第3章 中二病喫茶・ブラックエリクサー

023 第3章 中二病喫茶・ブラックエリクサー

 僕がまだ、十歳くらいだった頃――。

 小学校の教室で、ちょっとした出来事があった。


 昼休みの後。

 午後の授業は算数ではじまった。


 授業開始を告げるチャイムが教室に流れる。

 僕は席に着き、他のクラスメイトたちと同じように机の上に教科書を用意し、教師が来るのを待った。


 やがて教室に教師が入ってくる。

 クラス委員の号令に合わせてクラスメイトたちは起立し、いつものように授業開始の挨拶をした。


「礼。着席」


 いつも通りの挨拶。それを終えると子供たちは教卓に視線を集め、教師が話しはじめるのを待つ。

 しかし、教師はいつもとは様子が異なり、ひどく怒っているようだった。

 教室の子供たちに向かって、教師は静かに言葉を放つ。


「誰がやったのだろう、クリップが散らかっていますよ?」


 教師の前にある教卓の上。どうやらそこに、クリップが散乱しているようだった。


 些細ささいなことだ、と僕は思った。

 さっさとクリップを集めて、どこか別の場所に置いておくなり、ポケットに入れるなりすればいいのだ。散乱したクリップの処理の仕方など、世の中には無数に存在するだろう。

 ましてや、自分たちの目の前に立っている教師は、それこそ自分たち以上に処理の方法を知っていそうなものだ。


 しかし、教師はなかなか授業をはじめなかった。

 教卓の上に散らばった銀色に輝く紙留め用ゼムクリップ。教師はそれをひとつだけ指でつまむと、子供たちに見せながら言った。


「誰ですか? いいかげん前に出て来て、教卓の上を片付けなさい」


 沈黙が続いた。


 早く誰か前に出て行けば良いのに……。

 そう思いながら僕は、教室の壁に掛けられた時計を眺めていた。

 赤い秒針がじっくり回るのを目で追いながら、教室のこの重苦しい空気を、誰かがなんとかしてくれるのを待ったのだ。


 クラスメイトの何人かも、同じように時計を眺めていた。

 おそらく一番動きのある赤い秒針は、教室のみんなの注目を集めたことだろう。


 当たり前だが秒針は、注目を集めたところで一向に照れることなく、いつも通り自分の仕事をクールに続ける。

 その間、教師は冷ややかな目で教室の中を見据みすえていた。


「先生は早く授業をはじめたいのだが」


 教師のその言葉に対して、誰も反応しない。

 教室の中は本当に静かだった。


 時々、校庭の方から体育の授業のピーという笛の音が聞こえた。

 だが、その外からの音を別にすれば、教室内の沈黙を破れる存在は教師以外には、もう誰もいないように僕には思えた。


「さあ、教卓の上を片付けなさい。クリップを散らかした人は前に出て来るんだ」


 子供たちは誰ひとりとして前に出て行かなかった。

 教師は再び口を開く。


「簡単なことじゃないか。クリップを片付けることぐらい一年生でも出来るだろ? 君たちは一年生じゃないんだから、もっと簡単に出来る。ほら、前に出て来るんだ。別に恥ずかしいことじゃない」


 教師は一度、子供たちをゆっくりと見渡す。そして、話を続けた。


「先生だって片付けは苦手だ。よく家の中を散らかして奥さんにしかられるんだよ。それでも、自分で散らかしたものぐらいは自分で片付ける。叱られる前に片付けることが出来れば、それはもちろん立派だ。けれど、叱られた後だって片付けることが出来るってのは、それも立派なことなんじゃないかな?」


 誰も反応しなかった。


 続いて教師は口を一文字に結び、少し威圧するかのような雰囲気で子供たちを見据える。

 そして、声のトーンを一段階下げてこう言った。


「……何もね、出来ないことをやらせようとしている訳ではないんだ。クリップを片付けるだけでいいんだよ」


 クリップを片付けるだけでいいんだ。

 教師の言葉を聞いて、僕もそう思った。


 しばらくすると、教卓のすぐ前の席に座っていた女の子が突然立ちあがる。それから彼女は前に出て、クリップを片付けはじめた。


 教師はその女の子に尋ねる。


「君がやったのか?」

「違います。でも、私が片付けます」


 少女はそう答えた。


「駄目だ」教師は女の子の行動を制した。「片付けたクリップを元に戻しなさい。そういうのは良くない。散らかした本人にやらせるんだ」


 少女は片付けるのを止め、教卓の上に再びクリップを散らかした。

 そして、クリップの散らかり具合を出来るだけ元のように再現すると、彼女は自分の席に戻る。


 教室の中に再び沈黙が訪れた。

 時間はゆっくりと過ぎていく。教科書は一度も開かれなかった。


 僕の学年には全部で四つのクラスがあった。

 そして、昼休みにお互いのクラスを自由に行き来ぐらいするのだが……。


 さて――。

 もし違うクラスの人間がこのクラスに来て、クリップを散らかし片付けずにそのまま自分のクラスに帰っていたとしたら?


 今このクラスで、クリップを片付けられる人間は誰もいない。


 別に違うクラスとは限らない――。

 もしこの場に、クリップを散らかした人間がいなかったとしたら?


 当時の僕は、そのときこう思った。


 僕たちはいったい何をやっているのだろう?

 何を待っているのだろうか?


 他のクラスメイトたちは今、いったい何を考えている?

 教師はいつまでこんなことを続けるつもりなのだろうか?

 クリップを片付ける資格がある人間が、この教室に本当にいるのだろうか?

 クリップを散らかした人間が、この教室にいるという根拠こんきょはどこにある?


 教師が口を開いた。


「先生はとても残念です」


 だが、教室の子供たちは黙ったままだ。


「誰かがクリップを片付けないおかげで、クラスの全員が迷惑してしまいました。クリップを散らかした人も、まさかこんなことで他の人に迷惑をかけるとは思わなかったでしょう。結局、誰がやったのかはわかりません。ですが、本人もきっと反省しているでしょうから、他のみなさんは、その人をどうか許してあげてください」


 やがて授業終了を告げるチャイムが流れた。


「本当に残念です」


 教師はそう口にすると、一度だけとても深いため息をつく。

 それから、教卓の上のクリップを集めると、ポケットの中に入れてさっさと教室から出ていった。

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