038 容疑者二人の接触

 自分の席のすぐそばまでキーナが来ていた。

 それなのに当時の僕は、何の反応も示せなかった。


 一限目の授業後。

 その短い休憩時間のはじまり――。

 僕はうつむいて椅子に座っているだけだったのだ。


 そんな思考停止状態の僕に向かって、ポニーテールの少女は声をかけてくれた。


「い、印場くん」


 小さな声だった。

 勇気を振りしぼった少女が、どうにかのどの奥から引っ張り上げてきた、といった感じの弱々しい呼びかけ。

 それでもその声は、僕の止まっていた思考を揺り動かすには、充分な働きをした。


 小さな歯車の挙動が、やがては機械全体を動かすかのように――。

 少女のか細い声が、停止していた僕を再び動かしはじめる。


 椅子に座ったまま僕は顔を上げた。

 そして、湿った両目でぼんやりとキーナを見つめる。


「えっ……栄町さん?」


 僕は戸惑い、まばたきを繰り返した。

 そのときになって僕はようやく、彼女の存在をぼんやりとではなく、ちゃんと認識したのだ。


 キーナはそんな僕と目が合うと、こくりとうなずき話を続ける。


「印場くん、昨日はごめんなさい……。あの、これから少しお話できませんか?」


 容疑者二人の接触に周囲のクラスメイトたちが、ざわつきはじめた。


 ギョロリと集まる生徒たちの視線。

 僕たち二人の耳に、ひそひそと届くささやき声。

 それらはもちろん好意的なものではない。


 キーナは教室のそんな空気をいち早く察したのか、慌ててこう言った。


「と、とにかく、印場くん。廊下に移動しましょう」


 言い終えると彼女は、返事も待たずに僕の腕を引っ張り上げる。

 少女の手によって、なかば無理矢理立たされる僕。

 椅子がガタリと大きな音を響かせると、周囲が一瞬静まり返った。


 キーナのやや強引な振る舞い。

 それに僕は、「えっ……」と声を漏らして驚く。

 だが、そのときの僕は、頭がまだまだぼんやりとしており、状況がイマイチ把握できていなかった。


 キーナの方は、自分の大胆な行動が恥ずかしくなったのだろうか、薄っすらと頬を赤らめていた。

 こんな手荒なことを本当はしたくはない。そんなふうに言いたげな彼女のその表情を、僕はよく覚えている。


 しかしそれでもキーナは、僕の腕をつかむ手を少しもゆるめなかった。

 今は恥ずかしがっている場合でもないよね――と自分に言い聞かせているかのように、キーナは眉間みけんに、ぐっとシワを寄せ、そして僕に向かってこう言い放つ。


「さあ、行きますよ、印場くん。私に、ついてきてください」


 つかんだ僕の腕をぐいぐいと引っ張りながら、キーナは教室から抜け出したのだった。




 男の腕を引っ張りながら廊下を連れ歩く。

 そんなことは、キーナにとってはじめての経験だったらしい。

 しかも相手の僕は、当時のキーナにとっては、あまりよく知らないクラスメイトの男子である。


 後から聞いた話なのだが、このときのキーナは、自分らしくないその行動に両膝をずっと震わせていたそうだ。

 すごく気恥ずかしくて、顔も耳も熱を帯びていたらしい。


 それでも、『とにかく今は、この放心状態の男の子を私が引っ張っていかなくちゃ』という謎の使命感が、当時のキーナの心を強く支配していたとのことだ。


 思い出してみれば、彼女のそんな気持ちは、確かにその歩き方に充分に表われていたと思う。

 あのときのキーナは、「ふんす」と鼻息を荒げ、前のめりな姿勢で足早に廊下を移動していたのだから。


 そんなわけで僕は、ポニーテールの少女に腕を引っ張られ、捻挫していた右足を少し引きずるように動かし、廊下を必死に歩き続けたのであった。




 やがて僕たち二人は、人気ひとけのない階段の踊り場へとたどりついた。

 誰の邪魔も入りそうにないその場所。

 キーナは、ほっとしたのか緊張をゆるめる。


 こわばっていた彼女の全身から、いくらか力が抜けていくのが僕にもわかった。

 つり上がっていた両目は落ち着きを取り戻し、眉間に寄り集まっていた小さなシワたちは、その役目を終えて解散しはじめていた。


 僕はひたいにうっすらと汗をにじませながら、ポニーテールの少女に向かってこう言った。


