第136話
「それは真で御座いますかアウ……いえ……導師殿」
支部長の居室に招かれた魔法士……その妖気としか表現しようのない不気味な雰囲気に支部長の男は不安と恐怖……そして齎された情報に目を見開く。
魔法士である彼には探求者……研究者として魔法士特有の一般的な者たちとは異なる精神構造を有してはいたが……しかし同時に協会に所属し、また支部を任されている彼には世俗、と呼ばれる者たちとの交流や触れ合いの場も多く、一般的な道徳や倫理観もまた同時に持ち合わせてもいた。
自分と比べ遥かな高みへと立つこの不気味な魔法士に対して抱く恐怖や不安の源が、その醸し出す雰囲気やこの血塗られた魔法士が行ってきた数々の残虐な行為に起因するごくありふれた道徳観に寄るものである事が、大陸有数の魔法士であろう者との対面の中で抱くのが好奇心や探究心ではなく、恐怖や不安といった負の側面だけである事に気づかされた時、支部長の男は自身の魔法士としての限界をまざまざと悟らされていた。
「いえ……導師殿の御言葉……御助言が偽りであろうなどと思っているのではなく、この様な話、どうロボス様に御伝えすれば良いのか……と」
「協会からの急報とでも申しておけば良かろう」
鷹揚もなく酷く聞き取り難いしわがれた声、淡々と呟くその魔法士の声音には感情の起伏の様なものすら見られない。
魔法士の言はごく真っ当で異論の余地の無いものだ……しかしこれまで何らの連絡もなく途絶状態にあった協会本部から突然この様な重大事の一報が齎されたと説明するには信用性に欠け、あらぬ不審を招くのではないか……そう支部長の男は危惧していたのだ。
ロボスがこの情報を信じねば街の……我々の命運はここで潰えることになる……それ程に重大な情報がこの魔法士から齎されていたのだ。
「導師が御存命であられる事、上層部の方々は御存知であられるのですか?」
「…………」
「導師ほどの方が何故この様な街においでになられたのでしょうか」
「…………」
それは魔法士としての本分ゆえか、矢継ぎ早に疑問を重ねる支部長の男に、だが黒き魔法士は沈黙で答える。
オーランド王国建国の祖アルタイ・クルムド・オーランドの盟友にして稀代の大魔法士アグナス・マクスウェル……有史以来最高の知性と魔法力を持つと言われた大賢者。
そして冠たるその名に届き得る者、その名を継ぎし者、アグナス亡き今、大陸最高の英知を知らしめる存在、賢者エリーゼ・アウストリア。
今自分の目の前に立つ男こそ、そのエリーゼに最も近づきし大魔法士の一人。
忌み名と共に知られるその大魔法士が、下らぬ世俗の……しかもこの小さき土地を巡る戦いなどに何故興味を示したのか……それが最大の謎であり、協会の支部長としてではなく、男の魔法士としての欲求を大いに刺激していた。
「それを知ればそなたの好奇心は満たされようが……その先に待つ運命にまで思いを致らせた上での問いか」
刹那、支部長の男の全身の毛穴から冷たい汗が滲み出す。
陰鬱とした魔法士の声音は変わらぬ……だが色濃く滲み出す妖気にも似た気配の不気味さに支部長の男は己の愚かさを瞬時に後悔する。
「ご……ご無礼を導師殿……どうか浅はかなる身の戯言とお忘れくださいますよう……」
まるでその場の空気が消失したかの様な息苦しさに支部長の男は荒い息を吐き、魔法士の男へと許しを請う……懇願にも似たその響きに黒き魔法士は鷹揚に頷くと、ゆらり、と右腕を支部長の男へと差し伸ばして見せる。
そのローブの袖から僅かに覗く枯れ木のような細腕は焼け爛れ、変色し抉れたた肌の隙間から覗く骨の歪さに、その余りの無残な姿に支部長の男は息を呑む。
「良き判断であるな……だがそうじゃな、これより共に難局を切り抜けてゆかねばならぬ同志として一つ答えてしんぜよう……この街には我が盟友……掛け替えなき友がおるゆえな、むざむざと見殺しには出来まいよ」
