第112話

 涼やかな、とは言い難いが、しっとりとした海風にはべた付く程の不快感は左程なく、遮るもののない海上特有の吹き抜けるような風が甲板に立つエレナの長い黒髪を靡かせる。

 正直エレナはこの長い自分の髪は煩わしいと思う事の方が多く、何度か短く切ってしまおうかと考えた事もあったのだがそのつど思い直していた。

 その一番の理由はやはりこの身体がエリーゼからの借り物だという思いが強く、手を加えてしまうことに抵抗があったのだ。

 エリーゼが決して善意だけでこの人形の身体をエレナに提供した訳ではない事を承知していてはいても、だからといって他者の所有物に容易く手を加えてしまう事はどうにも気が進まない。

 生死に関わるような特別な理由があれば話は別ではあるが、長い髪が煩わしい程度の理由だけでこの美しい黒髪を切ってしまうという行為は、妙なところで義理堅いエレナには選ぶのが難しい選択肢であったのだ。


 変わり者ではあるが間違いなく大陸一の魔法士であろうエリーゼが、自身の最高傑作と評すこの少女人形は見た目も機能も人間の身体と寸分違わず、日常の生活において何ら違和感を感じぬ程に人間そのものであった。

 だが長らくこの身体と付き合ってきたエレナだから分かる人間とは決定的に異なる部分もまた存在した。

 二年近くの時が経つというのに伸びる事のない身長や変わる事のない体形……変化の兆しすら見せない幼さを残す顔立ち。


 エレナは自身の左腕を翳す様に伸ばす。


 白磁の様に白く艶やかで美しい……だがか細く触れるだけで折れてしまいそうな華奢な細腕。

 この日まで日々の鍛錬を疎かにした事などなかったというのに以前とまるで変わらぬその腕を見れば自ずと一つの仮説に辿り着いてしまう。


 この身体は成長をしないのではないか、と。


 人間ならば時の経過と共にあたり前に訪れる変化……自分はそうした摂理から外れた存在なのではないのか、と。


 ベルナディスとの試合で絶たれた不揃いの髪は伸び始めている……右手の痛みも徐々にではあるが緩和されつつある……しかしそれが治癒ではなく元の在り様に戻ろうとする復元……修復と呼ぶべきものであるとしたら、重ねた鍛錬や修練にまるで見合わぬ筋力や持久力のなさも納得出来てしまう。

 この身体が変化することを、成長を異質と拒絶するするならばそれを修復しようという力が働いたとしてもおかしい事ではない。


 魔法士にとって永遠の命題であろう不老不死。


 不死は今だ遠く霧の中にあるとしても、不老という神の領域に人は迫ろうとしている……そう考えるのならばかつて不老不死に挑んだアウグストが言わばその披検体である自分に見せる異常なまでの執着の説明もつく。


 あのエリーゼが自ら作り出した新たな術式を公に公表するとは思えないが、しかしそれが実現可能な技術であるならば誰かがいずれは完成させるだろう……。

 遠くない未来人間は新たな命題と向かい合う事になる。しかしエレナはその事に思い悩むつもりはない。

 それを悪と断じてしまえる程自分は純粋な人間ではないし、起きるであろう倫理的な問題を含めそれらは先の未来、その時代を生きる者たちが悩み挑まねばならないのだから……。

 無力な自分がこの小さな手で掴めるものは目に映るもの……そんな小さな世界が精々であり、大陸の行く末など明らかにこの手に余る。



 久しくなかった穏やかな時間に束の間物思いに耽っていたエレナの耳に微かにこの場には不釣合いな音が響く。

 打ち鳴らされるその音は戦場では聞き慣れた……銅鑼の音。


 音の方向に、自身の頭上高く中天にと顔を向けるエレナの黒い瞳に雲間から巨大な影が姿を見せる。自分たちの船に併走する様に姿を現したその船影にエレナは見覚えがあった。


 魔導船レガスガリア。


 高度を落としながら接近するその天翔ける船を、オーランド王国所有の魔導輸送船の巨大な姿を目にしエレナの瞳が鋭さを増す。

 魔導船が態々本来の高度を下げてまでこの商船に接近する理由など一つしか思い浮かばないからだ。


 この頃になるとはっきりと聞こえる銅鑼の音に加え、この商船の二倍近くはあろうか、レガスガリアの巨大な船体を目にした者たちが続々と甲板に集まって来ていた。

 この異常な状況に甲板は俄かにざわめきに包まれる。


 やがて銅鑼の音が止み、一定の距離を保ちながら低空飛行を続けるレガスガリアの甲板から狼煙が上がる。


 「大変だ……」


 レガスガリアからの狼煙を確認した数人の船員たちが顔色を変えて船橋へと走り出していく。


 「順風満帆の旅、とは中々いかないものね」


 喧騒の中エレナの背後に騒ぎに気づき駆けつけたのであろうアニエスが狼煙を見つめ呟く。


 レガスガリアから昇る狼煙の色は赤。


 そして航路において赤い狼煙が示す意味は――――逼迫する危険。

 レガスガリアはこの商船に迫るであろう危険を警告していたのだ。




 「楽しくなりそうだ」


 甲板に集まる者たちが張り詰めた緊張に包まれる中、エレナたちから離れ一人狼煙を見上げるフェリクスは寧ろ楽しげな笑みを見せる。


 海路において起こり得る危険などはそれこそ多岐に渡る。しかし魔導船が海上の船舶に態々警告を発する様なものともなれば大凡三つ。


 一つはこの先の海路の天候の悪化。

 後半刻程で目的地であるトルーセンの港へと到着するであろうこの商船には大きな問題にはならないが、この船の行く先までは知らぬであろうレガスガリアであればその可能性はある。


