大切なものは目の前よりももっと近い場所にある-4

「……くさくない?」


 俺が座った横に、桐花はべったりくっつくように座った。

 依子先生に指摘されたのが気になっているんだろう。


「くさく……なくはないけど気にならないよ」


 少しでも横を向けば、桐花の顔のどこかに唇が触れそうなほど近かった。

 多少匂いがきつくても、気にはならなかった。


 もうあと少し、桐花で上書きしたかった。

 俺の唇の下の皮膚を噛みちぎった嗣乃、その傷を唇で噛んだ笹井本かとり。

 そして、許しがたき俺の唇から鼻の下全体をベロベロなめ回した宜野のクソ野郎。


 いわゆるファーストキスは幼稚園で失った。

 あれは当時キス魔と化した嗣乃の馬鹿たれに奪われたからノーカウントか。

 あの件については忘れてやろう。

 小さい頃の愚行は蒸し返さないのがマナーってもんだ。


 いや、ちょっと待て。

 ノーカウントにしたら宜野が繰り上がっちゃう! どうしよう!?


「どうしたの?」

「あ、ああ、いや、なんか、疲れたかな」


 変な誤魔化し方になってしまった。

 いちいちそんな風に初めてがどうのなんて考えは止そう。


 とにかく、俺が大事にしたいのは目の前の一人のものだけだ。

 桐花の頭に手を置くと、前髪が眉毛まで隠れてしまった。


「眉毛まで隠れると、いつもの桐花っぽいな」


 眉毛の色はそこまで気にしていなかったからか、黒くなった眉毛まで隠れた桐花は、普段の桐花に見えた。


「そ……それは」

「それは?」

「それは、困るので」


 なんだろう、眉にもコンプレックスがあるのかな。


「そんなに嫌がることないだろ」

「そ、そういうことじゃ、なくて」


 桐花は携帯をいじってから、画面を向けてきた。


「ん? 小さい頃?」


 う……!

 これは嗣乃には見せるにはあまりにも危険な写真だ。

 見慣れた神社の本尊の前、桃色地の着物を着た金髪の女の子が写っていた。

 こんな写真をインスタにでも置いたら、通知で携帯のバッテリーが切れるまで拡散されそうだ。


「……昔、眉毛ない子って言われて」

「眉毛ない?」


 色素が薄い眉毛が、真っ白い肌の色とほぼ同化していた。


「今は、少し色変わったの?」

「小さい頃よりは、肌の色が濃くなったのと、眉毛の色が少しだけ変わったから。でもこれからは黒くするから、大丈夫」


 何が大丈夫なんだ。

 黒髪で過ごそうとする桐花をそのままに良いのか、分からなくなってきた。

 見た目で受けてきた桐花の心の傷は、思った以上に深い。


 自分自身の見た目を周りに合わせたいという思いは、容姿に恵まれていない俺にも分かる。

 だけど、本当にそれで良いのか判断がつかなくなってきた。

 おしゃれ目的なら構わないが、桐花の場合は負い目を隠す目的で黒くし続けようとしている。

 でも、今は本人以外桐花の見た目を否定する人間はいない。


「桐花、やっぱり……髪の毛の色戻さないか?」


 桐花の眼が大きく見開かれた。

 口が小さく動いているが、言葉は出て来なかった。


「なぁ桐花。髪の色戻そうよ」


 もう一度繰り返すと、桐花の目が大きく見開かれた。

 本当は、桐花の要望ならなんでも叶えてやりたいと思う。

 そんなことをしたら、自分の元の姿を否定したがる桐花を肯定することになってしまわないか。


「あ、そうだ。あのさ、俺も顔の見た目悪いからさ、ちゃんと桐花と釣り合うように、整形とかしようと思うんだけど……痛ってぇ!」


 痛いよぉ……的確に肩の噛み跡掴まないでよぉ。


「冗談でもそういうこと言わないで!」


 声でかいよ。

 どうして女子って怒ると滑舌が良くなるんだか。

 でも、負けてられん。


「だったらお前も自分の見た目どうこう言うなよ」


 露骨に目を逸らしやがって。


「あ、ちょっと! 肩痛い! 離して! お願い!」


 桐花の手が離れる。

 いつも思うけど、なんて握力だ。


「……さっきと言ってることが違う」


 そうだよ。

 ついさっき、一緒にお母様に交渉してやるみたいなことを言ったよ。

 確かに言ったよ。


「そうだよ。でも、そっちの方がいいと思ったんだよ」

「安佐……つ、つき……あ、あなたの好きな髪色が、いいの!」

「ふへ!?」


 なんだよ『あなた』って。

 新婚か!

