第22話 始末


「ちょっと、ねえちょっと契! どうするつもりなのよ!?」


 一階まで戻ってしまっていたエレベーターを無視して階段を駆け下りる契の背中に、荒い呼吸交じりの声が届いた。血の上った頭を冷やすためにも一旦立ち止まってクロマを待つ。


 気持ちの良い夜風が頬を打った。


「……どうするもなにも、そんなの一つしかないよ。クロマは、協力してくれない?」


「そんな言い方……っ。大体、どうにかできると思ってるわけ? あたしもあんたもろくに戦えないじゃない! ……全部あたしのせいだけど!」


 確かに、今回の相手はこれまでと違って情報が全くない。雪菜の言葉から男だということくらいは分かっていたが、その程度だ。戦闘能力に欠けるから相手を騙して無力化する――そんな契のスタイルは通用しそうにない。


 しかし。


「大丈夫。作戦なんて必要ないから」


「でも!」


「ごめん、時間がないんだ。信じてくれないかな?」


 むむむむー、と数秒の間唸っていたクロマだったが、契の強情さに折れたように溜息を吐くと雰囲気を一変させた。深く神秘的な紅に染まった瞳が探るように宙をなぞる。


――雪菜から着信があったのはつい数分前のことだ。少女イルを殺した男はまだ思念感知の圏内にいるだろう。加えて、ここのエリアリーダーにあたる人間は今現在存在しない。元々受けていた仕事ならともかく、新たに任務が下るようなことはないはずだ。


 だからこんな時間に活動している天使自体が相当に希少。


「――一人、ね。ここから真東の方に向かってるわ。多分一キロも離れてないんじゃないかしら」


 見つかった。


「そっか。ありがとうクロマ」


 契は再び階段を降り始める。今度はクロマもついてこられるくらいのスピードだが、しかし気持ちは随分と急いていた。


 早く、早く。


 早く――ないと。




 男はすぐに見つかった。深夜の住宅街をぶらぶらと歩くその後ろ姿は普通の人間にしか見えなかったが、傍らには確かに天使が控えている。間違いないだろう。


 契は対象を確認すると迷いなく近くの脇道に入り、回り込むため思いっきり駆け出した。何せ生まれたときからこの街に住んでいるのだ、地の利を生かさない理由はない。


 後ろからぜえぜえと息を切らしながら追いすがってくるクロマに一瞬だけ目を遣ったものの、気を遣う余裕がないから声はかけない。全部任せてくれ、と指示してある。クロマを巻き込むつもりはなかった。


 何となれば、これは悪魔だとか天使だとか、そういったものとは別の次元の問題だから。


 壁に肩を押し付けるようにして隠れながら、男が近づいてくるのを待つ。


 飛び出しそうになるのを何度も堪えて、契の我慢が限界に達しそうになったその時、ようやく好機が訪れた。


「っ」


 足払い。単純すぎて攻撃とも呼べないようなものだが、暗闇から突然仕掛けられれば対処は難しい。体はあまり鍛えていないらしく、男はいとも簡単に胴体から地面に倒れ伏した。


「な、なんだっ」


 疑問の声が上がるが、当然答える義理はない。契はうつ伏せに転がった男の背に乗ると、いつか資料として見せられた格闘技の技を真似て体の自由を奪った。上半身、特に両腕を集中的に拘束する。足はどうせ届かない。


「この、何だてめえ! ガキが、離しやがれ!」


 男が何やら喚いているが契にはまるで関係のないことだった。非常にどうでも良い。発言に興味が湧かない。


 契は作業をするように淡々と、ズボンのポケットからあるものを取り出した。


 その姿が見えていない男はようやく冷静さを取り戻したのか、頬を引き攣らせたような嘲笑を浮かべる。自分が優位に立っていると思い込んだ表情。


「はっ、おい引ったくり野郎。てめえにゃ見えねえだろうがよ、こっちには兵器があるんだ。殺されたくなかったらそこをどきな」


 引ったくり。男の視点からはそう見えるのだろうか。確かに犯人と被害者の間に一切の関係がない犯罪行為、という点では正しい。当たらずとも遠からず。しかし満点を与えることは出来ない。


「……使ってみればいいよ。使えるなら、だけど」


「はあ? んだと……後悔しても、って……」


 だって契のやろうとしているのは、どちらかと言えば通り魔だ。


「使えないよね? だってエージェントが天使を動かすのには身体的なアクションが必要だ。悪魔を洗脳して脳をぶっ壊してるから、能力を使えるだけの道具に貶めてしまったから、言葉や音じゃ反応しない。見てすぐそれと分かる動作がないと動いてくれない。――あんたは腕だろ」


