第11話 急襲の夜

 第三章


  ①

 勉強机の上に置かれたちょっとだけ高級なプリンと、右手にスプーンを装備して標的に襲い掛かる準備は万端なはずなのに、どうしてだか眉間にしわを寄せて固まるクロマ。


 この膠着状態を説明するにはいくらかの前情報が必要だ。


 発端は、契が冷蔵庫に入っていた消費期限の近いプリンを見つけてしまったことにある。


 それは以前、近所のおばさんがお土産だと言って契にくれたものだった。何のお土産だったのかは未だに分からないもののとにかくありがたく頂いて、朝食代わりに食後のデザートにとちまちま食べていたのだが、箱いっぱいに敷き詰められていたそれを消費しきるには足りなかった。


 端的に言えば困っていたのだ。余っているとは言え捨ててしまうのは忍びない。


 そこに現れたのがクロマである。……いや、クロマは契が持て余したプリンを食すためにやってきた存在では決してないのだが。


 それでも女の子なら甘いものは好きだろう――そんな単純な思考が、今の状況を生んだ直接の原因だった。


「ね、ねえ……ほんとに大丈夫なのかしら?」


 ――どうやらクロマは、人間の摂るような食事を口にしたことがないらしい。


 悪魔という存在は、食事ではなく人間の〝時間〟から栄養を吸収するわけだから、要不要を論じるなら悪魔に食事は必要ない。


 しかし例えば消化の関係で不可能だ、というようなこともないそうだ。前にそんな雑談めいた会話を交わしたことがあったし、それにそうでないのなら悪魔の姿かたちがここまで人間に類似している理由もないように思う。


 だから特別悩むこともなくスプーンまで準備したのだが。


「これぇ……ぅあ……なんかぷるぷるしてるんだけど……」


 まさか食べる前から涙目になるとは思っていなかった。スプーンの腹をプリンの上部にとんとん当てる度に「ひうっ」と小さく悲鳴を上げている。得体の知れない生命体に対する反応に近い。


「ごめん、僕が悪かったかも。いいよ無理しないで」


 自分が食事をするとき、何となくクロマの視線が興味ありげに料理の方へ向いているような気がして切り出してみたのだが、浅慮だったようだ。それこそ怖いもの見たさに、というやつだったのかも知れない。


 未知の物体に興味はあってもさすがに口に入れたいとは思わないのだろう。


 しかし契がそう言った途端にクロマは不機嫌そうに唇を尖らせた。片付けようとしていた手を反射的に掴んで止める。


「……む。いい、あたしが食べるわ。あたしはすっごい悪魔なんだから……こんなのに負けたりなんかしないんだから」


 クロマも大概天邪鬼あまのじゃくだった。


 百年来の敵でも見るような目でぷるぷる震えるスイーツを睨みつけながら、クロマはついに銀色のスプーンを容器に突っ込んだ。


 初めて手にしたはずのそれを意外にも器用に操り、表面をコーティングしているカラメルソースが零れ落ちないよう、ゆっくり慎重に掬い上げる。


「……」


 それから小声で何か呟いたかと思うと一度頷き、ギュッと目を閉じてからスプーンを口に含んだ。


「ぁむっ」


 咀嚼、などという表現はプリンには似合わない。食べ方なんて知らなくても勝手に口の中で蕩け、そのまま奥へと流れ込んでいく。極上の甘みが伝播していく。こくん、と小さく喉が鳴った。当のクロマは未だに目を開かない。


「……クロマ? もしかして美味しくなかった?」


 契自身は甘いものはあまり好まないが、それでもこのプリンはかなり気に入った部類だ。美味しい、と思う。しかし相手は悪魔なのだ。いくら人間と似ているからと言って、全く同じ味覚を所持しているとは限らない。


 ……いや、それどころか人間にとって愛すべきデザートでも悪魔にとっては毒に近い何かである、というような可能性だって否定できなかったりもするのだろうか。いや、でも。


 そんな契の不安を決定付けるように、カラン、とクロマの手の内からスプーンが転がり落ちた。


「クロマっ?」


 落ち着けこういう場合冷静さを失うのが一番良くないんだ順番に対処しようまず何をすれば良い?時間なんていくらでもあったんだから心肺蘇生マニュアルでも読み込んでおくんだったいや今更後悔しても仕方ないとにかく聞きかじった程度の知識しかないが気道を確保してから人工呼吸と心臓マッサージをって言ってもそんなのが果たして悪魔に効くのだろうか――目一杯に動揺しながら、それでもどうにか対処をしようとクロマの顔を近くから覗き込んで。


