第25話 返答/結末


『契、今どこにいるか知らねぇが、すぐにその場を離れろ。出来るだけ遠くに行け。ああ遠くだ。電車が出てなくたっていくらでも方法はあるだろうが』


 このタイミングでかかってきた電話を無視するわけにもいかず、スマホを耳に押し当てると、久我が捲し立てるようにそんなことを言ってきた。


『どうもエリアリーダーを倒した件で、本格的にお前が危険だと認識されたようだ。他エリアやら本部の連中まで出張ってお前を処理しちまおうって算段らしい。俺と榎本舞以はお前と関係があるってことで作戦から外されてな、情報を掴むのが遅れた。悪い』


 ああ、それは――マズい。


 こんな状況でも、理性は感情を置き去りにして冷静な分析を始めた。


 クロマの目的を達成するために、契が最も恐れていたこと。それが物量に頼った総攻撃だ。有無を言わせずに戦力差を突き付ける、最も原始的で効果的な方法。


 何しろ、対処のしようがないのだ。手持ちの札では逆転の目がない。だからこうなることだけは避けなければいけなかったのに――目立ち過ぎた。仕方なかったとは言え、幹部クラスの相手を倒してしまった影響はやはり大きいようだ。


「……?」


 空気が変わったことを察したのか、クロマが顔を上げた。恐る恐るといった具合に首をめぐらせ、契の視線の先に答えを見つける。絶望の足音が痛いくらい響き渡る中、クロマは。


「そうだ……それが良いわ」


 泣きそうな笑みを浮かべて、紅い髪を頬に張り付けたまま、安堵の息を零した。

それだけで、契にはクロマが何を言おうとしているのか分かってしまう。


「あたしの能力じゃ、あんなの相手に勝てるわけないわ。それはあんたも分かってるでしょ? そして、このままじゃ多分あんたまで殺される」


「そんなの――」


「それは、嫌なの。それだけは嫌。だから」


 クロマはそこで言葉を濁した。実際に言葉にはしたくなかったのかも知れない。ただ、契約を切る――論理展開からも、そういう流れになることは明白だった。


 この問答自体は久我と対面した時にあったものと似ている。ただあの時と違うのは、例え契約を切ったところでクロマがこの場から逃げ切るのは到底叶わないだろうという点。


「……そしたら、あんたは早く逃げなさい。ただの人間相手なら追跡なんて出来ないわ。友達とかに匿ってもらって」


 一度だけ、迫り来る天使たちを睨みつけてから、クロマは静かに瞳を隠した。人間と悪魔の契約は形の無いものだ。脆く儚く、どちらかが切ろうと思えばいつでも切れてしまう。


「……」


 ――しかし何秒待っても、その数倍の時間が過ぎても、契に何らかの変化は感じられなかった。クロマが焦ったように目を開く。


「何でっ? 何で契約が切れないの!?」


「……だって、心の底から契約を切りたいって思わなきゃ、解除できないんでしょ?」


 だったらそんな悲しそうで、未練しかない表情は相応しくない。クロマも別に本心から契約を切りたいわけではないのだろう。ただ契を逃がすためだけに、自分の心を偽ろうとしている。


「だ、だったらあんたが切って! 早くしないと間に合わなくなるわ!」


 空を飛んでいる対象の移動速度、というのは案外測りづらいものだが、確かにあまり余裕はないだろう。それにエージェントが揃いも揃って空路を選択するとは思えない。陸路からの先兵はもうすぐそこまで来ている可能性だってある。


 それに怯えて、訴えかけるような叫びは加速する。


「あんたの不幸は全部あたしのせいだって分かったでしょ!? もし知ってたら、契約なんて結びたくなかったでしょ!?」


 黙り込む契を勢いで圧倒しようと、自分の案を受け入れさせようと、悲痛な声を上げる。自分を切り捨てろと。そうするだけで今回のことは何もなかったことになるからと。


 それが、クロマなりの報いなのだろうか。


 契が視線だけで続きを促すと、彼女は「それに」と小さく呟いた。


「あたしは奪ってしまったものの大きさに気付いてから、色んな方法で元の持ち主に返そうと思って頑張ったのよ。思い付いたものはほとんど試したんだけど、でも一つだけやってないものがある。これって、結構有力なんじゃないかしら」


 躊躇いを表す、ほんの少しの間。


「――あたしはまだ、死んでみたことがない」


 一瞬、もうすぐそこまで迫っているのかも知れない天使の軍勢なんて契の頭の中から吹っ飛んでいた。


 だってその策は、既に策でも何でもない。ただのこじつけだ。自分が死ななければならないのなら、せめてその死に意味を持たせたいという願望。誰にでもあるものだろう。しかしそれは、諦観からしか生まれないものだ。