 最後の言葉だけ語調を強めて、同時に体重移動を駆使してより強く圧迫する。圧倒する。


 元々気にはなっていたのだ。今まで遭遇したエージェントは全員、例外なく、天使に指示を出すとき何らかの動作を伴っていた。


 漫画やアニメじゃあるまいし、ポーズを取っているというわけでもないだろう。ましてや契のように〝それらしく見せるため〟の演技でもない。なら話は簡単で、それが能力の発動に必要なことというわけだ。


 エージェントと本格的な戦闘になってしまえば契たちに勝ち目はない、だからこの事実が決定打になることはないだろうと考えていたが――不意打ちならばまた別の話。


「がっ……あ……て、めえっ」


 この男の場合は腕だ。詳しくは腕を上げること。野球のサインのように能力ごとで細かく分かれているのかも知れないが、腕を封じてしまえば何もできないことには変わりない。雪菜が朦朧とする記憶の中から救い上げてくれた情報に間違いはなかったようだ。


 暴れようとしても満足に動けない男を冷徹に見下ろして、契は呪うように宣言した。


「今から僕は徹底的にあんたを壊す。……理由を訊きたい、って顔だけどそんなのないよ。これは通り魔みたいなものだから。たまたま通りかかったあんたを、用事を済ませるついでのような感覚で、無造作に、適当に、乱雑に、まるで顧みることなく破壊する」


 片手と上半身を使って相手の両腕を抱え込み、空いたもう一方の手で握りしめた銀色に煌めくそれを首筋にあてた。ツーとなぞるだけで、男は何をされるか理解したようだ。


「お、お、おいてめえ、落ち着けよ、んなことしたらどうなるのかくらい分かってんだろ?」


「……えよ」


「あ? 何、何だよ? 何か要求があるんだろおい? 問答無用なんててめえに何の得もないじゃねえか、な?」


「うるせえよ」


「あ、ぁああああああああああ!」


 契が腕を振り下ろした刹那、男は絶叫を上げて気絶した。……気絶、だ。四肢を痙攣させているが、身体的ダメージは恐らくない。右手に握りしめていた銀色のものを、小さなリングを、まるで鋭利な刃物であるかのように誤解させていただけなのだから、至極当然のことだろう。


「はあ……」


 溜息を吐いて立ち上がる。放っておくと面倒なことになるかも知れないので、事後処理は必要だ。主人が情けなく地に伏せていても動く気配すらない天使にそっとリングを押し当てた。


 男の意思はどうやら完全に砕けていたようで、天使は大人しくリングに呑み込まれていった。


「契……?」


 怯えるような声に振り返ると、路地の角からちょこんとクロマが顔を出している。多分、一部始終を見ていたのだろう。契の精神状況ではまともにケアも出来なかった。怖がられて当然だ。


 自省の意味も込めて、深く頭を下げた。


「ごめん、クロマ……見損なわれた、かな」


「……何で?」


「怖がってるみたいだから」


 ――雪菜の涙を見た瞬間から、契の中のスイッチが切り替わってしまったような気がしていた。きっとそれは安全装置のようなもので、オフになってしまえば自分でも元に戻すことは出来ない。湧き上がる衝動が収まるまでは止まれない。


 別に、契が特別というわけではないのだろう。人間には誰にだってそういう〝一線〟があって、今回のことは契にとって許容できるラインを越えていたという、それだけのことだ。


 だからそれは良い。純粋に過ぎるほど素のままの自分ということなのだから、否定する方がおかしい。感情のコントロールが効かない暴走状態、だったのだとしても、その中枢にあるのは間違いなく自分の意思だから。


 しかしそれでも、それだからこそ、全部が全部契の勝手な都合だ。クロマには微塵も関係ない。彼女が契の行動を異常だと判断し、忌避するのなら、それは契には否定しようがない。


 地面を見つめたまま黙っていると、しばらくしてポツリと小さな囁きが降ってきた。


「……あんたがあいつのこと殺してたら、あたしも怒ったかも」


「え?」


 その声音は想像していたよりもずっと穏やかで、契は思わず顔を上げてしまう。見たこともない表情だった。悪魔、という言葉の印象からかけ離れたような、慈愛に満ちた儚い笑顔。きっとそれは、クロマの本質だった。


 契の心を癒すためだけの言葉はさらに紡がれていく。


「でも殺さなかったでしょ。……友達のために心の底から怒って、それから形振り構わず行動できるっていうのは凄いことよ。ちょっと歪んでるけど、あたしはそんなことであんたを軽蔑したりしない」


 クロマは両手を後ろに回して契の瞳を下から覗き込んできた。チラリと映る八重歯から少しだけ意地悪な色が見え隠れする。


「むしろそれくらいで見損なわれたかも、なんて思われる方が嫌なんだからね」


「……そっか」


 クロマは、塀の影から契のしていた行為をずっと見ていた。つまり声を掛けるなり飛び出すなり、止める方法はあったわけだ。それでも出てこなかったのは、契が自分に任せるように言ったからだろう。それを信じて、待っていてくれたのだろう。