「……って」


 ――彼女は驚いた、と言うより呆けたような、恍惚とした表情で頬を緩め切っていた。悪魔にあるまじき、と言えるほどその生態に詳しいわけでもないが、そんな印象を受けてしまうくらい邪気のない笑顔。


 どうやらスプーンは緊張から解放されて脱力した拍子に手から零れ落ちただけらしい。


「なに? なに、これ……? 口の中いっぱいになんか……広がってる……。すごい、不思議な感じ。幸せがふわーって染み渡ってくみたい……」


「……」


 初めて知った〝甘い〟という感覚の奔流にすっかり呑まれてしまったのか、クロマは言葉遣いすらあやふやになっている。そこまで喜んでもらえればプリンも本望だろう。


 契は自分の醜態を誤魔化すように頭を二度三度と軽く振った。


 それにしても。


「時間を食べるときは、美味しいとか不味いとかないの?」


 今まで何度かクロマに時間を献上してきたが、彼女がこんな反応を見せたことは一度もない。口に含んだだけで笑顔になれるような美味しい〝時間〟なんていうのは存在しないのだろうか。


「……美味しい。そういう風に言うのね……少なくともあたしは生まれてから今まで、一度もこんな感覚は味わったことないわ。時間の吸収なんて単なる栄養補給でしかないんだから。それに……ううん、あれは関係ないし。とにかく初めてよこんなの」


 どうしてか非難するような視線を向けられる。今までこんな大層なものを独占していたのか、とでも言いたいのだろうか。


 それはそれで理不尽なような気もするが、じとーっと睨みながらも忙しなくプリンを頬張り続けている姿を見ると文句を言うつもりにもなれない。


 しかしそうか、初めて。例えば西洋の鬼たる吸血鬼は様々な創作の中でいかにも美味しそうに人の生き血を啜っている。それと重なって何となく悪魔にとっての〝時間〟も味を楽しめるものだと錯覚していたのかもしれない。


 というか、そうだとすると悪魔の栄養摂取方法は非常に効率が悪そうに思える。いや、そもそもただ生きるだけなら一度の摂取で数ヶ月や年単位で保つという話だったか。


 混乱してきた思考を振り払ってから、名残惜しそうに容器を机に置いたクロマに声をかけた。


「甘い、っていうんだ。その幸せがふわふわ広がってく感じのこと。気に入ったなら今度別の買ってくるよ」


 確か駅前に評判のケーキ屋があったはずだ。学校近くのショッピングセンターにもそういった店が軒を連ねている。対天使の対策を練らなければならない身分でも充分に買いに行けるだろう。


 何よりスイーツは最高の息抜きだと相場が決まっているのだ。


「ホント!? えっとじゃあ……すっごく甘いのじゃなきゃ許さないから!」


 甘いものの力は偉大だな、とその笑顔を見ながら改めて思った。




  ②

「すー……すー……」


 規則正しい寝息が耳朶を打つ。先ほど入浴を済ませたばかりの身体やら髪からは得も言われぬ良い香りが漂ってきて、否応もなく緊張してしまう。油断したら触れてしまいそうで、知らず全身が強張っていた。


 ……〝食事〟の際にはもっと密着しているはずなのだが。


 相手が無防備な姿を晒しているという状況は精神的に相当良くないものらしい。


 元々はクロマが言い出したことだった。


『昨日と一昨日、あんたが寝てるのを見ながら思ってたんだけど……一人で数時間も過ごすのって思った以上に暇なの』


 まあ、それにはもちろん同意できる。何をしたら良いか分からなくて、用事のない休日は一日中部屋で座っているだけ、みたいな生活を送っていた契に理解できないはずもない。


『あたしは悪魔の中の悪魔だから寂しいなんてことは全然ないんだけどっ、でもやっぱり不公平じゃない? あたしは一人でさみ……暇で暇でしょうがないっていうのにあんたばっかり心地良さそうに寝てるんだもの!』


