107 吸血鬼の幽霊

「えっ……。吸血鬼の幽霊?」


 と、僕は彼女の言葉を繰り返した。


「そうデスます」


 金髪の少女は、こくりとうなずく。


『吸血鬼は鏡に映らない』

 そんな話を、どこかで読んだか聞いたかしたことがある。

 同じく『幽霊も鏡に映らない』なんて話もだ。


 吸血鬼や幽霊は、本当に鏡に映らないのか?

 その真実を確かめるすべを僕は知らない。


 けれどとりあえず――。

 自分のことを『吸血鬼の幽霊』と語った金髪の少女の姿は、ばっちりと男子トイレの鏡に映り込んでいた。本当にばっちりと……。


 おいおい……。

 僕は苦笑いを浮かべながら話を続ける。


「そのぉ……実は『吸血鬼』でしたら、僕は先ほど『バンドのボーカルをしている吸血鬼』と出会ったばかりなんです――」


『ヴァンピール団長』のことを思い出してそう言った。

 バンド内で彼女は『吸血鬼キャラ』を演じていたのだ。

 あと、『ライオン』を演じている人と、『クマ』と……もう一人いた。


 それから僕は金髪の少女に向かって、話の先をこう続ける。


「ですので僕は、『吸血鬼』にはお会いしたことがあったんですよ。けれど、『吸血鬼の幽霊』にお会いするのは、さすがにはじめての経験ですね。いやー、初体験。感動したなあ、あはは……。では、失礼します――」


 そう言い終わると僕は、にこやかな笑顔を浮かべ、金髪の少女に何度も会釈えしゃくをしながら男子トイレから出て行こうとした。


 キーナを外で待たせているのだ。

 ここから早く立ち去りたい。


 そもそもこれ以上、このおかしな女の子に僕が付き合う理由もないのだ。

 それに、あまりトイレが遅くなると、『大きい方をしている』とキーナに勘違いされそうである。


 しかし――。


「ノン。貴様、ちょっと待つデスます!」

「はいっ?」

「ンー。もう少しくらい、ワガ輩様のために時間をついやシてほしいデスわネ」

「どうして?」


 僕がそう尋ねると、少女は不満そうにくちびるをとがらせる。


「ワガ輩様は、貴様が一人きりになり、用を足し終わルまで声をかけルのを、じっと待っていたんデスわヨ」

「いらぬ気遣きづかいってやつですよ。できれば、『用を足す前』に声をかけてもらえた方が、ずっとよかった」


 そう口にしながら僕は、さすがに腹が立ってきた。

 そこで語気を強めて、こう言葉を付け加える。


「僕だってね、女の子に見られながら放尿するってわかっていたら、心の準備とか色々したかったんだからなっ!」


 自分で言っていて、本当にその通りだと思った。


 おそらくそんな僕の怒りは、言葉だけでなく顔にも出ていたのだろう。

 金髪の少女は、その青い瞳で僕の顔を眺めてから、申し訳なさそうに頭を下げた。


「オー。いや、それは本当に悪かったデスます。貴様、どうか許してほしいデスかしら? 貴様が一人になルときを狙っていたら、ワガ輩様はこの場所でこのタイミングでしか、声をかけることができなかったんデスますポス……」


 んっ……? 『ポス』?

 デスます『ポス』?


