第17話 政治に翻弄されたレスリング選手

1984年はオリンピックイヤーだった。

ユーゴスラビアは、サラエボで冬季オリンピックを開いた。

初の社会主義国家による冬季オリンピックだったが、ユーゴはアルペン男子大回転での銀メダル1個しか獲得できなかった。

サラエボオリンピックが閉幕し、関心がロサンゼルスオリンピックに向き始めたところ、ソビエトが4年前のモスクワオリンピックの西側諸国のボイコットに報復すべく、ロサンゼルスオリンピックのボイコットを発表、他の社会主義諸国にも同調を求めた。

しかし、ユーゴスラビア独自の社会主義政策とは、ソ連と一線を画すもので、ルーマニアとともにロサンゼルスオリンピック参加を決めた。


この当時、レスリングはソ連が圧倒的に強く、第2グループとしてブルガリア、アメリカ、日本、韓国、イランなどが続いていた。

ソ連、ブルガリア、イランなどがロサンゼルスに来なかったため、フリースタイル52キロ級は、日本の高田裕司が金メダルの最右翼、誰もその優勝を疑わなかった。

高田裕司は1976年のモントリオールオリンピックのこのクラスを21歳で制していた。

が、2連覇を目指したモスクワオリンピックは、日本が不参加を決定、出場を訴え、涙を流した高田の顔は電波に乗って日本中に流れた。

モスクワのあと競技を引退し、群馬県の高校教員をしていた高田は、オリンピックイヤーの1984年になって現役に復帰した。

ロスオリンピック代表確実と言われていた後輩の佐藤満に代表選考会で勝ち、8年ぶりにオリンピックのマットに上がることになった。

29歳になっていた高田は、表彰式であるパフォーマンスを考えていた。

自分が金メダルをもらったら、メダルにキスをして客席に投げ込もう。


実力は誰もオリンピック参加選手中で一番であると認めたが、衰えかけたスタミナを温存しながらの試合運びは、ユーゴスラビアの19歳の新鋭に一瞬の隙を突かれ、銅メダルに終わった。

オリンピックに翻弄された高田が、どうしてメダルを投げ込むつもりだったか、他人にはわからない部分もある。

結局銅メダルに終わり、パフォーマンスは幻となった。

高田が立つはずだった表彰台の真ん中に立った19歳のユーゴスラビアの新鋭がセバン・トルステナである。

銅メダルの高田はこうコメントした。

「佐藤がロスに来ていれば、勝てていたのに、佐藤に申し訳ない」

自分が現役復帰したばかりに、結果として佐藤満なら獲れた金メダルを獲ることができなかったというのだ。


1988年 12年ぶりに東西両陣営が顔を揃えたソウルオリンピック。

この年の春、高田は高校教員を休職して、日本オリンピック代表チームの合宿にコーチとして参加した。

合宿所の代々木青少年センターに泊まり込み、「佐藤に金メダルを取らせるために」、自分の技術や、これまで対戦した世界の強豪の特徴をすべて教え込んだ。

佐藤満は、世界選手権では毎度金メダル候補と言われていたが、いつも期待を裏切っていたのだ。

ソウルオリンピックが開幕した。

高田の指導の所為だろう。

目に見えて試合運びがうまくなっている。

決勝の相手は4年前の覇者セバン・トルステナだ。

セコンドには高田裕司が付いた。

偉大な先輩が築いた伝統を引き継ぎ、マットに姿を現した時からセバン・トルステナを飲んでいた。

マットの上で、両足を屈伸させて、二度、三度と跳ね、セバンを挑発する。

敢えて声を発し、動きを止めずに攻めまくる。

13-2と大差のポイントでの圧勝し、金メダルを手にした。


ロスオリンピックをもって引退していた高田は、1990年東京で開催された世界レスリング選手権に合わせて2度目の現役復帰を果たす。

5回目の世界王者をめざしたが、36歳という年齢と、勝負勘を取り戻せなかったのか、8位に終わった。

一方、ソウルオリンピックの金メダリスト佐藤満は1989・90年と競技から離れていたが、1991年に復帰、1992年のバルセロナオリンピックフリースタイル52㎏級6位をもって現役を終えた。


高田に勝って、佐藤に敗れたセバン・トルステナはどうなっただろうか。

1991年の8月までは、旧ユーゴスラビア代表として競技会に参加していたが、この年の9月に彼の母国マケドニアが、旧ユーゴスラビアから独立を宣言した。

ところがマケドニア共和国が独立を宣言すると、その呼称問題から国際社会は独立を承認しなかった。

旧ユーゴのマケドニアからギリシャ、ブルガリアにかかる広い一帯を元々マケドニアと呼ぶ。

「マケドニア共和国」の人々は、固有のマケドニア民族・言語が存在するとし、その「民族」としての自立をその隣国の同胞にも求めていた。

これに対してギリシャは国内に「マケドニア人はいない」と主張。

ブルガリアは「マケドニアなる民族は、民族も言語も、ブルガリア人と同じ」とした。

そのため「マケドニア共和国」が存在してしまうことに両国が反発した。

こうして国際社会はマケドニアの独立を認めず、マケドニアのスポーツ界は中釣り状態となった。

IOCは新ユーゴスラビア(後のセルビア・モンテネグロ)、ボスニアヘルツェゴビナ、マケドニアの国家としてのオリンピック参加を認めなかった。

そのため、セバン・トルステナはバルセロナオリンピックに現われることはなかった。


そして1996年のアトランタオリンピック、セバン・トルステナは国際社会から認知されたマケドニア代表として参加、57㎏級に5位という結果を残した。

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とってもDEEPなオリンピック @takisan1980

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