030 『ほど温かい漆黒の雫の集合体』
銀髪の少女が、目の前のメニュー表と再び向き合うと、僕の方は視線を窓際の席へと移動させた。
先ほど訪れた怪しげなお客さんに、また注意を向けたのである。
アルバイトの女戦士は桃色髪を揺らしながら、にこやかな様子で接客を続けていた。
身につけている斧と鎧が、カチャカチャと
「じゃあ、お兄ちゃん。注文が決まったら、わたしを呼んでね!」
その声を耳にして、僕は顔を
どうしてあの人は『中二病喫茶』と『妹喫茶』を間違えたまま、前に進み続けているのだろうか……。
僕は、「はあ……」と、大きなため息をつく。
おいおい……。
金城さんはこのまま、斧と鎧を身につけた『妹キャラ』として、やっていくつもりなのか?
後戻りは出来んのか? お客さんもお客さんで、何か言わないのか?
誰か
そんな僕の心の声など知らずに、異世界からやってきた女戦士(妹系)は、メニュー表と特殊なメガネをテーブルに残し、お客さんの前から去っていった。
やがて怪しげなお客さんは、身につけていたスプリングコートを、するすると脱ぎはじめる。
すんなりコートを脱ぐということは、どうやら『何がなんでも全身を隠していたい』というわけでもなさそうだ。
そのことがわかって、僕は少しほっとした。
てっきり、コートの下にダイナマイト的な爆発物でも隠し持っているのでは、と
しかし、コートを脱ぎ終えたお客さんの姿を目にして、僕は別の事実に驚いた。
スプリングコートの下から姿を現したもの――。
それは、細身のズボンとセーター。
セーターは身体のラインや胸の膨らみなんかが、しっかりとわかる薄手のものだった。
――胸の膨らみ……だと!?
僕は自分の目を、両手でゴシゴシと
えっと……。
胸が膨らんでいる……よな?
あれ!? あの怪しげなお客さん、女の人なのか!?
心の中でそうつぶやきながら、僕は首をかしげて困惑する。
怪しげなお客さんを僕はずっと、男だと勝手に思い込んでいたのだ。
相変わらずニット帽とマスクを身につけたままで、顔はわからない。だが、どうやらその身体つきを見る限り、お客さんは女性のようだった。
来店当初からそのセーター姿であったら、彼女を男と間違えることもなかっただろう。
帽子とマスクで顔を隠していたこと。
コートに覆われ、身体つきが
そして、金城さんが接客中に「お兄ちゃん」と連発していたせいで、僕はお客さんを男だと思い込んでしまったのである。
きっと金城さんも、お客さんを男だと思い込んで接客をしていたのではないだろうか。
僕は苦笑いを浮かべる。
金城さんよ……。
本当は『お兄ちゃん』ではなく『お姉ちゃん』と言うべきだったみたいだぜ……。
いやいや……そもそもここは妹喫茶ではないのだから、お兄ちゃんやお姉ちゃんと呼ぶ必要はないんだけどな……。
心の中で僕がそんなことをぶつぶつ言っていると、灰音がサイバーなサングラスをかけたまま話しかけてくる。
「冬市郎よ」
「うん?」
「飲み物なのだが、わらわはこの『ほど温かい
言いながら灰音は、メニュー表を指差した。
メガネをかけていない僕は、メニュー表のシークレットメニューを読めないのだが、とりあえず余白部分を眺めてうなずく。
「ああ……『ほど温かい漆黒の雫の集合体』かあ」
「しかし、これはいったいどのような飲み物なのだ?」
ほど温かい漆黒の雫の集合体――それは、この喫茶店のブレンドコーヒーのことだ。
僕は、先ほどのチョコレートアイス『溶けはじめしダークマターの欠片』のときのように、その正体を秘密にしておこうとも思った。
だが、もしも灰音が、コーヒーが苦手な子であったら可哀相だと考え直し、今度の質問には、ちゃんと答えることにする。
「それはブレンドコーヒーなんだけど……灰音はコーヒーを飲めるのか?」