 悪魔に睡眠は必要ない。食事と同じく、可能だが必須ではない。


 だから契が寝てしまったあとは手持ち無沙汰だっただろう。


 自意識過剰とかそういうレベルの話ではなく、契がいなければクロマはこの世界に一人きりなのだから。


『時間をくれてる間は良いわ? あれはあたしの都合なんだから。でもあんたの体調も考えたら毎日やるってわけにもいかないから、だから……何か暇つぶしに丁度良いものとかないかしら』


 しかしながら契にその質問はあまりに適していなかった。暇つぶしに丁度良いもの? 休日の長すぎる暇を潰すのに契が行っていた睡眠以外の行動といえば窓から外を覗く・座る場所を変える・溜め息の数を数えるの三本立てだ。


 誰が来週もまた見る気になるというのか。


 というかそもそも暇つぶしが上手な人間は時間を持て余したりなんかしていないだろう。それではクロマと出会うことになった前提から崩れてしまう。


 それでも質問されたからには答えを返さなければという律儀な精神でようやくひねり出したのが、


『……それじゃあ、クロマも一緒に寝るって言うのはどうだろう』


 言い訳するなら。


 混乱、という、いわゆる一つの状態異常にかかっていたのかも知れない。




 契の部屋に置いてあるベッドは彼が小学生低学年の頃から使っているもので、元々の体格からすればかなり大き目のものではあるものの、当然ダブルだのキングだのという接頭詞は付かない。どこまでいっても一人用だ。


 そこに二つの枕を並べるとどうしても狭さを感じる。


 しかもついさっきまで頬を真っ赤に紅潮させて進入禁止エリアの線引きを厳密にしたがっていたクロマが意外にもすんなり眠ってしまい、さらに寝返りを打つたび契の方に転がってくるから、それを避けるので精一杯だった。


 幾重もの検問をクリアしないと通り抜けられないはずの国境線(に見立てたシーツの模様)はダイナミックに押し潰されている。


「……もう椅子に移動しようか……」


 クロマを起こしてしまわないよう静かにベッドから降りた。通常時はかなり緩い演劇部はしかし、公演間近になると戦争のような忙しさになる。そういうときには泊り込みになることも多く、故に契は椅子だろうがどこだろうが寝ることが出来た。

 

 学習机なんて元々長時間向き合うことを想定されているものだから、座り心地は悪くない。


 ふと顔を上げると、カーテンの隙間から満月の光が漏れ注いでいるのが目に入った。そんな淡い光に照らされたクロマの表情は穏やかそのものだ。


 ――初めて時間の吸収を行った日の朝、クロマは契にもたれかかって気持ち良さげに眠っていた。それを知っていたから、寝るという選択自体はありだと思ったのだ。


 結果的に寝具不足という別の問題が生まれてしまったが、それは少し我慢すれば解決できる瑣末なことで。


 退屈を押し殺して朝を待つくらいならあんな風に眠ってしまった方がずっと良い。


 果たして悪魔が夢を見るのかどうかは分からないが、深く眠ってしまえば時間なんて一瞬で通り過ぎていく。


 とりとめもないことを考えている内に段々重くなってきた瞼を、重力に任せて閉じてしまおうと思った。その時だった。


「……?」


 気のせいだろうか。


 クロマの顔を照らしていた光が、一部不恰好に遮られている。


 光を遮るもの、それはすなわち影だ。いや、正確に言うなら光が〝何か〟によって妨害されることで影が生じる。影という言葉はそこに光が集まっていないことを表すのと同時に、別の場所に〝本体〟が存在する事実も内包している。


 光の発信源、月から地上までの間に雲でも浮かんでいるのだろうか。もしそうだとしたら随分と妙な形の雲だ。だってクロマをスクリーンに見立てて映し出される影絵は、何か歪で細長いものが段々と大きくなっていくだけの面白味のないもので――