 天にも昇る思い……いや、昇るな! 地に足をつけろ!


「その、ほら、本物の金髪の日本人なんて、ほら、特別感あるだろ」

「お母さんみたいなこと言わないで!」


 だから声でかいよ。

 あの優しいお母さんが桐花の黒髪をやめさせたのは多分、桐花に自分自身の見た目を否定して欲しくなかったからだ。

 自分の境遇に娘を巻き込んでおいて何を言っているんだとも思ってしまうが。


「なぁ桐花、ずっと染め続けるのか? これからずっと?」


 はっきりと頷かれた。

 もっと迷ってよ。


「あ、あのさ、」


 なんだか口がうまく動かない。

 今から歯が浮いて浮いて浮きまくることを言おうとしているからだ。


 宜野の黒髪が不自然という言い分を肯定している訳じゃない。

 あいつは分かっていなかった。


 そんな軽いことじゃなかったんだ、桐花の黒髪へのこだわりは。

 完全な自己否定だったんだ。


「あの、クリスティニア」


 びくっと、桐花の体が跳ねた。


「なんで、そんな呼び方?」

「そんな呼び方って、本当の名前だろ」

「……でも、しないで」


 桐花の声は少し怒気と悲しみを孕んでいた。

 でも、怯んでいられない。


「俺、クリスティニアのこと、す、すっごく、あの、好きだから、あの、いつも一緒にいる関係になりたいんだけど、駄目、かな?」


 桐花の眉間のしわが寄っていた。

 ぐっと歯を食いしばって、俺の仕打ちに耐えていた。


 黙っていれば、こうして怒らせることもなかった。

 でも、コンプレックスの塊が服を着て歩いている俺達二人にとっては必要なことだ。


「クリスティニア」


 なんとなく、もう一度言ってしまう。

 名前が付けられた理由はどうあれ、俺が、俺達考えた名前よりはずっと良い名前だ。

 だって、俺が大切にしたい子の本当の名前なんだし。


「その、将来、ファッションのためになら、髪の色変えてもいいと思うんだけど、で、でも、今のお前の黒くしたいって気持ちはさ、俺がよーみたいになりたいってのと一緒だろ?」


