210話

 相対するエレナとエリーゼ。


 渦巻く奔流の、台風の目が如き両者の距離は、近く……そして遠い。


 魔法士が剣士と刃を交えるなど、対等に渡り合おうなど、一般的な常識から考えても余りにも無謀な暴挙と言える。


 しかし……そんな常識など当て嵌まらぬ規格外のモノたちは厳然として世には存在する。


 エレナ・ロゼがその一角とするのならば、魔法士エリーゼ・アウストリアは例えて有史以来の傑物と、別次元の存在と、讃え称される『超越者』である事は疑い様は無い。


 人の歴史を紐解いて、魔法と言う存在を、その原理原則を世に知らしめた大賢者アグナス・マクスウェル……魔法士の始祖、開祖、と讃えられたアグナス亡き後の世で、長き人の歴史の中で、『賢者』を冠する者は唯一人。


 稀代の異端児として知られるエリーゼ・アウストリア唯一人である。




 エレナを中心に死角無き全方位に展開された不可視なる破壊の範囲が、魔法が、齎す破壊と死を撒き散らし爆散する。


 落雷にも似た、しかしそれよりも遥かに広範囲で苛烈な爆発は、エレナの回避可能な限界領域全てを飲み込んで一切を灰燼へと化す。


 爆音が途絶えたエリーゼの視界の先、土埃が舞い散る粉塵の霧の中、生者の存在など許さぬ無の空間が広がりを見せる。


 見つめるエリーゼの眼差しには歓喜は無く狂気も無く……誤認、と謗られて弁解出来ぬとしても……これまでの彼女の言動や狂気を顧みて、酷く場違いな、別人が如く、穏やかな表情が其処からは垣間見える。


 瞬間、刹那の刻、今だ不確かな視界から、霧中から、己へと迫る人影に、有り得ぬ現実を前にエリーゼは目を見開く。


 祖は一刀に在らず、二刀に在らず、一対の神速の刃なり。


 エリーゼの眼前へと迫るエレナから放たれた剣閃は、展開する多重障壁をも断ち切ってエリーゼの首を刎ね飛ばす。


 かに思えた瞬間、重なる両者の残影が、エレナの姿のみを残して掻き消え……己が双剣を一閃させて佇むエレナの流れる視線の遥か先、無から有へと……エリーゼの姿が現出する。


 「魔法を……断ち切る? 物理原則に縛られたそんな原始的な玩具で……」


 首筋から伝わる鈍い痛みに、流れ落ちる赤き滴を拭うその手を血に染めて、エリーゼは己が命に届き得る存在を真っ直ぐに見つめ返す。


 人間に共通した常識が有る様に、一部の高位魔法士たちにもまた彼らなりの普遍的な常識が存在する。


 曰く魔法とは万象に、真理に干渉し事象を歪め、支配する、真理を超える神の御業であるのだ、と。


 曰く魔法とは一切の原則を超越した超常の力であるのだ、と。


 それを信じればこそ、鉄の、或いは鋼の塊でしかない人の道具で、玩具で、魔法を打ち破るなど、破られるなど有り得ぬ……あってはならぬ……魔法士ならばこそ信じ難い現実が眼前に広がっている。


 「エレナ……これこそが貴方が選んだ者の……人の意思ならば……あの貧相な幼子が……脆弱な少年が良く此処まで……本当に強くなったわね」


 エリーゼらしからぬ、と言えるであろう動揺は僅かに一瞬、語るエリーゼの声音は何処か誇らしげで、それは母が子を、姉が弟の功を褒めるが如く、不思議と穏やかなモノであった。


 


 人の記憶とは本人が思う程に確かなモノ、と言えるのだろうか。


 仮に当人が忘れ去っている過去の事象を第三者が観測する事で形成される記憶の断章は、果たして本人の実体験として語られる、或いは信じて良い事実であるのかは、今だ答えが見えぬ命題とも云えようか。



 「坊や……お腹すいてない? お姉さんたちと一緒に来る?」


 「ううん……いかない」


 嘗ては其処に村が在り、人の営みが繰り返されていたであろう廃村で、二人の魔法士の女性は一人の幼子と出逢う。


 美しき妙齢の魔法士たちは顔色一つ変えずに少年と接してはいるが、普通の人間がもしもこの場に居たならば、焼け落ちた家々から燻る特有の異臭と、辺りに無数に散らばった死骸の腐りかけた死臭が充満するこの地獄の中で嘔吐では済まされぬ精神汚染に蝕まれていた事は疑い無い。