「……」


 どうして自分がこんな感情を抱いているのか、分からなかった。


 ――そんなの知っていたはずだ。クロマはとっくに自暴自棄になっていた。二人ともが助かる道はないと諦めて、だからこそ契一人だけでも逃げられるようにと、無茶苦茶な理屈を並び立てている。最初から目的も何もかも分かっていた。


「だから――だから期待して待ってて。もしかしたらあんたの魂、あたしが死ねば返してあげられるかもしれないから」


 それなのにその言葉を聞いて、無性に腹が立った。


 契は無言でクロマの前に立ち塞がる。向かってくる天使たちとクロマの間に入り込むような体勢だ。見方によっては庇っているようにも見える。


 クロマが愕然と目を見開いた。


「何……してるのよ。何でそこまでしてあたしなんかっ」


「いい加減、反論させてもらおうかと思って」


 彼女の主張は全部聞いた。そろそろ、契の番だ。


「まず、僕が忘れてしまっていたこと……雪菜を助けてくれて、ありがとう。クロマはそれを罪だとか言っていたけど、雪菜の命を助けるのに僕の魂の一部を差し出すくらいなら全然安いよ」


「……あんたはそう言うと思ってた。でも本当ならそこまでのエネルギーなんて全然必要なかったのよ。それなのに、人間の願いを叶えるのが初めてだったあたしは、代償として〝時間〟を奪うってルールも知らずに魂へ手を伸ばした。もし別の悪魔なら、こんなことにはならなかったはずだもん」


「そう。でもそれはあんまり関係ないんだ」


 あえてバッサリと切り捨てる。自傷行為の正当性なんて認める必要がどこにあるんだろうか。そんな些末な問題でいつまでも悩まれても困る。


 天使たちに背を向けたまま、クロマの瞳を覗き込んだ。


「だってその場に居たのはクロマだ。クロマだけだったんだ。他の悪魔なんて選択肢はなかった。自分で覚えていないのが残念でならないけど……クロマがいなかったら、とっくに雪菜は死んでたんじゃないかな」


 もし仮に。例え仮でも想定したくない展開だが、ともかく例の事故の際にクロマが居合わせず、そのまま雪菜が亡くなっていたとしたら。


 その場合、契がどうなっていたかなんて自分でも想像できない。自分の目の前で一番の友達が大量の血を流していて、それを助けることも出来ずに見送る――確実に精神がやられていただろう。


 あまりにもゾッとしない仮定だ。そんなバッドエンドを回避するための一手が間違っていたはずがない。


「僕は確かにそのせいでいろんなものへの興味を失くしちゃったけど、雪菜や久我が支えてくれたから絶望せずにここまで生きてこられた。そしてクロマに逢えた――再会できた」


 イルが、雪菜が、引き合わせてくれたのだろう。運命、なんて陳腐な修飾を付けたって良い。特別な何かは最初から感じていた。漠然とした感覚だったそれは、今では契の心の中で大きく育ってしまっている。


「……でもその特別は、あんまり良い〝特別〟じゃないわ。因縁とか宿命とか、そっちの方が似合ってる」


「だけど、クロマがもしとっくに僕の魂を消化しきっていたら、そんな風に感じる余地さえもなかったんだよ。そうなったら多分、もっと早い段階で終わっていた」


 流されやすい契の性格なら、力を貸さないということはなかったと思う。しかしそれだけだ。時間の供給源としての働きしかこなさなかったことだろう。そういう役を与えられたのだから、それ以外には興味がない。そうなればエージェントの一人だって倒せなかったかも知れない。


 しかしそうはならなかった。それは正しくクロマの功績だ。


「さっき、僕の隣に居たいって言ってくれたよね。僕だってずっとクロマと一緒に居たい。クロマが諦めてたって僕はまだそれが否定されるのを認めない」


 そこまで言って、契はクロマから目を逸らした。ついでに体を九十度反転させる。天使の群れはもうすぐそこまで迫っていた。だが、間に合うのなら何でも良い。


「契約が切れない以上、僕が一人で逃げることも出来ない。このままじゃ僕もクロマもあの天使たちに殺されるね。……ここまですれば、使えるでしょ?」


「っ……あんた、まさか……」



〝あたしは元々すっっっごい悪魔なんだけど……だからこそ使える力が高コストのものばっかりなの〟



 数日前に聞いたクロマの台詞が頭の中に蘇った。完全なブラフ、強がりというわけではないのだろう。少なくとも、瀕死の重態患者を後遺症も残さないほど完璧に治すくらいの力はある。


 というかそもそも、捕らえられた仲間を取り返すなんて役目を単騎で請け負っている段階で〝それを為すだけの可能性を秘めている〟ことは間違いないのだ。ただでさえ少数精鋭だというのに、むざむざと人員を減らすような真似はあり得ない。


 隠密行動や感情誘導くらいしか使えなかったのは、エネルギーの関係だ。


 人間は、悪魔が過剰なエネルギー吸収をしていないかどうかを監視しているらしい。余りに長い〝時間〟や、それこそ魂なんて奪おうものならすぐに包囲されてしまうのだろう。だから悪魔は小さなコストの力しか運用できず、特に大技ばかりが得意なクロマにとってそれは大きな痛手だった。


