少年と少女、(少しだけ)分かり合う-2
「あれ?」
オレンジに光っていた電気ストーブが消えてしまった。
サーモスタットが働いたらしい。
桐花は少しも動いてはいないから、まだこちらを向いているとは思う。
グラウンドの火は既に消され、グラウンドを照らす水銀灯も消えていた。
「……あの」
「ん?」
何だよ。
俺に対して『あの』なんていう切り出しはいらないのに。
「つ、嗣乃と、瀞井君……ど、どう、なったの?」
話題に困ったような質問だな。
「あぁ、あの二人なら心配いらないよ」
漫画的な台詞を返してしまった。
「……ふ、二人に、色々怒って」
「ああ、うん、聞いた。助かったよ」
桐花の言葉が止まってしまった。
突然助かったと言われてもピンと来ないか。
「あいつら俺の言うことなんて聞いてくれないから、助かったよ」
「大丈夫、なの?」
また良く分からない質問だな。
誰に対しての『大丈夫なの?』なんだ。
「主語が抜けてるぞ。お前があの二人のことについて言ってるなら大丈夫だよ」
「ち、違う。その、あの、大丈夫、なの?」
「だから誰が大丈夫って言いたいんだよ?」
ぼうっとした輪郭にしか見えない桐花が、頷いたように見えた。
そういえば、俺は桐花になんて呼ばれていたっけ?
『安佐手君』なんて呼ばれたことはない。
ましてや『月人』とも、『つっき』も、当然『つっきー』とも。とにかく名前を呼ばれたことなんて、多分一度としてない。
なのに俺は『桐花』と、馴れ馴れしく事実上の下の名前で呼んでいた。
なんだろう、この気分は。
「ど、どうしたの?」
桐花は自分の鞄を漁っていた。
白い灯りが灯った。
やたら強力な自転車用ライトだ。
「え? えと、なにも……」
この場から逃げ出したくなってきた。
そうだよ、今までがおかしかったんだ。
頭を撫でたり顔を拭いたり、不可抗力とはいえ抱きしめてしまったり。
どう考えても一線を越え過ぎていた。
「……怒ってる?」
「へ? いや、怒って、ないけど」
「眉間のしわ」
落ち着け。
「え? あぁ、あの、さっき、食べ物、戻しちゃって」
「な、なんで言わないの!?」
声でか!
なんだよ突然。
「い、いや、別に大丈夫だから」
さすがに本当の理由なんて恥ずかしくて言えやしなかった。
「な、何か、飲んだ!?」
「水だけ、一応」
桐花は何を慌てているんだ。
「の、飲み物、取ってくる!」
桐花の腰が浮いた瞬間だった。
「ど、どうして離れるんだよ!」
なんだ?
今の刺々しい声は俺か?
立ち上がってこの場を去ろうとする桐花に対して、どうしてここまで気分が悪くなるのか分からない。
「そ、そんなに俺のこと嫌なら、無理しなくていい!」
落ち着け! そんな言葉ぶつけるな!
「そ、そんなこと、ゲホ!」
「だったらなんで……なんでそんなに遠く……!」
桐花が動かなくなったところで、俺の口はやっと止まった。
俯いたままの桐花は口を小さく動かしながら、何かを唱えているように見えた。
「……だ、だって、近くにいたら、気持ち悪く、なるから」
俺が気持ち悪いか。
なんて、そんな人聞きの悪いことを考えるな。
桐花はこんな発言で人を遠ざけはしない。
いくら考えても、俺の口が臭いからという結論が変わらないが。
でも、桐花のはっきりしないしゃべり方を直してもらいたい。
俺の心臓が持たない。
意地の悪いことをするようだけど、このままだと桐花はどんどん他人に誤解を与え続けてしまう。
「そ、そっか。分かった。気持ち悪いよな。俺がこの部屋出ていくよ」
なんだか卑屈な台詞になってしまった。
「な、なんで……!」
「ゲロ臭いって拒否されたからに決まってるだろ」
「ち、違う!」
「だったらなんで近寄ってもくれないんだよ!」
俺、声でか!
