コンコン
コンコン
「おっ、もうそんな時間かあ…」
俺は呟いて、持っていたシャーペンを机上に置いてから椅子の背もたれに寄りかかった。思いっきり後ろに伸びをする。長年使っている椅子が軋んだ音を立てた。
俺はアパートに一人暮らしの大学4年生。近頃は世間がクリスマスだ年末だと浮かれる中、来月の某国家試験に向けて猛勉強の真っ最中だ。
夢を絶対に叶えるため、また自分が今までしてきた努力や応援してくれる仲間達、家族の期待を裏切らないためにも、ここ最近はほとんど誰とも連絡も取らず、試験に向けてのラストスパートとして頑張っている。
そんな俺には奇妙な同居人がいる。まあ、いろんな意味で「同居人」という呼び方はふさわしくないかもしれないのだが。
その「同居人」に俺が出会ったのは大学の入学式の2日前、このアパートに引っ越してきた日の夜だった。
その日、俺は元来の夜更かし癖に加え、今日から生まれて初めての一人暮らしがスタートするのだという興奮と、もうすぐ高校生の時からずっと憧れていた大学の学生になるのだという喜びと期待とで、布団に入ってもなかなか寝付けずにいた。そんな時だった。
コンコン
玄関のほうから音が聞こえてきた。時計を確認すると、深夜1時ちょうど。
(ノックの音か?誰だこんな時間に…つーか、インターホンあるんだから鳴らせばいいのに…)
心の中で毒づきながら、玄関ドアののぞき穴をのぞいた。
(あれ?)
のぞき穴の向こうには、誰もいなかった。
ドアを開けて周囲を見回してみたが、やはり誰もいない。ただ夜の闇が広がっていただけだった。このアパートは部屋と部屋の間が結構離れているし、通路に物が置いてあるということもない。俺の部屋はこのフロアのちょうど真ん中で、階段とエレベーターからも距離がある。だから、ピンポンダッシュみたいなイタズラだったとしてもあの短時間でバレないように他の部屋に逃げ込んだり、何処かに隠れるというのは難しいはずだ…。俺は急に怖くなって部屋に戻り、ありがちだが布団を被って震えていた。だが、そのうちに眠ってしまったらしく、これまたありがちだが気がついた時には朝だった。
その日、俺は(昨日のアレはノックじゃなくて、何か別の物音を聞き間違えたんだ。きっとそうだ。それか、夢だったのかもしれないぞ)などと必死で考えるようにして、できる限り気にしないように過ごした。だが、その日の深夜1時ちょうど。やはりその音はした。
コンコン
「ひいっ」
俺は情けない悲鳴をあげて飛び上がった。やっぱりきた。
恐る恐るのぞき穴から外を見る…やっぱり誰もいない。
速攻布団に潜って寝た。俺は自覚していた以上に怖がりだったらしい。
翌日は遂に大学の入学式だったのだが、式の間中ノックのことを考えてしまい、素直に喜べなかった。式の後で同じ学部だという学生達と話をすることができたが、初対面の人達にノックのことを相談したり、ましてや今夜家に泊めてくれと頼んだりなんて無理だった。遠くからわざわざ来てくれた両親にも、心配をかけてしまいそうな気がして言えなかった。その日の深夜1時にも、布団の中でノックの音を聞いた。
コンコン
次の日から、アパートの管理人や、アパートを紹介した不動産屋、隣の部屋の住人、アパートの近くに住んでいる人達などに尋ねたり、ネットでも調べてみたが、このアパートで過去に事件や事故があったという情報を得ることはできなかった。俺がそうこうしている日々の中でも、そいつは毎日深夜1時にドアをノックし続けていた。頭がどうにかなってしまいそうな気がした。
コンコン
そんな具合に最初の1週間くらいはずっと怯えていたが、毎日聞いているうちに徐々に慣れてきた。考えてみれば、ノックの音がした後に何かが起こったり現れたりなんてことはないし、玄関を開けても誰もいない。俺に危害が加えられることはないんだ。そう気づいてからは、ノックをする何者かに対する恐怖心はなくなり、いつしか完全に俺の生活の一部になっていた。いつも深夜1時ぴったりに鳴るので、最近なんかは勉強の息抜きに散歩に行く合図として利用している。俺は「同居人」に対して「これからもよろしくな」くらいの気持ちでいる。
ここまでの説明で、さっき俺が「同居人」という呼び方が不適切かもしれないと言った理由を分かってくれたと思う。理由その1、いつも外からドアを叩いてくるので、同じ家の中に住んでいるわけではないから。理由その2、そもそも恐らく人じゃないから。
まあとにかく、今日も散歩に行くとしよう。俺はコートを羽織ってドアを開けた。
口。
口だった。
ドアを開けた瞬間、俺の目に飛び込んできたのは大きな大きな口だった。
俺の頭頂から膝のあたり位まであったんじゃないかと思う。そのサイズの口に、灰色の人間の手のような形をした15cm程の脚が4本生えていた。
呆然としながらも、よくこんな短い脚で身体を支えられるなとか、脳や心臓は何処にあるんだろうとか、なぜか妙に冷静に考えた。
長くて分厚く、それでいて変に細く、燃えるような赤い色の舌がゆっくりと俺の胴体に巻き付いた。そして、俺を黄色い歯がきちんと整列している口の中に頭から放り込んだ。
そうか、こいつはずっと待っていたのか。俺がここに越してきた日から、俺に目を付けて毎日毎日ドアをノックし続けた。俺にとってその音が日常となるまで。その音がした直後にドアを開けても大丈夫なことが当たり前だと俺が完全に信じて疑わなくなるまで。およそ3年と8ヶ月もの間。楽しみに待ち続けて。そしてとうとう今日、こいつは自ら目の前に現れたマヌケな獲物を食すことに決めた。狩りの方法は文化によって異なるけど、こいつの所属している文化では、これが狩りなんだろう。そういうことなんだ。
俺は、全身がぬるま湯のゼリーのような気味の悪い感触に覆われているのを感じながら、また、指先から掌、掌から手首…という風な具合に自分がじわじわと溶かされていくのを感じながら、「油断大敵」という四字熟語を思い出していた。
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