「うむ、心配いらん。二年ほど前に特訓して飲めるようになった」
「えっ……特訓って? コーヒーを飲む特訓?」
「ふむ、そうだ。わらわはすでにコーヒーを
そう口にすると灰音は、自分の大きな胸を右手で、とんっと叩きながら話を続けた。
「今や、ブラックコーヒーでも、どんと来いっ! と、いったところかのぉ。ぬふふっ」
それから「ふふん」と鼻を鳴らし、胸を張る銀髪の少女。
サイバーなメガネをかけており、その表情はわかりにくい。けれど、彼女の得意気な様子は、それでも僕に充分なほど伝わってきた。
僕は後頭部をポリポリ掻きながらこう言う。
「は、灰音さあ……無理して、コーヒーを飲まなくてもいいんだよ? 他の飲み物もあるんだからさぁ……」
「むっ? 冬市郎よ……おぬし、ひょっとしてわらわのことを、コーヒーも飲めないお子様扱いするつもりか?」
「いやいや、そういうわけじゃないんだけど……」
そう言いながら僕は、手を横に振って否定する。
しかし、灰音は止まらない。
「ふむ、いいだろう。疑うのなら、6リットルでも、7リットルでも、このテーブルにコーヒーを持ってくるがよい。わらわのこのお腹が、ちゃぽんちゃぽんになろうが、最後の一滴まで飲み干してみせようぞ!」
「い、いや……正直、そこまで御馳走できるお金はないんで、一杯だけにしてもらえますか?」
灰音は何を意地になっているのだろうか?
彼女が怒りだすポイントが、イマイチつかめない――。
そんなことを思いながら僕は、マッドサイエンティスト大森を呼んだ。
やがて、白衣と長い黒髪を揺らしながらスレンダーな女性が、ゆらゆらとオーダーを取りに来る。
「クククッ……ひとつ間違えれば世界を滅ぼしかねない実験の途中だったが中断して、わざわざオーダーを取りに来てやったぞ」
やって来た狂科学者は、片手で顔を不敵に隠しながらそう口にした。
僕は彼女の芝居には乗っからずに、真顔のまま言う。
「すみません、大森さん。注文をお願いします」
「言ってみたまえ、弟くんよ」
「えっと……『ほど温かい漆黒の雫の集合体』をふたつと『溶けはじめしダークマターの欠片』をひとつ」
オーダーを耳にしながら、こなれた様子で伝票にペンを走らせるマッドサイエンティスト。
それから大森さんは鋭い衣擦れの音を、バサッと響かせながら白衣を無駄にカッコよくひるがえすと、確認のために注文を繰り返す。
「クククッ……特別に、たった一度だけ……お前たちの注文を繰り返してやろう。お望みのものは『ほど温かい漆黒の雫の集合体』をふたつ。それと『溶けはじめしダークマターの欠片』をひとつだな?」
「はい」
僕がうなずくと、マッドサイエンティスト大森はニタニタと笑う。
「クククッ……バカめ。こんなものを頼んで
「大丈夫です。僕たちは後悔などしませんから」
今度は彼女の芝居に乗っかって、僕はキリっとした表情でそう答えた。
「そうか。ふっ……まだ若いな……」
そう口にするとマッドサイエンティストは黒髪を、さっとかき上げる。
消毒液の匂いが周囲に散った。
それから大森さんは、僕に顔を近づけるとこう尋ねてくる。
「クククッ……ところで『溶けはじめしダークマターの欠片』なのだが、飲み物といっしょに出してもいいのか?」
「ああ、はい。いっしょに持ってきてください」
僕がそう答えると、大森さんは再び、片手で顔を不敵に覆う。
「クククッ……お二人の実験への協力に感謝しよう。開発段階の『ほど温かい漆黒の雫の集合体』を口にして生き残った者は、これまで一人もいない……すぐに持ってきてやるからそれまで二人で、せいぜい最後の時間を楽しむことだな。クククッ……」
そしてオーダーを取り終えた狂科学者は、白衣と黒髪を
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