「信じてなかったのは僕の方か」


「……まあ、あの状態じゃ仕方ないわ。でもそうね、代わりに一つ、今からあたしが言うことを信じなさい。それでどう?」


「そうだね。うん、いいよ」


 クロマはすっかりいつもの調子に戻っていたから、次に出てくる言葉も何となく想像がついた。まあ、どんなに分かりやすい嘘でも構わない。この提案からして、等価交換に見せかけることで契の精神的負担を軽くするためのものだ。どこまで優しいんだろうか、この悪魔は。


 片手を腰に当て、もう一方の手をぴんと伸ばして人差し指を立てる――そんなキメポーズを契に向け、クロマは勢い良く言い放った。


「あたしは、怖がってなんかないから! ただびっくりして遠くから眺めてただけなんだからね!」




  ④

「……遅いよ、契」


 契とクロマが部屋に戻る頃には、半身を投げ出してベッドに座る雪菜の表情もかなり落ち着いていた。瞳はまだ腫れたままだったが、それ以外に涙の跡は窺えない。


 さっきはまともに喋れていなかったことを考えれば、拗ねたような非難の声も安心の材料になる。


「ごめん。ちょっと……風が気持ちよくて」


「そうなんだ。うん、そっかそっか。――ありがと」


 やはり言い訳は考えておくべきだった、と思いながらベッドの縁に腰掛けた。ついでに、入り口から怖々と中を覗き込んでいるクロマを手招きして隣に座らせる。

雪菜が興味津々といった様子を隠そうともしないので、クロマは少し居心地が悪そうだった。


「その子も悪魔……なんだよね?」


「そうだよ。少し前に契約したんだ」


 契に促され、すとんと着地したクロマはそのままおずおずと雪菜に近付いた。別れる前の発言を気にしているのか、何となく目線が泳いでいるように思える。


「あ、えっと……クロマよ。その、よろしく」


「うん」


 対して雪菜は笑顔で片手を差し出した。彼女は誰かと仲良くなることに関しては達人並みの才能を持っている。あれくらいでクロマとの関係がこじれるようなことはないだろう。


 そんな雪菜は、一瞬寂しそうな顔をしてから、ゆっくりと語り始めた。


「あたしの友達――イルも、悪魔だったんだ。二か月くらい前だったかな……偶然会って、仲良くなったの。そんなに昔からの友達ってわけじゃないのに、こんな悲しいんだね」


 意識的にか、それとも無意識にか、その手はベッドの傍らの空白を撫でている。温もりを確かめるように。そこがイルという少女の定位置だったのだろうか。


「時間の長さは関係ないんじゃないかな」


 関わった時間の長さだけで測れるのなら、人間関係なんてそう複雑なものにはならないはずだ。積み重ねてきた一つ一つの過去が今を形作っている。その密度や、個々の大きさ。場合によっては外的な要因も関係してくるかも知れない。


「そう、なのかも。イルとはずっと一緒にいたみたいな気がするし……あのね、イルはね、すごく良い子だったんだよ」


 雪菜は夢を語るようにイルとの思い出を並べていく。指折り数えながら一つ、二つ、三つと際限なく増やしていく。


 その幸せそうな表情はともすれば壊れてしまいそうにも見えるが、そうではない。雪菜はもう、乗り越えた後だ。この行為が彼女にとって後悔や逃避の類でなく、純粋な回顧だから、笑うことが出来る。


 ――彼女は契の想像よりずっと、強い人間だった。


 そんな雪菜は、ついに十を数え切って役割を終えた両手を広げると、嬉しそうに掲げた。思い出したように――否、取って置きを見せつけるように。


「あと、そう。契の幸せを、私と一緒に願ってくれたんだよ。それがあったからこんなに身近に、こんなに大切に思えるんだと思う」


「僕の……」


 もしかしたら、今訊くべきことではないのかも知れない。それでも疑問は勝手に口をついて出た。


「……あのさ、前から訊きたかった――いや、違うかな。前から知ってはいたけど、最近気になり始めたことがあるんだ。


 どうして雪菜は、そんなに僕のことを気にかけてくれるの?」


 幼馴染みだから。友達だから。そういった答えでも、多分信じられる。他の誰でもない雪菜なら、それくらいの理由で人のために動くなんて通常運転だろう。


 要するに、それほど明確な何かを期待していたわけではなかったのだ。


「そっか、そうだよね。契は忘れちゃってるんだよね。――うん、心の整理にはちょうどいいのかも」


 だから続く雪菜の話を、契は相応の驚きを持って聞くことになる。


「私ね、昔、交通事故に遭ったんだよ」

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