「だ、だって、さっき、臭いって!」
「は? 俺の息がくせえって言ったんだよ!」
あぁ、結構気分がささくれ立ってるな。
『は?』なんて付けるのは威圧になりかねないから言わないようにしてるのに。
桐花の方を向くと、目を丸くしていた。
やっぱり誤解か。
でも、誤解させ過ぎだよ。
「な、なぁ、桐花、お前、自分のこといつもなんて呼んでる?」
「……ど、どういう、意味?」
「いや、みんなと会話してる時の、一人称」
「……え、えと……」
桐花の一人称を一度として聞いたことがなかった。
それが誤解を招く原因になっているのに気付いてくれ。
「あ、あと、俺のこともなんでも良いから呼んでくれよ。普段嗣乃達と会話してる時に俺のこと、なんて呼んでるんだ?」
うわぁ、すげぇ恥ずかしいこと言ってる。呼び方の強要って。
「安佐手……君?」
まぁ、そりゃそうか。
俺は今更『桐花』という呼び方を変えづらいな。
「そしたら、さっきの言葉をもう一度、考え直して言ってみろよ」
あーあ。
また説教しちゃってるよ。
俺はちょっとだけでも良いから、桐花の特別になりたいんだろうな。
桐花が誤解を招く表現をしたところで、ちゃんと聞き直せる心の余裕は持っておきたかった。
桐花は唇を動かしながら、何かをずっと唱えているようだ。
「……わ、私がくさいから、安佐手君が、気持ち悪くなる」
それ以前に、桐花の言葉がまるで理解できない。
「桐花がくさい?」
「か、髪の毛の匂い……しない?」
何を言っているんだ?
恐る恐る近寄り、桐花の頭に鼻を近付けてみる。
「う……!」
意味が分かった。
確かに、鼻を突く匂いがする。
「へ、ヘアカラーの匂いを言ってたの?」
「だって、毛布かけたら、くさいって言うから!」
毛布に匂いがついてたと思ったのか。
「ま、また、色々抜けてるから言い直してみてよ」
「安佐手君に、毛布かけたら、臭いっていうから、毛布にこの、匂いがついてたと思って」
「いや、だったらミント取ってくれなんて言わないだろ」
桐花が目がまた見開かれた。
ピンときたらしい。
「あ、あのな、あの、ヘアカラーの匂いなら母上で慣れてるから……はぁ、も、もう」
本当は大嫌いな匂いだけど。
でも、桐花からする匂いというだけで耐えられるのはどうしてなんだろう。
「……安佐手君、ミント臭い」
俺はヘアカラー臭いよ。
口には出さないけど。
「こ、この傷、かなりえぐれてる」
「え? い、痛いよ」
俺の下唇の端にできた傷に触られた。
「閉じて……口、閉じて」
わざわざ言い直すところは可愛いな。
「え!? 洗顔シートは駄目だって! 痛いって! にがっ! なんで顔全体拭くんだよ!」
「宜野のツバついてる!」
声がでかいって。
あのシーン見てたのかよ。
「この怪我、宜野が咬んだの?」
「え? いや、違うよ」
桐花の眼光が鋭くなった。
「……嗣乃」
勘付かれたか。
「か、咬み癖が出たんだよ」
「……これは、やりすぎ」
桐花が自分のショルダーバッグを漁り、小さな救急キットの中からプラ製のピンセットを取り出した。
相変わらず女子高生らしからぬ鞄の中身だ。
「え? 何?」
「
桐花の真面目な目に、何も言えなかった。
洗顔シートで拭いたのは宜野の涎を拭くためだけだったのかよ。
「痛ってぇ!」
「我慢して」
容赦がないな。
「……嗣乃のこと、怒ってる?」
「怒ってないよ。むしろ、この傷残してくれて、ちょっと嬉しいくらい、かも」
俺、本当に気持ち悪い。
なんてことを桐花にぶっちゃけてるんだ。
「……絆創膏、貼らない方がいい?」
「へ? なんで?」
「絆創膏貼ったら、傷が、残らなくなっちゃうかも」
「え? な、なんで俺が密かに思ってること分かるんだよ?」
桐花の目はなぜか優しかった。
変な奴だ。
「……私なら、そうする」
「嗣乃にフラれたみたいな言い方するなよ」
興奮するぞ俺。
俺の性癖を現実に持ち込むぞ?
