第3話 下準備は入念に


   ④

 時間は少し流れて、午後十時四十分。


 草木も眠る、とまでは行かないが、準田舎の住宅地は充分に静まり返っていた。


「ね……」


 契と同じベッドにぺたんと腰を下ろしたクロマの服装は先ほどとは打って変わり、落ち着いた黒のネグリジェになっている。


 限りなく薄い素材であるためはっきり出てしまう身体のラインはやはり幼いそれだったが、襟元から覗く白い鎖骨のラインなどには妖しいほどの魅力があった。


 彼女が身じろぎするだけでふわっと広がる〝女の子の匂い〟に契は酩酊に近い感覚を覚える。


 もじもじ、そわそわ。そんな擬音が似合う動きをしばらく見せていたクロマが、ほんのり顔を赤らめて隣の契に囁いた。


 元々近い距離がさらに詰まる。


「ね。もう、してもいい……?」


 声と言うより吐息が耳朶を打ち、契は反射的に頷いた。


 言葉なんて異常な速度で刻まれる心音が邪魔すぎて発することが出来ない。


 頭の中が良く分からない感情でいっぱいだった。


 クロマは照れたようにはにかむと、一度目を閉じて。


「ん……」


 そんな甘い息を零しながら薄桜色の小さな唇を契に近づけ――たりは、しなかった。


 彼女は契に寄りかかり、位置を確かめながら右手と右手、左手と左手をそれぞれ重ね合わせている。その動きは割と無造作で、少なくともムードを感じられるようなものではなく。


 ――何となれば、直接肌を合わせるのが一番効率の良い〝時間吸収〟の方法であるから、ということらしい。


 要するに、充電。


 分かってはいたのだが。


「もう少しどうにかならないかな……?」


「な、なによ。あたしだってこんなに近いの恥ずかしいんだから」


 クロマが契の両手をぎゅっと握る。そう言われてしまうと契にはもはや反論できる余地がなかった。


 役得、という単語が頭を過ぎったりもして。


 ――これから契は、朝が来るまでの約八時間をクロマに献上する。


 本来なら睡眠を取るなりしていた時間だろう、それをそのまま切り取って――なかったことにしてしまう。一睡も出来ないということになるが、今日は暇潰しに何度も昼寝をしていたのでおそらく問題ない。


 改めて、クロマと視線を合わせる。


「じゃあ……始めるわ」


 そんな台詞が聞こえたと認識するかしないかの内に、契の視界はブラックアウトした。

 


 暗転していたのはほんの一瞬だったように思う。


「……終わった、のか?」


 契の身体に特別な変化はない。意識も一部が断絶していることを除けばほとんど地続きになっていると言って良いだろう。


 しかし遮光性能の低いカーテンから漏れ出る光はまさしく朝のそれであり、一晩分の時間を奪われたことはどうやら間違いないようだ。


「ずいぶんあっさりしてるんだな」


 とにかく顔でも洗ってくるか――と立ち上がろうとしたとき、契はそれが出来ないことに気付いた。それどころか、これでは上半身も動かせない。


 金縛りというわけではなく。


 壁に背を預けて座る彼に覆い被さるようにして手を繋いでいたクロマが、すぅすぅと気持ち良さそうに寝息を立てているのだった。


 安心しきったような寝顔。とても邪魔できるようなものではない。


「……まあ。今日も休みだし」


 その小さな頭を軽く撫でるように手を置く。


 出掛けるのは二度寝から覚めた後でも構わないはずだ。



   ⑤

 契の意識が次に覚醒したのは、ほぼ同じタイミングで目覚めたらしいクロマが顔を真っ赤にしながらじたばたと契から離れ、ネグリジェの裾やら乱れた髪やら体裁やらを一生懸命整えている頃だった。


 この部屋に櫛なんて洒落たものは当然置いていないので、多少焦りながら手で梳いている。


 クロマは最後に手鏡を取り出して全身をチェックすると、一応満足したらしくジャンプで椅子の上へ移動して顔の前に指を一本突き出した。


 やはり決めポーズ、なんだろうか。


「それじゃ昨日のあんたの言葉をこれから証明してもらうわ!」


「……お、おお」


 何も言ってくれるなと空気で牽制された気がした。


 昨日の言葉の証明。


 要するに〝騙すとか言ってたけどあんた本当にそれで天使に勝てると思ってるわけ?〟ということだ。


 本来なら昨日の会話の流れですぐにそうなってもおかしくなかったのだが、クロマのエネルギー補給のために一日遅らせた。どうやら力を使うだけでなく生命活動にも微量ながら時間のコストがかかるらしい。


