第8話 変身

  ⑦

 一時間目が始まったと思った途端に昼休みになり、それが終わると同時に放課後と相成った。


 少なくとも契の体感ではそんな感じだ。昨日の尾行でコストとなる時間のストックはほとんど使い切ってしまっていたから、心苦しく思いながらも授業中に補充させてもらっていた。


 周りの目がある中で意識を手放すのには多少抵抗があったが、もし反応しなければならない何かがあったらクロマが叩き起こしてくれるとのことだったので受け入れた。というか密着しなければ時間を吸収できないというなら、裏を返せば身体を離すだけでそれは終わるのだ。


 だからそれほど危険なことというわけでもなかった。むしろクロマが何の力も――隠密行動さえも使えない状況の方がより悪いだろう。


 ちなみに、少し疑問に思っていたことだが、平行異界第一深層に潜んでいる、いわゆる半透明の状態のクロマに契から触れることは出来ないが、やはり向こうからは一方通行的に触ることが叶うらしい。


 だから電車内で寄りかかることも出来たし、今も半透明のまま問題なく契の時間を食べていた。


 五時間弱、と言ったところか。


『……ぅうう』


 そんなクロマは赤らんだ顔を背けようと必死で縮こまっている。……彼女にしてみれば、実際に見られてはいないとはいえ衆人環視の中ずっと契に抱きすくめられているようなものだったのかも知れない。


 とは言え契がここで謝るのもどこかおかしいような。


「けーいっ! 何ぼーっとしてるの? 行こ行こ、HRはとっくに終わって掃除当番でもない私たちは部室への特急券を握り締めてるみたいなものなんだから! 特急券って高いんだから! 買ったことないけどきっと高いよだって特急だもん」


 どう声をかけようか迷っていると、いつものようにいつもの笑顔を伴って雪菜が立ち上がった。薄めの学生鞄を手に取ってその場でくるりとターン。


 まだ座ったままの契の目の前でふわりとスカートが揺れるのを意にも介さず、振り返った雪菜は元気良く机に手を着いた。


 その相変わらずな様子に思わず苦笑しながら答える。


「特急じゃなきゃ駄目なの?」


「各駅停車じゃ間に合わないからね。快速だと微妙なところ! 場合によるかも?」


「間に合わない……何に?」


「青春!」


 言い切った。満面の笑顔のままに。


 冗談っぽく言ってはいるものの、それはキラキラ輝いている雪菜にぴったりな言葉だと思う。


「……じゃあ急がないと」


「そうそう、その意気だよ契!」


 机の脇に引っかかっている鞄を手に取り席を立った。未だに視線を合わせてくれないクロマに目を遣ると、分かってるからさっさと行こうとでも言うようにこくこくと何度か頷いている。


 教室に居残って駄弁る魂胆を隠そうともしない級友たちに軽く挨拶してから、雪菜と一緒に部室棟へと向かって歩き始めた。




 演劇部部室。


 貸し切りフロアの中央に位置する一際大きな部屋は部活開始前のミーティングなどに使用されている。


「次回公演のシナリオが書き上がった。出来の良し悪しは今君たちにざっと確認してもらった通りだ。さて。ここで最重要とも言うべきヒロイン役なのだが、演劇部部長かつ本作品の脚本家としては二年の長谷川契君にやってもらいたいと思っている。異存のある者はいるかな?」


 異議なーしという好意的な応答に混じる若干の黄色い声が聞こえるのは右側だ。契にとって先輩にあたる面々がちょっとした興奮の面持ちで騒いでいる。


 そんな反応を不思議そうに見守る視線は何も知らない一年生の集まる左側から。


 ……そして真後ろからはどうしてだかクロマから半眼を向けられて。


 期待と疑問と無言の重圧に挟まれた契は、仕方なくみんなの前へと進み出た。両手を力なく挙げて降参のジェスチャー。


「ええと。そういうわけで、どうしてかヒロインに抜擢された長谷川契です。部長に逆らっても無駄なことは経験上分かっているので異存はあっても反論はありません。……でも、良いんですか、僕で?」