 二つ目は海賊の襲来。


 魔物の脅威がない海路……それ故に陸を追われた山賊や盗賊の類が海賊へと鞍替えし、増加した海賊たちによる商船の被害が日々増加を続ける現状にどの国も頭を悩ませていたのだ。

 だが今の時点ではこの可能性が一番低いとフェリクスは考えている。

 トルーセンに程近いこの海域で商船を襲うなど、港との距離を考えてもリスクが高いであろうし、もっと襲撃に適した海域をこの船は通過してきていたからだ。


 そう考えるならば三つ目……この可能性が一番高い。


 今この商船が進む海域、その最寄の港で何らかの異変が生じた場合……具体的な事例を挙げるならば魔物の脅威に晒されているなど、港への寄港に注意を促せばならぬ状況にある場合。


 フェリクスの瞳が戦いの予感に輝きを増す。

 野性の豹さながらに、訪れるであろう闘争を前にフェリクスは激しい高ぶりを覚えていた。



 暫く狼煙を上げながら併走していたレガスガリアがまた高度を上げ雲間へと消えた後、商船は目的地であるトルーセンの港の沖合いへと到着していた。

 奇しくもフェリクスの読みを肯定する様に沖合いには十隻を越える船が停泊している。

 多くの船には甲板にまで溢れる程の人の姿が見える。搭乗人員を大きく越え、航行は難しいであろうそれらの船がトルーセンからの避難民を乗せているだろう事は遠目でも容易に想像できた。

 それらの船とは別にエレナたちが乗船する船同様、交易の為にトルーセンに訪れた商船の姿も何隻か見てとれる。


 「何故寄港しないんだ、この船にもまだ人は乗せられる」


 他の船同様、沖合いに停泊したまま動きを見せぬ商船にエレナは苛立ちを見せる。

 この船にはまだ四、五十人は乗せる余裕があり、他の船の様に航行は難しくても停泊しているだけならばその倍の人数を乗せる事も可能な筈なのだ。

 この状況を見ればトルーセンの街が置かれている状況は明白であり、だからこそ迅速な行動が求められているというのに。


 「このままでは救える命も救えなくなる」


 エレナの呟きにアニエスは瞳を伏せる。

 エレナの気持ちは良く分かる……だがこの船が動けぬ理由もアニエスには理解出来るのだ。

 遠目からでは港の状況を確認出来ないが、少なくともまだ街中からは火の手の様なものは上がってはいない……だがだからと言っていつ魔物が入り込んでくるかも分からぬ状況で……まして住民たちで溢れ混乱の中にあるであろう港へと、積荷を危険に晒してまで救助の為に寄港する事は難しいであろう。


 積荷を失い負債を抱えれば容易く潰れてしまう……商船に詰まれた積荷の中には、中小の小さな商会にとってそんな命と等価な物も存在する。

 船長を始め、船員たちには預かった積荷に対して責任があるのだ。大手の所有船ではないこの船にはそうした積荷が多く積まれている。

 彼らには荷主たちへの責務があり、その判断は積荷に関わる多くの者たちの生活や未来すらも左右するのだ。


 人命は尊く全てに優先される。


 口にするのは容易い……だがエレナの様に見ず知らずの者たちの為に自身の命すら投げ出せる者など本当に極一部の人間だけだ。


 関わりを持つ人間たちと見ず知らずの他者。

 その両者を秤にかけてどちらに傾くかなどは明白であり、だからと言って誰がそれを責められようか……出来得る限り善人であろうとするのが人間の持つ美徳であったとしても、それはあくまでも自身に不利益が生じない範囲の中での話しであり、それを越えてまで他人に手を差し伸べられる者などそう多くはないのだから。



 「船は港に着けられぬが小型艇は出して貰える様に話はつけてきた。行くとしようかエレナ」


 フィーゴとフェリクスを伴い姿を見せたベルナディスの言葉にエレナは驚いた表情を見せる。

 此処まで姿が見えなかったベルナディスが船員たちと交渉していた事に気づき、


 「済まない……有難うベルナディス」


 と、エレナは申し訳なさそうに頭を下げる。


 魔物に襲われているであろうトルーセン……だがその魔物の数も状況すらも不明であるにも関わらず、自分の気持ちを察し共に戦う意思を示してくれたベルナディスの気持ちが嬉しく他に感謝の言葉が出てこなかったのだ。

 そんなエレナの姿に、


 「しおらしいエレナちゃんも可愛いね」


 などとフィーゴが面白そうに茶々を入れる。

 そんなフィーゴを睨むエレナの横でアニエスの脳裏に疑問が浮かぶ。


 「でも一介の傭兵の言葉に良く耳を貸してくれたわね」


 「私の名はそれなりに有名らしくてな、それに大分助けられた様だ」


 その言葉でアニエスは合点がいく。

 ベルナディス・ベルリオーズの名はオーランド王国内では遍く響き渡る勇名であり、王国屈指の傭兵の頼みを船長も無下に断る事が出来なかったのだろう。


 「どいつもこいつも七面倒臭え、魔物が何匹いようが全て狩り尽くしちまえばいいじゃねえか。俺が纏めて全てを救ってやるよ」


 甚だ傲慢なフェリクスの言葉に、だがエレナは頷く。


 「救おう……全てを」


 傲慢でもいい。不遜と謗られようが構わない。

 エレナもまたその思いはフェリクスと同様であったのだ。

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