アレと直接対峙する事態は避けねばならぬが……さりとて直接干渉してくるとあらば見過ごすことも出来まいよ……甚だ頭の痛き事なれど好きに踊らせる訳にもいくまいて。
ぐぐっ……くくっ……。
踏み潰された蛙の断末魔の悲鳴を思わせる不快な音が部屋に響く。
支部長の男はそれがこの魔法士が発する、漏れ聞こえるそれが愉悦にも似た感情の発露であると気づいた時、更なる戦慄にその身を震わせる。
引き攣った笑みで魔法士を見つめる支部長の男……少なからず友好を示す為に差しの伸べられたであろう魔法士の手を、だがどうしても握り返す気にはなれなかった。
「どうしたんだ、何かあったのなら話してみろよ、リリ」
協会の支部から宿へと戻ったリリアナの、明らかに動揺し落ち着きのない様子を見かねたレオニールがリリアナへと声を掛ける。
宿屋の一階、食堂兼酒場となっているその広間には子弟たちが集まり夕食を取っていた。
間隔を空けて並ぶ長大なテーブルには小隊毎に集まり、食事を楽しむ者、雑談に花を咲かせる者とそれぞれが思い思いに休息時間を満喫している。
小隊の者たちで集まり食事を取るのは決められた行動、という訳ではなかったが、活動の内容により小隊での食事の時間が定まっていなかったことや、やはり魔物との戦闘や活動を通して小隊内に独自の絆が生まれるのは必然であり、親しくなった者たちとより親睦を深めようとする自然な流れが生まれてもおかしな話ではなかったのだ。
現に新密度という点において他の小隊に大きく劣るレオニールたちの小隊もまた、互いに声を掛け合った訳ではなかったが同じテーブルにつき食事を取っていた。
「レオ……」
縋る様にレオニールを見つめるリリアナの瞳には、だが迷いが見られる。
本当に話しても良いのだろうか、と。
自分が目にしたあの魔法士は間違いなく悪しき者に見えた……根拠は希薄ではあったが良き者ではないという確信めいた思いがある。
これがもし国家間の戦時下であったのならばリリアナは迷わず領主邸へと駆け込んだことだろう……しかし今や四大国は不可侵条約のみならず、魔物との戦いにおいて軍事的な同盟関係にある。
人間同士が相争う戦乱の世は災厄という未曾有の惨劇を経て三年近くも前に幕を閉じたのだ。
敵国という概念が消失した今、自身の思いがどうであれ、あの魔法士を敵対者と捉えるのは早計に過ぎ、なんら確証も根拠すらないままに密告にも似た行為を行うことにリリアナは大きな迷いと共に抵抗を感じていたのだ。
「話してみろよ、一人で悩んでいても答えがでなかったんだろう?」
クロイルもやはりリリアナの異変には気づいていたのだろう、聞き耳を立てていた、とは口が裂けても言わぬのだろうが少し離れた席からぽつり、と呟く。
性格も気性も異なる二人から同様の言葉を掛けられリリアナは、自身を納得させるように一度大きく頷くとその意思を固める。
広間の広さや他の小隊の面々との距離を考えても普通の会話程度ならば他の者たちに聞こえなどしないにも関わらず、リリアナを中心にレオニールやクロイル、そして他の小隊の少年たちが身を寄せ合う様に席にと着く。
リリアナは今日、協会の支部であった出来事を自身の感じた感情を含め詳しく皆に話し出す。
リリアナが話し終わるまでレオニールもクロイルも疑問を挟みその話の腰を折るような真似はせず、黙って最後までリリアナの話を聞いていた。
リリアナが話し終え、それそれが思考の内へと思いを巡らせる中、一時の沈黙がリリアナたちの周囲に流れる。
「なるほどな……街の外から来た魔法士か……」
沈黙の中、始めに口を開いたクロイルは意思の強そうな眉根を寄せて思案する。
その魔法士が街の外部の人間……それすらも確かな確証に基づいての話ではない……だがリリアナが其処まで警戒し恐怖を感じるほどの魔法士が協会に所属していたのなら、以前から何らかの噂に上っていてもおかしくなかった筈だ……だがそうした話はクロイルも、此処に居る全ての者が聞いた事もない話であった。