 難儀な話にも思えるが、人間で言う食事のようなものなのだろう。それならそれで仕方ないか。


「でも証明って……天使の居場所の見当でも付いてるの?」


「今から付けるのよ。あたしほどの大悪魔を舐めないでもらいたいわ――〝思念感知〟」


 言葉と共に、クロマの赤い瞳が不思議な輝きを帯びる。神聖と邪悪という相反する属性が混じり合ったような、思わず畏怖を覚えてしまいそうなほど圧倒的な光。


 吸い込まれてしまいそうで、同時に見透かされてもいるようで。


 初めて目にした悪魔の〝力〟の発現に、契は知らずごくりと唾を飲み込んだ。


「――うん、近くに一人いるわ。決まりね」


 トン、と軽い音を立ててクロマが椅子から降りる。数瞬前まで纏っていた形容しがたい雰囲気も霧散してすっかり元通りだ。そうして身長差の関係上必然的にそうなってしまう目線――上目遣いで「すぐ行く?」と訊ねてくる。


 そのあどけない表情に、先ほどほんの少し垣間見えた悪魔としての一面とのギャップを感じながら。


「ああ、それならちょっと寄りたい所があるんだけど」


「? どこ?」


「いわゆる小細工ってやつをしようかと」


 余計に首を傾げるクロマへの説明もそこそこに、契は出掛ける支度を始めた。



   ⑥

「お待ちしてました……いらっしゃいです、せんぱい」


 舌っ足らずな声とともに開かれたドアの奥から、クロマと同じかそれよりもやや幼いように感じられる少女が姿を見せた。丁寧にお辞儀をしてみせ、その拍子に栗色の髪がさらりと零れる。


 白いワンピースにカーディガンという服装も相まって清楚なお嬢様という印象だ。それは良い意味で魅せるということを理解している立ち振る舞い。


 小柴紗希こしばさき――契と同じ学校に通う一年生である。


「おはよう。急に連絡しちゃったけど、大丈夫だった?」


「もちろんです。せんぱいからのお願いを聞けない時間帯なんてありません、です」


「……いや、それもどうかと思うけど」


「ちなみにぜんぜんまったく関係ないですけど、今日うちには紗希しかいません。二人っきりです。ぜんぜんまったく関係ないですけど。それではどうぞ上がってください」


「何のアピールだ」


 困惑の色を隠せない契だったが、彼女にとある手伝いを頼んだのはこちらの方だ。半ば押し掛けているようなものなのに我儘を言える立場でもない。くいくいと袖を引っ張られるままに奥のリビングへと通される。


 そこは、妙に生活感が感じられない部屋だった。


 殺風景だとか物が少ないとかそういうことではない。むしろ調度品の類を見る限り上流階級の居城といった様子である。しかしリビングと言うからには生活するための空間のはずなのに、そこにはあまりに人の気配がなかった。


 違和感を覚えないと言えば嘘になる。


 だが目の前でソファに腰を下ろした少女が待ち切れないという風に口を開いたために、その疑問はうやむやのまま流れてしまった。


 というか、毎回だ。いつもいつも契がここに来る度に感じている疑問を、彼女は口に出させてくれない。


「それで、せんぱいっ。今日はどんな風にするんですか?」


 言いながら紗希は身を乗り出してくる。その瞳はわくわくキラキラと期待に輝いていて、尻尾でも付いていたら元気良く振り始めそうな勢いだ。薄幸の美少女然とした彼女がそうしていると何となく微笑ましく思えてしまう。


「うん、実はかくかくしかじかで」


「これこれうまうまなんですね」


「……ノータイムで答えてくれて嬉しいけどちなみに内容は? 復唱どうぞ」


「復唱もなにも。……せんぱい、まさか本気で言ってたんですか?」


 断じて違う。こんな省略表現など漫画の世界でしか通用しない。ただ悪魔だの天使だのといったファンタジックな説明をしてもどうせ信じてもらえない――というかあまり軽々と自分の立場を明かさない方が良いだろうという配慮から誤魔化しが入ってしまっただけで。