「そ、そうですよ」


 一年生の集団の中からおずおずと小さな手が上がる。見覚えがある、という程度で名前も思い出せない女子生徒が困惑しながらも契に追従してきた。作戦を確定させた今、それは嬉しい援護とは言えないけれど、当然の流れではある。


「どうして男性がヒロインをやるんですか? とっても素敵な純愛ストーリーでしたけど、ヒロインが実は男だったなんてどんでん返しはなかったです。それにこの部には綺麗でこの役にぴったりな先輩だってたくさん居るのに」


「ふむ。もっともな意見だ。この役を見事に演じ切れる素敵な女性はこの中に何人もいることだろう。それでこそ自慢すべき我が部の精鋭だ。ただそれでも、それを踏まえた上で彼を推薦する、彼しか居ないという具合にだ。――しかし、それでは納得できない者も多く居ると思われる。そこで」


 部長が随分と芝居がかった仕種で――いつものことだが――溜めに溜めてからぱちんと指を鳴らすと、少々ガタの来ている教室の前方ドアが音を立てて開いた。


 そこからちょこんと顔を出し、契に視線を向けて柔らかくはにかんで見せたのは、半ば予想通りながら。小柴紗希。


「変身の時間だ」




 毎日鏡越しに眺めている自分の顔は、客観的に見てかなり平凡なものだと思う。これといった特徴がない。将来犯罪なんかを起こしたとしても似顔絵から犯人像を割り出されることだけはなさそうな、そんな顔。


 しかしそれは、彼女にしてみれば自由に絵を描ける手付かずのキャンバスのようなものらしい。


 だからどんな姿にも変身させられるのだ、と以前に聞いた覚えがある。


「……出来ました」


 わずかな達成感を伴った紗希の声に、邪魔にならないよう閉じていた目をゆっくりと開放する。新しく生まれた自分を世界に溶け込ませていく。


 意識の切り替え、とでも称すれば良いのだろうか。これから自分が演じる誰かに、内面から少しずつ近づけていく。


 いつもとは少しだけバランスなんかの勝手が違う身体を慣らすように頭を回していると、近くの椅子に腰かけたままぽかんと小さく口を開けて呆けているクロマと目が合った。


 彼女にそれだけの衝撃を与えられているのなら、鏡を見るまでもなく完成と思って良いのだろう。


「ありがとう。借りが増えちゃったね」


「いえいえそんなとんでもないですせんぱいっ。というか今回の分はもう部長から返してもらっていますから」


「部長から?」


「はい。その、ちょっと大きな声では言えないような品々をですね……融通していただいたので。紗希はホクホクなんです」


 その内容を聞き出したいとまでは思わなかったが、それと同等以上の〝お返し〟をする必要があることを思い出し閉口してしまう。一体なにをすれば良いのだろうか。彼女が望むものを自分が渡せるとはとても思えなかった。


「……とにかく、僕は部長のところに戻るよ。紗希はどうするの?」


 彼女は演劇部ではあるが普段の活動に律儀に参加するようなタイプではない。メイクは誰よりも上手いし実際最近は頼りきりなのだが、役割が役割なだけにリハーサルでも何でもない通常練習のときにも常に必要、ということはないから。今日だって部長に頼まれなければ来なかっただろう。


 そうですね、と少し考えるように首を傾げて。


「紗希はもうちょっとここに残ることにします。これを、少しでも早く堪能したいわけなんです」


「そっか。……それじゃまた」


 葉書サイズの封筒を大切そうに抱き締めてうっとりと微笑む紗希に別れを告げて、部屋を出る。クロマがハッと思い出したように付いてくるまで若干のタイムラグがあった。


 誰も居ない廊下は擬似的に二人きりの空間を作り出してくれる。


「どう、かな」


 自分の今の姿をクロマはどう思うのだろうか。そんな些細な疑問を抱いたことそのものに少し驚いた。


 それは明らかに以前の契にはあり得なかったことだ。しかしこの格好はエリート先輩に対する作戦の要と言っても過言ではない部分なのだ。だから抜かりなく、というだけのことなのかも知れない。そうじゃないのかも知れない。分からない。