「あ、あの、栄町さん……。そろそろ、いいんじゃないかな?」

「そうですね。この場所なら、あまり人も来ないようですし……」


 こくりとうなずくと、キーナはその栗色の瞳で僕を見つめる。

 僕は苦笑いを浮かべた。


「い、いや、栄町さん……。それもそうなんだけど、腕の方をそろそろ解放してくれてもいいんじゃないかな……ってことなんだけどね……」


 僕がそう口にすると、キーナは一瞬きょとんとする。

 ――が。

 すぐに彼女は、僕の腕をいつまでもぎゅっと握りしめていることに気がついたようで、


「ご、ご、ごめんなさいっ!」


 と慌てて手を放した。


 よっぽど恥ずかしかったのか、キーナはその頬を紅潮こうちょうさせ、耳元まで赤くしながら僕に深々と頭を下げる。

 彼女の両肩とポニーテールが、静かに震えていた。


 恥ずかしがる彼女を前に、僕はどう反応すればいいのか、咄嗟とっさに判断できなかった。

 困ってしまい自身の後頭部をポリポリと掻く。


 そのときの僕なのだが、落ち込んだ気分からは、いくらか回復していた。それもすべて、目の前で深々と頭を下げている少女のおかげである。

 そのことは疑いようがなかった。


 その少し前まで、キーナに腕を引っ張られていた僕。

 最初は、何がなんだかわからないまま、彼女に連れられて廊下を歩いていた。


 しかし、自分が女の子に腕を引かれていることを徐々に理解していくと……。

 僕は顔を火照ほてらせる。


 そしてその後――。

 ポニーテールを揺らしながら鼻息を「ふんふん」鳴らし、ひたすら勢いよく前進し続けるキーナの姿を、後ろから眺め続けているうちに……。


 僕はなぜだかだんだんと、可愛らしくて元気な中型犬でも散歩させているかのような気分になっていった。


 僕のすぐ目の前で、束ねた黒髪を尻尾のように弾ませる少女。

 散歩中の犬がリードをぐいぐいと引っ張るかのように、僕の腕をぐいぐいと引っ張ってくる。


 それがなんだか妙におかしくて――。

 僕はキーナに連れられて廊下を歩くうちに、徐々に元気になっていったのだった。


 そんなわけで少し気分を回復させた僕は、「こほん」と軽く咳払いをしてから、彼女に言った。


「栄町さん、とにかくありがとう。あんな教室から僕を連れ出してくれて」


 続いて僕は、微笑もうとする。

 だが――。

 感謝の気持ちは本物なのだが、笑顔が上手く浮かべられない。

 僕の精神状態が、平常時からはまだまだほど遠いということを、そのことが物語っていた。


 一方で、頭を上げたキーナも、やはりその顔にぎこちない笑みを浮かべていた。

 僕たち二人は少しの間、無言で見つめ合う。


 すると突然――。


「っ……」


 僕の右足に痛みが走った。


「だ、大丈夫ですか!?」


 キーナはその栗色の瞳で、心配そうに僕の右足を見つめる。


「あははっ……い、いや、ちょっと右足を捻挫しているから、あのスピードで歩くのは少しだけ辛かったかな」


 僕がそう言ったのを耳にすると、キーナは「あっ……」と小さな声を発した。

 それから彼女は、泣き出しそうな顏で再び頭を下げる。

 僕の痛めた右足をまったく配慮していなかったことを、キーナは負い目に感じてしまったのだろう。


「印場くん、ごめんなさいっ! 私……とにかく教室から逃げ出すことに夢中で……印場くんの右足のことを……」

「い、いや……別に栄町さんを責めるつもりはなかったんだ」


 余計なことを口にしたな、と僕は後悔した。

 彼女に気をつかわせないためにも、黙って我慢していればよかったと思った。

 だが、一度口からこぼれ落ちた言葉は当然、元には戻らない。


 それで、せめて話題を変えようと、僕は彼女に質問を投げた。


「それで、栄町さん。僕たち、こんな所に来て、いったい……?」


 するとキーナは頭を上げて、小さくうなずく。


「ここならきっと邪魔も入らないので――」


 そう口にすると彼女は、前日の盗難事件のことを順を追って、僕に説明しはじめたのだった。

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