025 『悪魔文字』と『漆黒龍皇』
不満げに口をとがらせながら、姉は話を続ける。
「冬市郎。あんた、いったいどういうつもり? 突然、自分の恋人を家に連れてきて」
「えっ?」
「これって、恋人のいない寂しい私への当て付け? お姉ちゃん、そんなにあんたを怒らせるようなことした?」
「はっ?」
と、僕が戸惑っていると姉の方は、さらに口をとがらせる。
「何? あんた、この子と結婚でもすんの?」
「け、結婚!?」
「違うの?」
小首をかしげる姉に僕は、ぐぐぐっと顔を近づける。
それから、灰音に聞こえないよう小声でぶつぶつ言う。
「……バカ姉ちゃん。違うに決まっているだろ? 僕はまだ結婚出来る歳じゃないし。それに、そもそも灰音は恋人じゃないからなっ!」
「じゃあなんで、連れて来たのよ?」
姉のその言葉を耳にして、僕はぐったりとうつむく。
それから、ため息をついて言った。
「はあ……。姉ちゃんさあ。ついこの間あんな話をして、こうして女の子を連れてきたら、だいたい察しがつくだろ?」
「えっ、あんな話って……何よ?」
姉は心底不思議そうに首をかしげた。
本当に思い当たることがない――といった態度である。
そんな様子に僕は、「マジか、この人……」と、つぶやいて頭を抱えた。
それから僕は、背後にいる灰音に一度、チラリと視線を向ける。
銀髪の少女は無言で、僕と姉の様子をぼんやりと眺めながら、大人しく
灰音をほったらかしにしているのも申し訳ない。
だが、まずはバカな姉をなんとかしなくてはいけないだろう。
僕は姉の耳元に口を近づけると、こう言った。
「……ほら、姉ちゃんが『本物の中二病の女の子を連れてこい』って言い出したんだろ?」
姉は、両手をパンっと打ち鳴らす。
巻き髪が踊り、巨乳が弾む。なぜか入り口のコウモリの赤い目が、ひっそりと光る。機械が壊れているのだ。
だが光が地味すぎて、僕以外は誰も気がついていないだろう。
「ああっ! 言った! 確かに私、言ったわ……」
そして姉は「あはは」と声を出して笑う。
反省している様子はない。
「あははっ! じゃねえよっ! ……おいおい、弟が苦労して連れて来たってのに、まさか忘れていたのか? 真面目に中二病の女の子を探してきた僕が、バカみたいじゃないかっ!」
眉間にシワを寄せながら、僕は自身の前髪をかき上げる。それから、先ほどの姉と同じように口を思いっきりとがらせた。
「なあ、姉ちゃん。とにかく僕たち、ひと息つきたいんだけど……」
「その辺の席に、適当に座ってもいいわよ?」
「お客さんは?」
姉は包帯の巻かれた左手で、不敵に顔を覆う。
「今はゼロ……。まだ、今はな……クククッ」
「そっか……。お客さん、ゼロか」
僕は店内をぐるりと見渡す。
確かにお客さんは一人もいなかった。まあ、すっかり見慣れた光景である。
この喫茶店の立地だが、それなりに交通量の多い県道に面していた。だから、条件は悪くない方だと思う。
ただしそれは、普通の喫茶店であったらの話……。
『中二病喫茶』などという、こんな変化球のような喫茶店を
僕は姉との話を切り上げると、灰音に声をかける。
「灰音、お待たせしてすまない。とりあえず座ろうか」
「うむ」
少女は銀髪のおかっぱ頭を揺らしながらうなずく。
ほとんど声を出すこともなく、彼女はなんだか大人しかった。
だが、口元は少し緩んでいる。
僕の気のせいでなければ、どことなく楽しげな様子だった。
「灰音、どこか座りたい席はある?」
「うーむ……。あの魔法陣の中心にある席がいいかのぉ」
店内の床には、姉の手によって描かれた珍妙な魔法陣がいくつか存在している。灰音はその中のひとつを指差したのだ。
僕はうなずくと、灰音を連れて魔法陣の中心に設置されたテーブルへと向かった。
床でキラキラ輝く魔法陣。
そして、その
美冬式悪魔文字とは、『なんとなく悪魔的な感じがするそれっぽい文字』のことだ。
わざとカクカク書いてみたり、震わせた手でギザギザ書いてみたり。
そして時には利き手とは逆の左手で書いてみたりと、彼女が試行錯誤しながらこの世界に独自に生み出した文字である。
しかし、その悪魔文字を理解できる者はこの世に一人もいない。
業者に支払うお金を惜しんだ姉・美冬が自ら筆を持ち、店の床と対峙した時に、その場のノリでなんとなく考え出された文字群であり、すべて彼女のインスピレーションによって書かれたものだからである。
その文字たちには規則性などはなく、書いた本人でさえ、いったい何がそこに記されているのか、まったく読み取ることが出来なかった。
その昔、開店準備を進めていた当時。
店の床に魔法陣を描き終えた姉は、
「……私、自分で書いた文字が読めないの。冬市郎、これ何て書いてあるの?」
「知らねえよ……」
ずっと作業を手伝っていた僕は、姉の発言のあまりの恐ろしさに、ごくりと唾を飲み込んだものだ。
「それで、姉ちゃん。その自分で書いた魔法陣の文字を読みたいのかよ?」
「いや、別に」
「じゃあ、いいじゃねえか」
「うん」
解読できる人間は、この世界に
それが『美冬式悪魔文字』である。
そんな魔法陣の中心に設置された四人席。
僕と灰音は、テーブルを挟んで向かい合わせに座った。
店内にいくつかある魔法陣だが、実はそれぞれに独自の設定がある。
たとえば今現在、僕たちの足下にある魔法陣――。
これは、
『
という凶悪な邪龍を呼び出せる魔法陣――という設定のものだった。
もちろん、その設定も僕の姉・美冬が考え出したものである。
しかし、中二病喫茶の開店当初には確かに存在していたその設定も、やがて時間の経過と共に忘れ去られ、今では僕しか覚えていないだろう。
設定した姉本人でさえ、まったく覚えていない様子だった。
そしてこの先、僕がその設定をわざわざ誰かに話すことはないと思う。
だから、この魔法陣の設定は完全になかったことになっている――そう言い切ってしまってもよいのだ。
そして、
『漆黒龍皇ニーズヘッグ173世は、己が即位するために父親である漆黒龍皇ニーズヘッグ172世を毒殺し、その罪をすべてお人好しで小太りな叔父の邪龍(独身)に被せた。173世は、幼い頃はその叔父邪龍に実の息子のように可愛がられ、よく飴玉なんかを買ってもらっていたにもかかわらずだ。そんな叔父邪龍は可愛らしいインコを二羽、一人暮らしの自宅で飼っていた。それなのに、処刑されたこの先、そのインコたちのエサは一体誰がやるのだろうか……』
という、やはり姉が考え出した、ニーズヘッグ173世の邪悪さを象徴するエピソードも、もはや僕しか覚えていない。
姉本人は、綺麗さっぱり忘れているのだった。
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