第20話 幸せはあまりに脆く

  Another part5

「ほら、これっ」


 家に帰るなり、ベッドに寝転がって本を読んでいたイルにスマホの画面を突き付けた。


 雪菜の家はとあるマンションの四階にある。エレベーターを待つのもじれったくて駆け上がってきたから、息を整えるのに少し時間がかかってしまった。


 早く話がしたかったのにこれでは本末転倒だ。


「えっと、ユキ? 近すぎて見えないわ」


 本を閉じて囁くイル。その声は耳元で何故か聞こえた。


「わ、ごめんごめん。――これで良いかなっ」


 言われるまで気付かなかったけれど、イルに覆い被さるくらいの勢いで近寄っていたみたいだ。流石に体勢的に大変だったので、すりすりと後退してから改めてそれを掲げる。


「……写真?」


 イルの端正な顔が疑問を示した。写真とは何か、という意味ではないだろう。どういう意図でそれを見せているのかと瞳が語っている。


 意図も何も。素晴らしいものは無条件で共有されるべきだから。


「どう? どうかな? すっごい可愛いと思わない!?」


「そうね。すっごい可愛い。ユキの友達?」


「そうっ! 友達の……男の子! 女子より可愛いなんてズルいけどここまでされちゃうともう文句も出てこないもん」


「男の、え? 男の子? ユキあなた何言ってるの?」


 雪菜が見せているのは、ほんの数時間前に撮った契の写真だった。紗希アーティストの手によって次々に移り変わっていく様を、雪菜は余さず記録していたのだ。


 名目上は後からどの衣装が良いか見比べるための資料。でもそれをどう扱おうが雪菜の勝手のはずだ。


 新人アイドルの写真集、と言っても十分に通用しそうなそれを、雪菜は幸せそうに眺める。


 その様を見て、イルはあることに気付いたらしく二度三度と頷いた。


「ああ、もしかしてこの人が長谷川契……ということね?」


「その通りっ! イル鋭いね! こっちもそっちもこれもそれも、全部全部契なんだよっ」


「〝ヒロイン役も出来る〟とは聞いていたけど、ちょっと予想以上かも知れないわ」


「ふっふーん、でしょでしょ? あ、こっちもおすすめなんだからっ」


 数百枚に及ぶ写真は既にいくつかのフォルダに分けてある。今見ていたのが実際の公演でも使えそうな、簡単に言うなら〝まともな〟もの。つまり他のフォルダは最初から最後まで、あの場に居合わせた人間の単なる趣味の塊だ。