「っ」


 微かな異音が耳に届いたとき、契は既に勉強机の脚を蹴り飛ばして勢いをつけ、一歩半でベッドまで近づくとクロマの身体を抱きかかえて扉の方向へ転がっていた。


 受身も取らずに二人分の体重を受け止めたためか、肩にあまり歓迎できない類の違和感を覚える。


 しかしそれでも、契の咄嗟の行動は充分に正しかったのだろう。


 背後を振り向くと、部屋の中が滅茶苦茶になっていた。


 外側からぶち破られて部屋一面にガラスを散乱させている、数秒前まで窓だったもの。


 そのときの衝撃でカーテンも引き千切られてボロボロだ。


 一番被害が少ない本棚も斜めに傾いで最早その役目を放棄したように本を吐き出している。


 勉強机は爆破解体された建築物みたいに背が縮んでいるし、極めつけは綺麗に両断されたベッドである。


 いっそ縦方向に分割してくれれば明日から寝床で揉める心配はなかったのに、と思わず現実逃避してしまうくらいにはその光景は異様だった。


「んにゃ……へ? ちょ、ちょっとあんた何して……ってホント何があったのこれ!?」


 流石に落下の衝撃で目覚めたのか、腕の中でクロマが目を丸くする。荒れ果てた部屋を呆然と眺め、それから説明を求めるように契の瞳を覗き込んできた。吐息がかかるほどの近距離。見ようによっては抱き合っているような状況だが、心拍数は別の要因で最大値まで引き上げられているから、あまり気にしていられる余裕もない。


 とりあえず、クロマに手を貸して一緒に立ち上がる。ドア近くのスイッチに触れると、頭上がチカチカと瞬いてすぐに安定した。電気は生きているらしい。


「どこか怪我してない?」


「ん、大丈夫よ。えっとその……ありがと」


 調べてみた限りでは、契も左肩以外に痛めた箇所はなさそうだ。これだけの惨状から脱出した際の被害としては零に近似できるほどダメージは少ない。あくまでも今のところは、だが。


 ……これで終わるわけがない。

 

 窓だけなら、さらに百歩譲ってその直線上にあるベッドまでだったら〝外から何かを投げ込んだ〟で説明が付くかも知れない。


 しかし、部屋中が隈なく荒らされているこの光景は〝派手に侵入してきた何者かが暴れまわった〟と解釈した方が自然である。


「……」


 いくら慎重に見定めてみても、部屋の中に契とクロマ以外の誰かが潜んでいる気配はない。少なくとも契には感じられない。ただ、ここ数日で非常識に慣れつつある契は、当然この出来事が天使及び政府エージェントによるものである可能性も疑っていた。


 というか、確率としてはかなり高いだろう。夢オチでないのならほぼ確定としてもいい。


 襲撃。


 こちらが思念感知を使って悪魔の位置を割り出し、勝負をしかけたのと同じ寸法だ。効果は折り紙付きだが燃費の悪い隠密行動をずっと使い続ける、なんて方法は机上の空論でしかないのだから、いずれ起こるだろうと予測はしていた。


 しかしよりによって――と考えてしまうのは都合の良い被害妄想だろうか。


 こちらで事前に作戦を練るのと違って、迎撃戦に勝つ見込みはまずない。だからターゲットにされた場合はクロマの力をフルに使って全力で逃げる……それくらいしか方法がないのに。


 やはりよりによって、今は差し引きで四時間分程度しかストックがない。


 今日の授業中に補給した分はクロマが気付かれずに先輩に近づくための隠密行動と、決定打としての感情誘導でそのほとんどを使い切ってしまっている。


 加えて相手の持つ力は圧倒的な暴力だ。不意打ちで殴りこんできたところを見るに、話し合うつもりなどないらしい。相手の都合などおかまいなしに純粋な力を振るう、というような敵に対して、契とクロマの二人はあまりに無力だった。


 きっと抵抗さえさせてもらえない。


「と、とにかく、居場所だけでも探ってみるわ」


 クロマの瞳が光を帯びる。思念感知――それがどの程度の精密さを持っているのか契は知らないが、これだけ近いのだから天使がこの部屋にいるか否かくらいは分かるだろう。


 ただ、これで隠密行動を一時間継続で使用することは出来なくなってしまったが……いや、毎回供給した時間を正確に測っていたわけではないから、エネルギーの残量が四時間分を超えている保証はない。確実にコストとして支払える三時間を綺麗に使い切るには思念感知で正解だろう。


 万が一のためにクロマの前に立ち塞がるような位置に移動し、反応を待つ。


 そして変化はすぐに訪れた。


「え? これ……なんで」


 動揺するクロマ。振り向くわけにはいかなかったが、どんな情報でも漏らさないよう神経だけは全力で後ろに傾ける。


「どうしたの?」


「えっと、天使の反応なんだけど――」


 刹那。


 ――それはクロマの声を遮るように咆哮を上げた。


 ゆらり、と。やけに緩慢な動作に思える。しかしそれはどちらかと言えば契の感覚の方が麻痺してしまっていたのだろう。実際それはクロマの悲鳴が聞こえるより早く、契の目の前に立ちはだかっていた。