 契には難しすぎる問題だった。


 そんな契の平常とはかけ離れた内心を知ってか知らずか、充分以上に間を空けてから。


 クロマはそっぽを向いたまま拗ねたようにして呟いた。


『……くやしい』




 負けた――そんな吐息にも似た呻きがどこからか聞こえた。それは数十秒前に耳にしたものと同質の感情だったように思う。


「どうだろう。もう一度問うが、この長谷川契君にヒロインをやってもらうことに反対意見はあるだろうか」


 契の女装を初めて見る一年生たちが某賭博漫画並みにざわざわしている中、何故か自慢げな表情で壇上――教壇の名残みたいな小さなものだが――に上がった一人の先輩が口を開いた。


「去年。彼が入部してすぐね、部長が――当時は副部長だったんだけど、とにかく彼に女性役を振ってみたいとか言い出したの。私たちも最初は戸惑ったけど、でも校内発表だけの、それもコメディ要素の強いシナリオだったからそういう配役もアリなのかなって納得してた。練習のときは素面のままだったしね。


 だけどリハーサルのとき、メイクを担当してた先輩が連れてきたのは……私たちじゃ到底敵わないと一目で分かる超絶美少女・契ちゃんだったのよ」


「……その呼び方はやめてください」


 嫌がりながらも、実は契の中ではもうスイッチが入りつつある。自分の芯がない契にとって、外見というのは他の誰が思うよりも重要な意味を持つのだ。姿形は分かりやすくその人を示す指標だから。


 だから立ち方歩き方も普段とは変えているし、そもそも声からして普段よりかなり高く、柔らかく優しく、女子であってもおかしくはないようなそれになっている。

 

 声変わり、というほど大きな変化を迎えなかった自分の身体に感謝すべきだろう。


 ふむ、とそんな契の一挙一動を見つめていた部長が呟いた。


「やはり基本的な所作は完璧だな。今の君を見て一目で性別を言い当てられる者は相当な熟練者くらいのものだ。さすが女の子マスター」


「その不名誉かつ安直に過ぎる称号はこの場でお返しします」


「しかし細かい部分の詰めはやはり少々甘い。それに……ともかく、教えなければならないことはある」


 部長はそこで一旦言葉を区切ると、とっくに動かなくなっているはずの懐中時計の文字盤を見つめながら何やら考え始める。


 焦点の合っていない瞳はまるで意識だけ未来かもしくは過去に飛ばしているのではないかというファンタジックな想像を掻き立てるも、それはただただ彼が芝居がかった行動ばかりする人間だ、ということで説明がついてしまう程度の謎でしかない。


 やがて顔を上げた部長は時計の蓋を勢いよく閉めて大見得を切った。


「それでは諸君、本日の活動は配役発表と台本の配布で終了だ。家に帰って各自でもう一度読み込んでみて欲しい。完全にオリジナルかつ公演までの時間は多分にあるからな、より良い展開を思いついた、など意見があればもちろん前向きに検討していきたいと思う。


 そういうわけだからもう少しの間脚本は流動的なものだ、暗記はまだまだ後回しで良いぞ。この世界観をどう表現していけるか、それをゆっくりと探ってみて欲しい」


 はい、という返事は幾重にも重なって聞こえた。今の今まで契を弄るのに、可愛がるのに妬むのに夢中だった部員たちなのに、笑顔で挨拶を交わすと帰り支度をし始める。


 部長の言葉には不思議な力がある。……いや、少し違うか。言葉には元々力がある。発するだけで何かに影響を与えることが出来るもの。


 それを人より効率的に使うことが出来るのだ、彼は。


 それは悪魔の力みたいなものとは違う、いわゆる才能に分類されるものだ。


「そして可愛い可愛い契ちゃんには居残り練習を言い渡そう。人気(ひとけ)のない部室でイイコトをしようじゃないか」


「一瞬でも、頭の中ででも部長を誉めるんじゃなかったと、後悔しています」


 人をおちょくったようなその笑顔は、しかし芝居ではない本物のような気がして、嫌いではなかった。


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