これが旅の者、まして陸路でトルーセンにやって来たというならば、例え協会の関係者であろうとも領主であるロボスやアイシャにそれとなくでも報告をしておいた方が良いであろうとクロイルも思う。
しかし相手が魔法士であるとなると少し話は異なる。
魔法士が扱う魔法とはクロイルに……いや此処にいる全ての者たちに言えたことではあったが、それは未知の技術……技法である。
魔法の一つに魔物に気づかれず陸路を行く術が存在すると言われればクロイルたちにはそれに反論できるほどの魔法に対する造詣はなかったのだ。
それに協会は独立した組織であり、協会に所属する魔法士とは王国の一部たる自分たちとは異なる組織形態に属する者たちであった……自分たちの軽率な行動がロボスやアイシャにとって不利益なものへと繋がっては目も当てられぬし、なによりそれが元で自分たちが叱責の対象になる事だけはどうしても避けねばならない。
「エレナさんに話して見てはどうかな……あの人ならきっと力になってくれる筈」
皆が答えに思案する中、呟かれたレオニールの一言に少年たちがまるで天恵を受けた様に同意を示す。
協会や王国の関係、ロボスと協会支部との関係、確かに傭兵であるエレナならばそうしたしがらみに囚われる事無く動くことも、また彼女なら自分たちに適切な助言を与えてくれるかも知れないと、と少年たちは考えたのだ。
だがレオニールの提案に難色を示す者が二人いた。
「たしかに妙案かも知れないがまだ時期尚早だろう」
発言の冒頭、エレナの表す言葉の部分をあの人に、と言いかけて慌ててアイツに、と言い換えるクロイル。
「私もクロイルの意見に賛成……かな、あの後人払いをされた訳でもないし、考えて見れば密会と呼ぶようなものでもなかったし……協会からロボス様に何らかの報告がされるのか、それを見極めてからでも遅くはないと思うわ」
個人的な意見とすればレオニールに賛同を示していたはずの少年たちも、クロイルとリリアナの二人にそう言われてしまうと反論に詰まってしまう……今は同じ小隊の仲間であっても二人は明らかに格上の家柄の者たちであり、その発言力の強さや影響力は言うまでもないものであったからだ。
そしてそれはレオニールにとっても同じであった。
二人がそう言うのであれば、と自身の案を強く押すこともなくレオニールは引き下がる。
「俺たちの小隊は暫く協会の手伝いに駆り出されるのだから、その魔法士とやらを注意深く観察していくとしよう、それで何か問題が生じた場合はロボス様なり、エレナなりに話を持っていけばいいだろう」
話し合いの結果、彼らが導き出したのは現状維持、様子見という答えの先送り、停滞を選択したとも言える決断……しかしそれが現状間違った判断などと言い切れる者などいよう筈もない。
リリアナはクロイルの意見に賛同を示し、レオニールたちは譲歩を示す形でそれに従う姿勢を見せる。
ふとリリアナが見上げた視線の先、レオニールの困惑を湛えた視線が自分を見つめていることに気づく……だがリリアナは敢えてその視線に気づかぬ風を装う。
レオニールからエレナの名が発せられた瞬間胸に奔った痛み、ずきずきと疼くようなその痛みゆえに、リリアナは自分の判断が冷静な思案の末に導き出された答えだったのか、それとも想い人を巡るエレナへの対抗心ゆえであったのか……本人にも分からなくなっていたのだ。
この時エレナに相談していれば後の結末は確実に異なるものになっていただろう……だがそれはそう選ばなかった選択の一つ……有り得たかも知れぬ未来の可能性に過ぎない。
レオニールたちが選び取った選択の先、その未来に待つ結末がより良きものであったのかをこの時点で知る者はいない。
最善の結末に至る選択肢など神ならざる人の身で、ましてまだ経験の浅き若人たちに伺い知ることなどは不可能であったのだから。
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