 一目見た印象は、鋼の怪物。


 全身をこれでもかというくらいの装甲で固め、いかにも鈍重そうな割に一瞬で彼我の距離をなくすほどの機動性を併せ持つ。種類までは分からなかったが映画で良く見るような、いかにもといった様子の大型の銃を左手に、そして右手には場違いとも思える鋭利な日本刀を携えている。


 人間とか天使とか悪魔とか――そんな分類では断じてない。これは最早一つの兵器だった。


「……」


 そんなものが目と鼻の先に鎮座している。そしてそれは間違いなく自分たちに向けられた刺客なのだろう。


「あ、あんた何ボーっとしてんのよ!? こ、ここ怖いのは分かるけど固まってたらあんたなんかすぐ死んじゃうんだから! ねえってば!」


 そう言ってクロマはぐいぐい契の服を引っ張っている。死神と安易に表現したくなるほど直接的に死を運んできそうな存在から一歩でも離れたい、という意思を身体中で表しているようだ。


 それなら一人で逃げれば良いのに、なんてそこまで無粋な考えは抱かない。人を見る目には自信があるつもりだ。……人ではなく、悪魔だが。


 彼女はここで誰かを置いて逃げられるほど器用な生き方はしていない。


「……でもクロマ、そもそも逃げる必要はないんだ」


 振り返らずに呟く。銃で、刀で今にも身体をバラバラにされそうなプレッシャーをまるで感じていないように淡々と。


 何をもってエネルギーとしているのか、呼吸するように駆動するそれを、まるで感慨もなく眺める。


「そんなわけないでしょうが! 何落ち着いてんのよ!? あたしの力だって使い物にならないのに!」


「だってこれは、幻覚にせものだから」


「だから何で――え? に、偽物?」


 ――目の前に広がる風景は、ずたずたになってはいるものの確かに自分の部屋だと断言できる。一連の破壊を成した存在もまた、間違いなくリアルな恐怖を植え付けてくる。


 でも、違う。なっちゃいない。


「他人を騙すって、実はすごく難しいんだ」


 虚構にせもの真実ほんものとの差を極限まで小さくしなければならない。


 そこにどれだけ注力できるかで偽物の完成度はほとんど決定されると言ってもいい。


 そして重要なのはそれが〝騙す相手にとって〟どうなのか、であるという点だ。相手が疑問を持たないのなら細部などどうだって良いとすら思う。


 逆に違和感が少しでも残っていると、そこから連鎖するようにメッキが剥げていく。一つ妙な部分があるだけで全てが怪しく思える心理、というのは騙す側からすれば相当厄介な代物なのだ。


 言葉を変えれば、理不尽ですらある。


 視界いっぱいに広がる破壊の痕跡。それはほとんど完璧なのだが。


「襲撃が起こったとき、カーテンは閉まってたんだ。それなのにガラスの破片が一面に飛び散っているのはどうしてだろう……ミステリか何かで見たような台詞で申し訳ないけど」


 薄い布地のカーテンは、謎の侵入者こそ防げなくても飛び散るガラスは抑えてくれる。勢いを殺されて窓枠付近に転がる破片が大多数を占めるはずなのだ。それなのにガラスは部屋中に落ちている。


 インパクトとしてはこちらの方が強いのは事実だが、ともかく。仮に〝凄まじい天使パワーの前ではそんな理屈は無意味だぜ〟的な何かで説明が付けられるのだとしても、契がそれに違和感を覚えた事実に変わりはない。


 そしてその違和感は派生していく。


 そもそも何故こんな戦力を投入する必要があったのか。居場所が分かっているのだから、当然契とクロマに関して色々とリサーチは済んでいるのだろう。こんな兵器に見合う相手だとは自分でも思えない。


 それでも未知数の力を持つ相手として最大の戦力を、という考えなのかも知れないが、だとしたらいつまで経っても攻撃されないのはおかしい。デカブツは運用コストが桁違いだと相場が決まっているのだ。


 そして最後の鍵は、こいつの大音声に掻き消されたクロマの声――いいや、消えてなどいない。契はしっかりと聞き取っていた。映像から他人の仕種を盗む際、どんなに小さな音でも聞き漏らさないように訓練していたから。