 「そう……困ったわね……坊やお名前は?」


 「僕?僕はお前」


 「お前?」


 薄汚い……かなり控えめに表現しても他に適当な例えが思い浮かばぬ幼子の頭を撫でる魔法士の女性は、エリーゼは、言語障害かしら、と始めは疑った程に幼子の言葉の意味を直ぐには理解出来なかった。


 「お前って言うのが君の名前なのね坊や」


 幼子の言をエリーゼよりも先に読み解いたのだろう、もう一人の黒髪の魔法士に幼子は頷いて見せる。


 幼子の歳は見た目で言えば五、六歳。


 その歳に至るまでに名が付けられぬ、与えられぬ、などと言う風習を持つ民族など流石のエリーゼも聞いた事が無い。

 

 ならば恐らくその理由はもっと単純なモノなのだろう、とエリーゼは思う。


 使い捨ての道具にすら名前が在る……何故ならば名、とは名前とは、ソノ存在を定義するモノとして欠く事の出来ぬ重要な要素であるからだ。


 名を持たぬ、と言う事はそれだけで存在せぬも同然と、存在しないモノと同義であるとすら言える。


 幼子が名を持たぬ理由……つまりはそう言う事なのであろう、と。


 「じゃあお前君……ええっ、と面倒ね……ねえ坊や、此処にはもう誰も居ないのよ? このままでは坊やも死んでしまうわよ」


 「うん、僕此処で死んじゃうの、母さんから何時も死んじゃえって言われてたから、僕は此処で死んじゃうんだ」


 と、嬉しそうに笑う幼子をエリーゼは咄嗟に抱きしめる。


 世俗とは距離を置く魔法士であってもこの幼子の歪みの原因は推して知れる。


 戦乱渦巻くこの西域で、人種などという下らぬ要因で殺し合う愚かな人間たちの民族差別の極みであろう問題に。


 この子は、この幼子は忌み子なのだろう、と。


 西域に置いて肌が白色、金髪碧眼はルクセリア人として、優性民族としての証である、と信じられている……ところがこれらの種の特徴は何も純粋な血統のみに遺伝される特質などでは決してないのだ。


 ゆえに数こそ多くは無いものの、他民族間で過去に置いてルクセリア人との間に血の結合が有ろうと無かろうと、遺伝情報として刻まれたこれらの特徴はルクセリア人以外の他民族の中にも因子として存在しているのだ。


 つまりは例え隔世遺伝であったとしても生まれて来る赤子の中には色濃く……より純潔に近いそれらの特徴を持つ者もまた確実に誕生すると言う事を意味している。


 ルクセリア人たちに迫害を、弾圧をされ続けている民族に、この様な赤子が生まれればどうなるかなど、忌まわしき所業など、敢えて語る必要はなかろうが……例えて一言。


 直ぐに殺される赤子はまだ幸せであっただろう。


 死ぬ、という人間にとって根源的な事象の意味すら歪んだ理解しか出来ぬ程に、この幼子が受け続けて来たであろう仕打ちを思えば、戦禍で村が絶え、住民たちが死に絶えて尚、この子だけが生き延びた奇跡は決して皮肉などで無く、寧ろ神が与えた天恵であったのだろう、とエリーゼは思う。


 知らず強く抱きしめてしまうエリーゼに、幼子は豊かな胸元で小さく呻き声を上げる。


 おばさん……苦しいよ、と。


 「ん?」


 ぐぐっ、と満面に笑みを湛えたエリーゼは無意識に……いや、意識的に幼子を抱く両腕に力を籠める。


 「坊や……何て?」


 「ちょっと!! 本当に死んでしまわよ、大人げない」


 エリーゼの胸元で窒息しかけているのだろうか、両腕を苦し気にばたばた、と振っている幼子を慌ててもう一人の魔法士が引き剥がし両腕で抱き抱える。


 「年長者としての威厳を少しは持ちなさい……まったく恥ずかしいわね」


 と、呆れた様な眼差しをエリーゼに向ける魔法士に、幼子は純粋な謝意のつもりなのだろう、感謝の言葉を口にする。


 有難う……おばさん、と。


 「ん?」


 満面の笑顔のままに、今何て?、と幼子に問う魔法士の腕には徐々に力が籠り……今度は魔法士から奪い取る様にエリーゼが幼子を地に降ろす。


 三者三様、無言のままに笑顔で見つめ合う三人は、幼子と大の大人たちは、だがやがて……しかし当然の成り行きとして大人側が折れる事で終わりを、決着を見る。


 「兎に角、どうするのエリーゼ? どちらにしてもこの子……まのままじゃ死ぬわよ」


 この村が何時襲われたのかは定かではないが、かりがりに、と表現するべきか、骨と皮だけの幼子の栄養状態や衛生面を考えても、そう長くは生きられないだろうと言うのは誰の目にも明らかな事実としてあった。