 しかし、どうしたものか。契は目の前の少女をチラリと見ながら軽く首筋を掻いて思案する。


 何故か、本当に理由は分からないのだが、契は紗希に少し過剰なくらい懐かれていた。


 だから多分、理由も状況開示もせずに協力を仰いだところで彼女は笑顔で頷いてくれるだろう。二つ返事で乗ってくれることだろう。だがそれでは純粋な好意を利用しているようで非常に心苦しい。


 そういうわけで契は、不思議そうに自分の瞳を覗き込んでくる紗希に一本指を立てて見せた。クロマの真似、ということでもないのだが。


「じゃあ、こうしよう。――僕への貸し一つってことで、今日のところは理由とか何も訊かずに手伝ってくれないか?」


 紗希がきょとんとした顔で固まる。少し言葉が足りなかったかと再度口を開こうとした契を、しかしすぐに復帰した彼女は大きく振った手で制した。


「貸しって……つ、つつつまり紗希はせんぱいに何でも一つお願いして良い権利をげっとしたってことですか!?」


「ぇ、いや何でもはちょっ」


「天地神明森羅万象に誓います! 紗希はもう何にも詮索しないですぜったいです!」


 タンッ、と両手をテーブルに叩き付けながら宣言した紗希は、契の台詞を完全に無視して立ち上がるとそのままどこかへ走り去ってしまった。


 おそらく作業道具を取りに行ってくれたのだろう。それは有り難い話なのだが。


「……早まったか」


 契はわずか一分前の発言に早くも若干の後悔を抱いて溜め息を吐いた。交換条件、というのは交渉事の基本みたいなものだが、もしかしたら相当な下手を打ってしまったかも知れない。


 基本的に素直で良い子という評価を受けている小柴紗希は、しかし時に暴走することがあるのだ。スイッチの在処が分からないから手に負えない。


「ん?」


 生まれてしまった将来的な厄介事に頭を抱えて、ふと。自分の斜め後ろに目を遣る。


 そこには先程までと比べて何と言うか薄くなった――いわゆる半透明な身体になったクロマの姿があった。確かにそこにいるのに背後の光景が透けて見えるのには多少違和感があったが、もう今さら動揺するほどのことではないのかも知れない。


 慣れというのは怖いものだ。


 クロマは今〝平行異界パラレルワールドの第一深層に潜んでいる〟らしい。


 平行異界というのは彼女曰く〝この世界と隣り合わせの空間〟で、実体の無い状態の悪魔というのはつまりここに存在しているのだと。


 第一深層は悪魔と契約を交わした人間なら肉眼で目視できる場所――言わば待機状態だ。そして第二深層は少し深く、目視できない代わりに咄嗟にこちらに出ることは難しい。それより深い層には何らかの力を使わないと出入りできないし、思念感知などでも探れない。


 紗希に見られないよう細工をしながらも当然付いて来ていた彼女はどうやらご立腹らしく、契が座っているソファの背もたれに両肘をついて唇を尖らせている。実体は無いはずなのだがその質感は立体映像なんかとは比べるまでもないほどリアルだった。


 家にいたときと何ら遜色なく思える声も、この場では契にしか聞こえていないらしい。


『……ずいぶん仲が良いのね』


 拗ねたように呟くクロマは少し頬を膨らませ、契に暗い視線を送る。あからさまに不機嫌だった。


 確かに詳しく説明もしていなかったし、紗希の手前実体を見せることも出来ないのではさぞかし退屈だったろう。


「そうかな。まあその、構ってあげられなくてごめん」


『そっ、そんなこと誰も頼んでないわよ! 別に寂しいとか思ってないの! 悪魔だから!』


 がばっとソファの陰に隠れて返答を寄越すクロマ。どうやら恥ずかしくなると隠れるのは彼女の癖のようだ。縮こまった彼女の頭を無性に撫でたくなってしまう衝動をどうにか抑え、背もたれ越しに声をかける。


「まあ、もうすぐだと思うから、見ててよ。クロマもきっと驚く」


『んぇ?』


 それから紗希が戻ってきて――約一時間後。


 準備の済んだ契とクロマは、ようやく検索に引っかかった天使の元へと向かった。

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