『えっと、天使の反応なんだけど、何故か部屋中に痕跡があるのよ。満遍なく』


 隠れていたとはいえ部屋の中に存在感の化身のような兵器がありながら、天使の気配は均質だと言う。


 これだけの要素があれば、結論に至るまではそう難しいことではなかった。


 テレビと似たようなものだ。光の組み合わせの違いだけで、残忍な光景も平和な風景も同質の映像として共存できる。――そう、映像だ。三次元的であることを考えれば立体投射か幻覚か、具体的な単語は分からないがそういう類の、偽物。

だから。


「こいつは僕たちを襲うフリをして部屋から追い出す係。本命は」


「――外で待ち伏せてる。正解だぜ、まさか見破られるとは思わなかった」


 いつの間にか首に突き付けられていた大振りのナイフが視界に入るまで、何が起こっているのか気付くことも出来なかった。


 背後、ついさっきまで銀色の塊がいたはずの場所。そこに顔中を硬質なマスクで覆った男が立っている。契の両手を掴んで封じ、もう片方の手は少し力を入れるだけで喉を掻っ切れる位置取りだ。


 クロマに目を向けた一瞬で、事態は取り返しのつかないところまで進んでしまっていた。


「だが調査不足だ……俺は幻覚の中ならどこにでも自由に出入りできる。相手の力も碌に調べねえで大きく出るから罰があたったんだろうよ」


 マスクに何か特殊な加工がしてあるのか、特徴の掴みづらいぼやけた声が、諭すように言葉を紡ぐ。


 ……騙すことに関してはともかく、戦闘はこの男の方が一枚上手だったらしい。


 幻覚を用いた誘導、さらに保険として転移。天使の力を充分に活かした二段構えの作戦だ。


 調べる、なんてことが出来ていたなら状況は違ったのかもしれないが、そんなのは言い訳にしかならない。


 だから。


「どう、したら……あたしに、あたしがちゃんと力を使えれば……っ!」


「……クロマ。逃げろ」


 視線の先で小さく震えながらも懸命に打開策を考えているクロマに、初めて命令形で指示を出した。高圧的に見えたって構わない。


「……なに、言って」


「逃げろ。ごめん、協力するとか言っておきながらこんなに中途半端になって申し訳ないけど、ここまでみたいだ。隠密を使って逃げて欲しい。悪魔の国……って言えばいいのか分からないけど、そっちまで逃げれば天使に捕まることはないんだよね? だから早く」


 クロマがこの世界に来る前にいた場所。以前に比べ少数しか残っていない悪魔がそれでも途絶えていないということは、恐らくそこに天使は入れないのだろう。絶好の潜伏場所になるはずだ。


「あ、あんたも一緒じゃなきゃ意味ないじゃない!」


「しばらく様子を見てからまた新しいパートナーを探してよ。大丈夫。大悪魔のクロマなら、僕じゃなくても協力者くらい何人でも見つけられる」


 悪魔勢力奪還計画は大きく遅れてしまうだろう。しかしクロマがこんなところで倒れてしまうよりは随分とマシに違いない。少数精鋭であればあるほど、一人が倒れることの意味は大きくなる。


 それなのにクロマは同意してくれない。それどころか綺麗な長髪が乱れるのも厭わずにかぶりを振って、これ以上ないくらいの否定を露わにしながら叫ぶ。


 それは彼女がどこまでも他人想いであることの証左だ。


「そんなのどうでも良い! あたしは、あんたが――!」


 目尻から数滴の涙が零れ落ちた。しかし、その言葉は最後まで続かない。


「ああああうるせえ! おいてめえ、俺は悪魔を刈る人間だ。てめえが悪魔と無関係だって言うなら俺はそっちの悪魔さんにしか用はねえよ。……今すぐ契約を切るならてめえは見逃してやる」


 早く選べとばかりにナイフを煌めかせる仮面の男。悪魔にしか興味がないから、契約していないただの人間なら危害を加える必要がない。なるほど、とても分かりやすい理屈だ。


『っ』


 ――それは契に向けられた言葉だったが、二人は全く同時に反応していた。


 契約を切る。それは何も人間側からしか出来ないことではない。


 悪の魔なんて形容がまるで似合わないクロマが次の瞬間にすることが手に取るように分かったから――契は喉元に突付けられていたナイフに手を添えて、思いっきり自分の方に引っ張っていた。


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