 本来ならば当に死んでいても、或るは動ける体力が尽きて昏倒していてもおかしくは無いであろう幼子が、意外な逞しさを見せている理由の一端が、恐らくは今の村の状況如何に関わらず、生まれ出てからこれまで、そもそもまともな食事など与えられてはいなかったゆえの、極限への耐性ゆえではないのか、と黒髪の魔法士は自分なりに推測を立てていた。


 「結社からの依頼も済んだ事だし、此処で出逢ったのも何かの縁かしらね……であればこの際この子の意思は無視して王都に連れ帰りましょうか」


 即断とは呼べぬ程の時間、エリーゼが問いの答えを保留したのは、彼女自身この幼子に抱く感情が、慈愛や憐れみとは異なるある種の興味や好奇心からであった事は否めない。


 補足するならば、可哀想な捨て犬を飼うのは良いが、果たして飽きずに飼い続けられるのか、と言った程度の責任感ゆえの迷いと言って良い。


 見た目や印象はどうあれ、彼女たちは歴然とした魔法士であり、人の倫理の外側の人間たちであるのだ……そう考えた時、この幼子への対応は例え一時の気紛れであったとしても、魔法士としては恐ろしく寛容で寛大な判断であったと評しても過言には為らぬのかも知れない。


 「そうね……私たちで育てる必要は無いのだし、連れ帰る程度なら手間も掛からないしね」


 黒髪の魔法士の言に、エリーゼも成程、と直ぐに納得する。


 王都セイスラシーズには戦争孤児たちの為の孤児院が幾つか存在する。

 

 無論ルクセリア人の子らしか受け入れぬ慈善と称すには狭量な施設ではあったが、この子の見た目なら問題はないだろう、と黒髪の魔法士は言っているのだ。


 「やだよ……僕いかないよ?」


 「駄目よ坊や、観念しなさい」


 と、黒髪の魔法士はもう一度幼子を片腕で抱き上げる。


 「貴方は私たちの気紛れで生かされるの、それが嫌だと真に願うなら、望むなら、坊やはこれからもっと自立しないとね」


 それが己の我を通し生きると言う事よ、と。


 魔法士の長い艶やかな黒髪が風に靡き、春の花の如き一陣の涼風が幼子の鼻腔を擽る。


 エリーゼを傍らに幼子を片腕に抱いた黒髪の魔法士は、残る右腕を軽く振り払う。


 瞬間、三人を中心に展開された多重複合術式が虚空に複雑な波紋を、魔紋を無数に刻み、瞬時に転移魔法を発現させる。


 才能に恵まれて尚、修練を重ねた高位魔法士が、それでも周到に、精密に『ワース』を織り込んで数週間掛かりで術式を完成させる大魔法である長距離転移魔法を、僅か一呼吸の間に略式ですらなく、手順の全てを除外して発動させるその技量……その力。


 抱かれた幼子にそれは分からずとも、花びらの様に魔紋が周囲を照らし輝く幻想的な光景を前に、純粋な好奇心ゆえであろう、瞳を輝かせる。


 「紹介が遅れたわね、お姉さんの名は」


 と、語尾を強調し黒髪の魔法士は続ける。


 「カテ……ううんカーチャで良いわ……」

 

 と、口に出し掛け、魔法の発動の瞬間、眩い光に包まれるその瞬間、美しき容貌を整った口元を緩め……。


 「私の名はエレナ・ロゼ……忘れないでね坊や」


 と、告げた。


 後に災厄の魔女と呼ばれる事となるカテリーナ・エレアノールの。


 それは或いは些細な悪戯心、深い意味など持たぬ言葉遊び……ゆえにこそ此処が全ての始まりなのでは決してない……だが、とエリーゼは今にして思う。


 少なくとも三人にとってこの出逢いが、この瞬間が、始まりの幸福と終わりの絶望の集約点であり分岐点であったのだと。

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