「だけどクロマは、僕の魂を――膨大なエネルギーの塊を、まだ消費しないで持ち続けてる。改めて吸収するまでもなく、ね」


「でも……でもっ」


 意地悪な行為をしているとは分かっていても、開き直っていたクロマに対してはこうするしかなかった。


 クロマは恐らく、最初からその方法に気付いていた。それなのに自分から契の魂を消化することを嫌い、契一人だけでも助かる道を選んだ。もしかしたらクロマ自身の死によって魂を元の場所に戻せるかも知れない、なんて賭けのおまけ付きだ。


 確かに彼女の視点からは悪くない策に見える。もちろん契にとっては論外だが。


 しかし、こうして居残ってしまえば、それを使わないメリットはなくなる。


 状況が詰んでいることを知ったクロマは、ふらふらと足を踏み出して契の胸にこつんと頭をぶつけた。懇願するように、両手で契のシャツを掴む。


「あんた一人なら逃げられたのに……何で」


「僕はクロマと一緒に居たいって、さっき言ったよね」


「だから! それはあたしがあんたの魂を持ってるからだって言ってるじゃない! それがなくなったらあたしへの興味もなくなる! あんたの特別じゃなくなるのは嫌なのっっ!」


「……ああ」


 そうか――そういうことか。


 つまりそれが根底にあったのだ。もちろんそれだけではないのだろう。クロマのことだ、本気で契の未来を案じてくれていたと考えて間違いない。しかしそれでも、主張の核は別のところにあった。


 それはきっと酷く純粋な想いで。


 だから契も、変に言葉を飾るのを止めた。


「クロマ」


 原始的で、むき出しな、素のままの感情。たとえ何事にも興味の湧かない無機質な状態でも、確かに残るもの。


 そういったものを表現するのは、実はあまり得意ではない。これも職業病の一種なのか、どうしても人に見られることを意識してしまうのだ。演技がかった口調と言い換えてもいい。


 だからそれを捨てるというのは、思いの外難しい。


 ――いや、いいんだ。難しく考える必要はない。ありのままを伝えるだけでいい。


 少しだけ期待したような瞳で契を見上げるクロマに、言った。


「僕はクロマのことが好きだ」


 ……それだけしか、言えなかった。


 ここまで来ると軽い自己嫌悪に陥りそうだ。言いたいことはもっともっとあった。でもそれは考えれば考えるほど余計な修飾にしか思えなくて、結局心の真ん中にあった一言を引きずり出すので精いっぱいだった。


「~~~~~~!」と頭を契の胸に押し付けているクロマからくぐもった叫び声が聞こえてきたが、恥ずかしさも相まって内容までは上手く聞き取れない。


 ただ、しばらく経ってから見せた表情は、もう諦めの類ではなく――覚悟を秘めた泣き笑いだった。


「そんなこと言っちゃって……責任は取ってもらうからね」


 契に対する遠慮はもう消えている。契の言葉が、彼女の躊躇を消し去ることが出来たのだろうか。


「お膳立ては全部終わってるんだ。……お願い、クロマ」


 ニッと、一瞬だけ犬歯が垣間見えた。



「ええ、じっくり見てなさいよ! あたしは泣く子も黙る大悪魔なんだから!!」




  ⑦

 その後のことは、実はあまり語るほどのものではない。いや、正確にはそうできないと言った方が正しいのかも知れない。契の世界から再び光彩のようなものが失われてしまったから。


 それでも状況を描写するだけならできる。


 瞳どころか全身に深く紅い光を纏ったクロマが一言「〝戻りなさい〟」と呟いただけで、その場に居た全ての天使の洗脳が解けたのだ。


 大悪魔、なんて自称さえも謙譲語の一種だったのだろう。それはあまりにも一方的だった。戦力を一気に丸ごと失ったエージェントたちは面白いくらいに顔を青ざめさせて撤退していったが、特に追う必要もない。既に興味は失せていた。


 行動理由を失って彷徨っていた天使たちは、クロマを見つけて驚愕に目を見開いた。跪くくらいの勢いで近付いてくると、クロマの指示で一斉に闇に溶けていく。どうやらそのまま元の世界に帰るようだ。


 彼女らが揃って口にしていた〝姫〟という単語を鸚鵡返しに呟いてみると、聞いていたらしいクロマに「う、うるさいわね」とはぐらかされた。単なる相性かも知れないし、本当にそういった身分でもおかしくはない。さっきの能力は、それに相応しいものだ。


「それじゃ、僕たちも帰ろうか、姫」


「だから止めてって言ってるじゃない!」


 いちいち突っかかって来るクロマと話すのが楽しくて、嬉しくて、契はしばらくその呼称を改めなかった。

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