 少女は、金色の長い髪を何度も揺らしながら僕に頭を下げ続ける。


「貴様、どうかワガ輩様を、許してほしいデスます! お願いしますデスますポス!」


 彼女が最後にどうして『ポス』と言うのか意味はわからないが、こうしてなんだか必死に謝罪しゃざいされると、僕だってもう少しくらいなら話を聞いてやろうという気になる。


 けれど、わざわざトイレの中で会話を続ける必要もないだろう。

 とても清潔に保たれている場所ではあるが、ここはトイレであり、談話室だんわしつではないのだ。


「あの、お話を続けてもいいんですが……」

「貴様、許してくれるデスますポス?」

「いえ、それはまだ自分でもわかりませんが。とにかく話の続きは、トイレの外でしませんか?」


 僕はトイレの出入り口を指差す。


「トイレの外で、デスます?」

「はい。外には出られますよね? 別にこの男子トイレに住みついている『トイレのなんとかさん』的な幽霊ではないんでしょ?」

「ウィ。もちろん。ワガ輩様は、この男子トイレに住みついている幽霊ではないデスますヨ」


 僕は後頭部をポリポリ掻きながら言う。


「あはは……。まあ、『わざわざ女子校の男子トイレに住みついている幽霊』だったら、かなり心が屈折くっせつしている幽霊な気がしますけど、そうでないのならとりあえず外に出ましょうか」


 金髪の少女は、首を小さく横に振った。


「ノン。外に出ることはできますデスが、外には黒髪の女がいルかしらネ?」

「はい。だから僕は、彼女をあまり待たせたくないんです」

「オー。でも、外で話をするとなると……」

「んっ?」

「ワガ輩様は別に構わないのデスますが……貴様が困ったことになルんじゃないかしらネ?」

「どうしてですか?」


 僕が首をかしげると、少女が理由を説明してくれる。


「ワガ輩様の姿は、おそらく貴様以外には、見えていないデスますポス。幽霊だからデスわネ」

「はあ……」

「だから、あの黒髪の女の前でワガ輩様と会話をすルと、貴様はぶつぶつとひとごとをつぶやき続けル『おかしな人』だと思われるかしらネ――」


 なるほど……。

 しかし……おかしな人から、『おかしな人と思われること』を心配されるとは……。


「だーから、ワガ輩様は、貴様のことを思って、一人きりになルまで、声をかけなかったのデスますポス」


 まあ……。

 僕以外に姿が見えないとか……そんなのは嘘だろう。

 彼女は『そういう設定のキャラ作り』をしている女の子だと思われる。


 けれどもし……。

 この金髪の少女の言うことが本当で、彼女の姿がキーナに見えなかったら?

 確かに僕は、キーナの前でぶつぶつと独り言をつぶやく男になる。


 だけどそれは、キーナの前ではおそらく問題にはならないだろう。

 足の裏たちと独り言のようにぶつぶつしゃべっている姿を、今でも充分に見られているわけだし……。


「幽霊さん、お気遣いどうも。でも、たぶん大丈夫ですよ」

「んっ? 大丈夫デスますポス?」

「ええ。さあ、トイレから出ましょう」


 そう言って僕はトイレからさっさと出ていく。

 金髪の少女もどうやら、僕をトイレに引き止めておくことはあきらめたようで、いっしょにトイレから出てきた。


 こうしてようやく僕は、赤絨毯の敷かれた廊下でキーナと合流したのだった。


「キーナ、待たせてごめんな」

「いいッスよー。いっぱい出たッスか?」


 ほら……。

 完全に『大きい方をしていた』と勘違いされているじゃないか……。


「いや、大きい方じゃないんだけどな。本当に遅くなってすまん」

「謝ることなんてないッスよー。冬市郎くんのためなら自分はたぶん、ぎりぎり三日後の朝くらいまででしたら、ここで飲まず食わずで待ていられたッスから」

「いやいや、キーナ……。さすがにそれは……」


 親友からの重たい愛情に苦笑いを浮かべると、僕は振り返って、背後に立っている金髪の少女をキーナに紹介した。


「実はさ、この人と話をしていたら、遅くなっちゃってな」


 しかし――。

 なにやらキーナの反応がおかしい……。


「えっと……? 冬市郎くん、どの人と話をしていたッスか?」

「えっ?」

「そこには誰もいないみたいッスけど……」


 ポニーテールを揺らしながらキーナが首をかしげる。

 その可愛らしい栗色くりいろの両目で、何度もまばたきをしながらだ。


 さすがに僕は、「うーん……」とうなった。

 僕の目には相変わらず、女子高等部のセーラー服を身につけた金髪碧眼の美少女が、ばっちりと映っていたからである。

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