それで、オーラの一部を飛ばし、わらわたちに被害を与えることなく、栄町さんに取り憑いていた悪いものだけを取り除いてくれたのだな」


 足の裏たちが声を出した。


「ソレッポイ説明ダケド……」と右足が言う。

「『オーラノ一部』ヲ飛バシタトカ、意味ワカンネエナ」と左足が続ける。


 足たちの言う通りだった。

 灰音は『それっぽい説明』をしてくれた。だけど……僕には何がなんだかさっぱりだ。

 こちらの理解のレベルが低いのだろうか……?

 まあ、灰音の話が理解できないのは、今日にはじまったことではない。


 それに、僕にとって本当に大事なのは理屈ではなく、キーナが吸血鬼の呪いのようなものから解放されたかどうかということだ。


 灰音がキーナの背後を見つめる。


「ふむ。どうやら無事に成功したようだのぉ。栄町さんの背後にあった黒いモヤは、もう見えぬ」


 銀髪の少女はそう言うが、僕やキーナには、例の呪いのようなものが本当に消滅したのかどうか判断できない。

 確かに今、灰音の力によって『魔法陣を使用した不思議な体験』はした。

 けれど、それでキーナが元に戻れたのかは僕たちにはわからないのだ。


 一方で灰音は、確かな手応てごたえを感じているようだった。


「うむ。栄町さん、また何か困ったことがあれば、遠慮えんりょなくわらわを頼ってくれてよい。『友人』のためなら、わらわは協力はしまぬ。今後、親しくしてもらえると、わらわは本当にうれしいのぉ」


 銀髪の少女は、達成感に満ちた表情でそう言ったのである。

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