 嫌われるかもしれない。

 それが怖くて、呼吸がし辛くなってきた。


「髪の毛黒くして、名前を日本人っぽくして……本来のお前を、完全に否定したいんだろ」


 でも、俺の口は止まらなかった。

 俺はきっと、この女の子が本当に好きなんだ。

 だから尚更『桐花』が『クリスティニア』を否定するのが嫌なんだ。


「えと、あ……あう」

「な、泣かないで」


 なんでだろう。

 涙が止まらない。

 なのに、次の言葉を出そうにも口が動かないのが情けない。


 桐花の腕が俺の首に回る。


「……ゴホ!」


 耳にかけられた桐花の咳が、鼓膜に響いた。


「きり……クリスティニア、答えて、もらえると」


 変な告白になってしまった。


「……し、しばらくは、このままに、させて」

「う、うん」

「あ、うん。ええと、でも、紺じゃなくて、黒にしてな」


 桐花が勢い良く頷いた。


「……き、桐花って、呼んで欲しい。あの、な、長いから」

「え? あ、うん」


 なんだか言いくるめられている気もするけど、桐花もなし崩し的にそのままでいようとするずるさは持ち合わせていないはずだ。


 桐花の両肩を抱えて、少しだけ離した。


「ど、どうしたの?」

「俺、趣味変わったかも。金髪で碧眼で、物静かな子がいいなって」


 とっさに変な言葉を吐いてしまった。


「……趣味悪い」

「俺、結構いいこと言ったと思うんだけど」


 何を言っているんだ俺は。

 もっと正直になってしまえば、桐花ならなんでもいい。

 こんな気持を口にすることはできない。

 見た目の改善に精一杯力を注ぐ相手に失礼だ。


「し、趣味悪いのは一緒だろ? 俺の見た目はどうなんだよ? 俺のこと、見た目じゃ好きにならなかっただろ?」


 あ、また少し怒ってる。


「俺だって思うよ。もしよーみたいな見た目だったら、もっと好きになってもらえるかなとか」


 俺は自分が好きではない。

 見た目も性格も、全部好きになれない。

 そしてまだ、陽太郎に届かぬ憧れを抱いている。

 この見た目のままで好んでくれた人物が目の前にいるのに、どうして俺は変わらないんだ。


「……ならないで」

「な、なに?」


 碧眼がより一層怒りに燃えていた。

 物静かだけど、直情的なのも桐花だ。


「瀞井君にならないで!」


 息が詰まった。

 思わず桐花の体を抱きしめてしまった。


 今少しだけ、見目麗しい従兄の呪縛から逃れられた気がした。

 陽太郎へのライバル心はやはり、俺の中にしっかり根を張っていたんだ。


 ずっと一緒にいて、ずっと比較されてきた。

 陽太郎の添え物が俺の立場だった。

 だから添え物なりに陽太郎が生きやすいように考え続けて、実行できることは実行してきた。

 陽太郎と嗣乃がうまく行って欲しいと思うのも、その一環だった。


 嗣乃のことは間違いなく好きだった。

 ずっと前から、陽太郎が嗣乃を思っているくらい。

 陽太郎は俺からそんな気持を感じ取って、迷ってしまったのかもしれない。

 でも、俺の嗣乃への思いは陽太郎への対抗心も含まれていたと思う。


 俺の行動原理は全部、陽太郎と嗣乃だった。

 でも、桐花は俺を見据えてくれていた。


「い……痛い!」

「あ! わ、ごめん!」


 桐花の顔はかなり紅くなっていた。

 気がつけば、渾身の力で桐花を抱きしめていた。


「な、なんで我慢してんだよ! く、苦しかっただろ!」

「……だ、大丈夫」


 苦しそうに呼吸する桐花の背中を軽く叩く。


「ほ、ほんとに、ごめん……! よ、陽太郎に、なんて、」


 少しずつ、別の感覚が芽生えてきたことにも気づいた。

 この感覚は何だろう。


 桐花に多くを求めたくなってしまう欲望のような、自分がこんなに信用されることに付いていけないような。


「……な、なれないから」


 苦しそうな表情を浮かべながら、桐花が俺を睨みつけた。

 未練があるような言い方が気に食わなかったらしい。


「ごめん、な、ならないから」


 やっと桐花の視線が柔らかくなった。

 桐花の呼吸はまだ荒かった。


「ご、ごめん、ほんとにごめん」


 なんで我慢したんだよ。

 絶対痛かっただろう。


「い、今の……嗣乃に、したこと、ある?」

「今の? あ、いや、あんなに強くしたことなら、ないけど」


 思わず力が入ってしまったなんて、初めてだ。


「なら、いい」

「い、いちいち嗣乃に対抗心燃やすなよ」

「……いちいち、瀞井君に対抗心燃やさないで」


 返す言葉もない。

 なんだか、桐花と俺は本当に似た者同士だ。

 コンプレックスの塊で、妙な対抗心を燃やして。


 俺が嗣乃に未練を残しているように見えるのかもしれないけど、本当にもうないよ。

 それは、胸を張って言えるよ。


「ど、どうした?」


 また桐花に穴が開くほど見詰められていた。

 夢から覚めて、やっぱり俺じゃなかったと言われたらどうしよう。


 桐花の舌が唇の間から少しだけはみ出てから、収まった。

 少し湿った桐花の唇が、俺の唇に当たった。


 こんな慰められ方、情けないな。

 そしてやっぱり、こんなことをするものじゃないと思ってしまう。

 唇が離れると、寂しくてたまらなくなってしまう。


「……どうしたの?」


 こんな気持ちを素直に告白しても良いのか分からない。

 だけど、早く慣れないと。


 もう痛みで寂しさを紛らわすなんて、早く卒業しないと。

 桐花を抱きしめ直すと、少しだけ寂しさが減った気がした。


「……咬む方が、いい?」

「え!?」


 なんで分かるんだよ。


「か、咬まなくていい」

「……分かった」


 なんで残念そうな顔をするんだよ。

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