「瀞井君、嗣乃を独占してるの、ずるいって思う」
本気で少し恨みがましい顔になるなよ。
お互い発想がやばいな。
「よーのこと、好きじゃないのか?」
「瀞井君は嗣乃になんでもやらせるところ、好きじゃない」
瀬野川に似た印象を抱いているな。
俺としてはそれで良いんだが。
陽太郎にとって嗣乃は必要だし、その逆も然りという関係性は重要だ。
「桐花って、陽太郎が格好良いとか、付き合いたいとか思わないの?」
桐花は首を左右に振った。
「……格好良すぎて、テレビに出てる人を見てるみたいで」
「そ、そっか。俺も見慣れてるけど、たまにそう思うよ」
俺の顔をじっと見ないで欲しいなぁ。
共通点が目と鼻の数だけなのは分かってるだろうに。
「……か、会長さん」
「へ? 笹井本会長がどうした?」
「すごく、美人なのに」
どうして唐突に会長氏が出てくるんだ。
あの人は美人過ぎるのは確かだ。
外面の良さと内面の黒さを駆使して、本当にこの街というか地域一帯の天下を取ってしまいそうに思えるほどだ。
「きれいな人すぎるから、断ったの?」
「ち、違うよ。というか、あの人は俺をいじめたいだけだよ。本気だったとしても、俺は好きになれないよ」
あの人が必要としているのは『味方』であって『恋人』ではない。
恋愛関係になっても構わないという条件は間違いなく、裏切りを防ぐためだ。
あの笹井本会長には色々言ってやりたかった。
どんなに空っぽで孤独で辛いからって、人間は息吸って水飲んで食い物食って睡眠とれば生きていけてしまう。
自分が何者かになりたいとか生きた証を残したいとか、そんな渇望感に支配されているから辛いんだ。
桐花はじっと俺の顔を見ていた。
陽太郎と比べないでいただきたいなぁ。
「嗣乃も……すごく可愛いから、無理なの?」
「へ? 嗣乃はまぁ、兄妹でないと困るから、かなぁ? 顔は見慣れてるし」
「贅沢」
そんなこと言われてもな。
俺は一応顔面で相手を選ぶ手合じゃないぞ。
俺がそもそも顔面で選ばれる人間じゃないんだ。
「……もう、嗣乃の話はいいだろ」
自分の中の欲望を抑えきれず、桐花の短くなった髪の毛に触れてしまった。
嫌がられないことは、なんとなく分かっていた。
匂いはともかく、サロンでケアされた髪はサラサラだった。
どうして俺は桐花のことになると空回りしてばかりで、心配ばかりしているのか。
なんで委員長なんて地位を承諾したか。
そして、いつも桐花の気を引きたいと思ってしまうのか。
「あ、頭、くさいから」
「どうでもいいよ、そんなこと」
片手では足りない気分に従って、両手で桐花の頭を抱えてしまった。
そのまま引き寄せると、桐花の頭が俺の肩に乗っかった。
何の抵抗もなかった。
桐花の腕が少し動いたと思ったら、目の前が暗くなった。
「え?」
桐花がライトを消してしまった。
ストーブの灯りも消えていた。
桐花の両腕が静かに俺の体に巻かれると、眠気が襲ってきた。
ここに居る限り、桐花は安全に過ごせるという安心感に支配されてしまった。
どうして桐花と居る時だけ、こんな気持ちになってしまうんだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます