219話
もしも愛が形有るモノであるのなら、比べて見るのも一興かしらね。
けれど……比較するには能わない。
例えこの世の愛の全てを束ねても、私の彼への想いには遠く及びはしないのだから。
思えば必然であったのだろう……追い求め続けた真理より一人の男を選んだ女の選択は……理すらも超えて全てに勝る、まさに生涯の恋であったのだろうから。
「まったく……至らぬ妹弟を持つと姉は苦労するわね」
エリーゼの身体から流れる赤き血が、手首を伝い乾いた砂地へと零れ落ちては消えて往く。
乱れる息遣い……伝う冷たい汗と流れ出る血潮の量が、身に受けた刀傷が決して軽くは、浅くは無い事を現すが如く、エリーゼはその場に崩れる様に膝を着く。
どの傷も致命傷には至ってはいない……だが、至ってはいないだけでこのまま放置すればやがては死が訪れるであろう事は、衰弱著しいエリーゼの様子から嫌が応にも見て取れる。
彼の悲しみを一つ消せるなら、私の幸せを一つ捧げましょう……彼が笑ってくれるなら、全ての涙は私と共に。
恋は盲目、とは良く言ったモノだと今更ながらに思わなくも無い。
その過ぎたる願望が街娘の淡い恋心ゆえであったなら、或いは微笑ましい恋物語の詩編として語られるべきモノであったのかも知れない。
しかし……誓い願った者は新たなる理を創造するに足る魔女であった……只それだけの悲劇……いや、喜劇と呼ぶべき代物。
立ち返れど其処に悪意は無く、邪心は無く、在るのは一つの純粋なる愛情。
この物語に悪しき魔女など存在せず、世界を滅ぼす陰謀も悪役たる黒幕なども介在せぬのだ……例え世界の誰もがそれを認めずともエリーゼだけは知っている。
魔女の災厄とは新たなる世への福音である、と。
何故ならばソレは逸話為らざる童話。
争いの世に魂を擦り減らし、絶望の果てに夢を見た幸薄き愛に焦がれた青年と、叡智の泉に身を沈め、悠久の時を彷徨い生きる一人の魔女の……それは本当に細やかな、小さな恋の物語なのだから。
なればこそ……悲恋で終わるのならば構わない……嘆きもしよう、悼みもしよう……しかし愛しき子らの決断を家族として受け入れぬ訳にはいかぬのだから。
だが……この物語を、出逢いを、悲劇で終わらせる事だけは認めない。
あの子らの想いを土足で踏み躙り利用して、全てを押し付け裏切り欺いた……人間という名の獣たちを私は決して許さない。
人間たちがあの子らを災厄と呼ぶのなら、その災禍に寄って滅ぶが良い。
悔い詫びて、許しを乞うて滅び往け。
魔女の災厄は決して終わらない……この私が在る限り。
其処に大儀は無く理不尽で不合理な……ソレは只の私怨であり、其処に賢者として讃え称された魔法士の姿は無く、在るのは愛する家族を奪われ復讐に身を焦がす、一人の魔女の姿であった。
「忌々しい……ですわね」
「主様よ、引き際は違える事無き様に、此処で死んでは意味が無いゆえな」
嘗て救世の騎士が携えた名剣『ダランテ』と銘を同じくする神剣を構える黒衣の従者の言に、アルテイシアは胸元で結ぶ印をそのままに言葉とは裏腹に微笑んで見せる。
対峙せしは人為らざる異形。
上級位危険種……冥府の先導者『ヴァラク』。
人間の死肉を好み、世に疫病を蔓延させたとされる死の王、逸話の怪物の名を持つその姿見は、身の丈にして約一間半……長身である従者ルシウスよりも更に半身高く……だが、人とは明らかに異なる醜悪な形状は、例えて一言……蠅、であろうか。
二足歩行する蠅、と評すには無論語弊がある。
二足で地に立つゆえに本来であれば四脚の触覚は人体の手足に模して……されど余りにも醜悪で奇形なソレは、二指であり、三指であり、焼け爛れたが如く外皮は腐食が進み生じた膿から緑の体液を垂れ流す。
双翅目特有の小さな頭部に離れた眼球は、角膜を通じて差し込む陽光ゆえか、複眼の色を時に血の赤へと濃淡を変え……均整の整わぬ歪な体形ゆえに、なまじ人体を模したかの様な……その悪意の塊に、精神的嫌悪感を抱かぬ者など居ないだろう。
特筆して醜悪なのが背から生える発達した前翅、後翅を埋め尽くす様に浮き上がる大小の……亡者が如きヒトの顔が、複数の顔が翅全体を覆い尽し……翅を重ね揺れる度に羽音為らざる怨讐の呻きを、開かれた眼から流れる黒き血が大気に撒き散らされて周囲を黒霧に塗り潰していく。
生者少なき正門で、動くモノの影は無い。
対峙するヴァラクのみならず、先程より正門から微動だにせぬ他の魔物たちの姿からも、何より満身創痍の様子で膝を着き、逃走すらも覚束ぬのだろうエリーゼに、襲い掛かろうと、危害を加えようとする素振りすら見せぬ魔物たちの行動が、この三竦みの状態を生じさせていると言っても過言では無い。
今だ魔物がエリーゼの制御下に在るならば、その得体の知れぬ魔法ゆえに、エリーゼ・アウストリアの捕縛を一番とするアルテイシアもまた迂闊に行動する事が出来ずにいたのだ。
エレナ・ロゼの身柄を一番に、と口にはしたものの、それはあくまでもエリーゼへの牽制に過ぎず、アルテイシアの真意は別のところにある。
エリーゼの身柄の確保が出来る千載一遇の好機を前に、被検体でしかないエレナ・ロゼへの優先順位など大きく劣ると言っても良い。
アルテイシアが求めるのは不老不死へと至る叡智であり、その術法。
ならば被検体を捕らえて調べるよりも生み出した当人の知識を奪う方がより効率的であり、無駄な時間を浪費せぬと言う意味に置いても合理的であろう、と。
ゆえに転移魔法を封じ、鳥籠へとエリーゼを捕らえた瞬間から、エレナの存在など最早アルテイシアの興味の対象からは外れ、唯一人エリーゼにのみアルテイシアは執着する……この好機を逃す事が出来ぬゆえに、アルテイシアもまたこの場に縛られていたのだ。
ヴァラクの呪いの形、と表現しても語弊はないであろう黒霧は、既に正門周辺を覆い尽し、濃霧が如き深き霧はアルテイシアの視界を大きく狭めたモノとしている。
だが、明らかに、不自然に、アルテイシアを中心として庇う様に立つルシウスの周囲には黒霧は及んではいない。
「安心なさいルシウス、私の『割断』は例え上級位危険種の呪いであろうとも法則の下に断割される……不完全な出来損ないに破られる道理などありませんわ」
「とは言っても……此方も動けぬのでは状況を打破出来ぬ点に置いては変わらんよ」
高位魔法士が扱う魔法障壁とは原理原則を異なるモノとする禁呪『割断』は、現すが如く次元を断割し一切の物理干渉を無効化する……しかし同時に効果範囲の内側からの外部への干渉すらも無効化される為に、習得する労力に見合わぬ扱い方が難しい術法の一つとして知られていた。
だがルシウスの言は、そうした魔法的な意味合いとは少し異なる趣きを持つ。
死者を亡者へと変容させるヴァラクの呪いが生者に対してどのような影響を与えるのかは協会の調査でもはっきりとした答えは出ていない。
目撃例が少なすぎるゆえに比例して情報の精度に欠ける。
いや、例え挙って研究者たちが無害だと主張しようとも、今、目の前の光景を思えばルシウスで無くとも二の足を踏むだろう……ヴァラクの翅の、亡者どもの垂れ流す黒き血が形を変えた黒霧を体内に取り込んで無害です、などと信じろと言う方がどうかしていると言わざるを得ぬのだから。
「あの傷でそう長く意識を保っていられる筈はありませんわ、焦らず根競べと参りましょう」
優美な姿勢を崩さぬアルテイシアに、ルシウスは従者としての長き経験ゆえに隠せぬ愉悦の影を其処に視る。
それは或る意味……無理からぬ事。
魔法士としての大命の一つ足る不老不死の法……それがまさに手に入る瀬戸際ともなれば、その緊張は、掴み取った際の歓喜は、常人の与り知れぬ程であろう。
不老不死……いや厳密に言えば不老、とはエリーゼ・アウストリアの叡智無くしても叶わぬ術法では無い……いや、付加魔法を応用して用いられる延命魔法は、既に十分な若さと寿命を魔法士たちに齎しているとすら言って良い。
ゆえに不老と不死は等価では無いのだ。
魔法の誕生以来、永遠の探求者として語られる三者。
大賢者アグナス・マクスウェル。
賢者エリーゼ・アウストリア。
尊き薔薇カテリーナ・エレアノール。
極限の際者として悠久を生きるとすら称された三者ですらも、現存するのは今や唯一人。
それ程の魔法士たちですらも避けられぬ理があり、事象がある。
即ち『死』そのものが永遠を望み渇望する魔法士たちにとっては忌諱すべき絶対的な恐怖の対象であり、同時に凌駕すべき大命であるのだ。
「嘗ての結社たちが導き出した解……不死へと至る反魂転写の術法……魔物とはその過程で生み出された成れの果て……」
「御黙りなさいエリーゼ!!」
結社から、残された文献から引き継がれ現在の協会に置いて最大の禁忌とされるソレに触れ嘲笑うエリーゼに流石のアルテイシアも思わず顔色を変える。
アウグスト・ベルトリアスの人体実験に端を発した不死への可能性は、愚かなる大陸の覇者たる王へと引き継がれ、結社の協力の下一つの結実を見る。
「不老とは……不死とは手段であり目的とは成り得ぬモノ……無知ゆえにそれを知らず、蒙昧ゆえに看過する……だからお前たちはどこまで行っても井の中の蛙なのよ」
「痴れ事を……わたくしたちは結社の犯した過ちは繰り返しませんわ、人類の為に叡智を求め、我々魔法士こそが正しき理へと人を導く存在なのです……その為の不死……その為の魔法……我らこそがソレを成せる完全なる存在なのですから」
誇るアルテイシアを……エリーゼは。
無知を嗤う。
驕りを嗤う。
愚かさを嗤う。
不老不死を求めたのは時の王……されど結社の魔法士たちが真実求めたのはソノ遥か先……現在の協会とは異なり手段として求めた彼ら結社の在り様は確かに純粋なる探求者であった。
ゆえにこそ。
結果としてベルサリア王国は、結社は、滅び。
ゆえにこそ。
人にとって、魔物と呼ばれる憐れな魂たちにとって、あの子らは救済者であったのだ。
「一つ遊戯をしましょうか」
とエリーゼは嗤う。
「直にこの正門を中心とした一帯は憐れな
「この期に及んで偽りを……今の貴女に何が出来ると言うのですか」
「信じずとも構わないわ、自ずと結末は訪れるのだから、転移の封じを解かねば此処で二人とも死ぬ事になる……けれどそうね、そうなればアルテイシア、貴女の勝ち……おめでとう今の世は変わらずに愚かな獣は生き長らえる……かも知れないわ」
可能性としてね、と重ねてエリーゼは嗤う。
「我が身可愛さに、命惜しさに封じを解いて転移をすれば、それで御終い、貴女の負け……もう二度と絶対に私には手が届かない」
そして醜悪な獣と共に今の世は終焉を迎えるのだ、と。
「人類を導く救済者たらんと欲するならば、持つ者の責任を果たして御覧なさいな……アルテイシア・ミレット」
真意を測りかねるアルテイシアとは対照的にエリーゼの胸の内は驚く程に穏やかであった。
何方でも構わない。
それがエリーゼの偽らざる本心。
この身を焦がす復讐の果て叶わず討たれるのであれば、それはあの子らが希望に見た抗う人の意思というモノなのだろう。
ならばそれは一つの結末としては悪くは無い。
記憶を失っているにも関わらず、自分を討てなかったエレナの甘さに……悲しみの源たるゆえに愛する男の記憶から己の存在の全てを消し去った不器用な愛情に……或るいは少し毒されたのかも知れない、とエリーゼは静かに瞼を閉じる。
これが最後の審判である、と。
これきり、二度とは無い選択を人に委ねる為に。
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