 色物というか、コスプレというか。


 少なくとも、メイド服やセーラー服を可愛く着こなせる男子高校生を、雪菜は契の他に知らない。


 ベッドに腰掛けてそんな写真の数々を矯めつ眇めつ眺めていたイルが、突然不意打ちのように口を開いた。


「本当にユキは契のことが好きなのね」


「なっ」


「……なっ、て何よ。なっ、て。いつもあれだけ惚気ておいて今更そんな反応されても困るわ」


 迂闊だった。イルの氷柱の如き鋭さを舐めていたみたいだ。まさか能力か何かで心を読んでいるのだろうか。


「いや、ユキは全部顔に出るから」


「やっぱり読まれてる!? ひどい! プライバシーの侵害だよっ!」


「いつから好きなんだっけ?」


「だから好きとかそういうのじゃなくって! わ、私はただ、あの時……何でもないっ。それよりっ、それよりイルは!?」


 あの時のことは、そう簡単に人に話していいものではない。そもそも、信じてもらえるかどうかも分からない。雪菜自身だって半信半疑なのだから、それだったら

綺麗な思い出のまま仕舞って置きたい。


 だから雪菜は強引に話を変えた。携帯もポケットに突っ込んだ。ホーム画面の壁紙設定は変更済みだから、大丈夫。


「イルはどうなの? 私ばっかりに話させるなんてひどいもん、イルのそういう話聞きたい!」


「……えっと」


 イルは露骨に視線をそらして逃れようとしたが、目を輝かせた雪菜の機動力にはまるで敵わない。一瞬で勝負が付いた。


「ちょっと、やめ、きゃっ」


 もつれ込むようにして二人でベッドに倒れ込んだ。何となく恥ずかしくてえへへ、とか笑ってみる。イルも仕方なさそうに苦笑した。


「そうね……まあ、色恋沙汰に全く無縁だった、ということもないわ」


「やっぱりねっ、私もイルに負けないくらい鋭いんだから! イルってすごい綺麗だもん、みんな放っとかないよ!」


「……ユキに言われると、少し嬉しい」


 イルの傍にいるとあまりにも居心地が良くて、雪菜はしばらくの間そこから離れずに会話を続けた。




 ――雪菜がイルと出会ったのは、今からほんの二か月くらい前のことだ。


 その頃はちょうど夏休みの真っ最中で、昼時を大分過ぎたにもかかわらず凶暴なまでの暑さが地上を蹂躙していた。


 雪菜の家にあるエアコンは折悪しく調子を崩していて、修理の日程は明日。つまり今日一日は自力で暑さに耐える必要がある。


 ……そうだ、アイスを買いに行こう。そんな思考に辿り着くのも不思議ではなかった。


 市役所から光化学スモッグ注意報の発令が云々、という放送が流れていたけれど、そんなものは毎日のように出ていたし、アイスを求める旅を阻害出来るほどの力は持っていない。雪菜はお気に入りの財布を小さなバッグに入れて、むせ返るような熱の中に一歩踏み出した。


 そう、陽炎が立ち上るほどの熱気だったのだ。


 だから最初、雪菜はその影を幻覚か何かだと思った。もしくは見間違い。頭がぼーっとしてしまうくらいの暑さで、脳が何かを誤認識しているのかも知れない、と。


「あっ」


 その説を後押しするかのように、少し離れた所に立っていたはずの影は瞬きをするほどの僅かな間に消えてしまった。雪菜は袋の中のアイスが溶けてしまわないか、少しだけ気にかけながらその場に駆け寄る。


 そこには人影どころか、それと間違えそうな何かさえもなかった。


「ううん、じゃあやっぱり勘違い――あ!」


 仕方ないからそういうことにして帰ろう。そう思った矢先、先程の影が数メートル先の道路に現れた。いつの間に移動していたのだろう。位置や角度の関係か、さっきよりも輪郭がはっきりと見える。


 女の子だ、恐らく雪菜より背が低い。


「待ってっ」


 声を掛けたのは、単に気になったからだ。相手に興味を持ったから。それだけのことだけど、それは雪菜にとってとても大事なことだった。理由はわざわざ言うまでもない。


 陽炎のような人影は雪菜の声に一瞬反応したように見えたけれど、すぐにまた姿を消してしまった。そしてさらに数歩分動いた位置に現れる。その繰り返し。


「……分かった。この私にゲームを挑もうって言うんだね!」


 見えない相手の不可解な行動を、雪菜はそんな風に解釈した。鬼ごっこ……いや、隠れ鬼だろうか。ずっと同じ場所に隠れていても良し、嘲笑うように姿を現して逃げても良し、とにかく鬼に捕まらなければ勝ちという分かりやすいゲームだ。


 そして当然、鬼の勝利条件は逆になる。


「すぐ捕まっちゃっても知らないから!」


 小学校の頃から、契を周囲に馴染ませるために男子との遊びにも積極的に参加してきた雪菜は、この手のゲームがとても得意だった。




 炎天下の隠れ鬼は、それほど時間も経たずに決着がついた。


「はあっ……は、はああ……っ」


 思いもよらぬ運動をしたせいで完全に息が上がってしまっている。ようやく捕らえた人影を逃がさないように両手で抱きながら、雪菜はしばらく荒い呼吸を整えるのに集中した。


 脳に酸素が行き渡り、腕の中の少女を観察する余裕が生まれる。


 まず、とても美人だ。身長は雪菜より低いのだけれど、可愛いというより綺麗という感想が先に浮かぶ。透き通るように白い肌はすべすべで、触れたらきっと気持ち良いだろう。髪の毛はきちんと手入れされていることが一目で分かる黒髪。長めの前髪に半分ほど隠れている瞳の色は、赤茶色と言ったところだろうか。ずいぶん珍しい色合いだ。


「あ、あの……私を捕まえてどうする気ですか」


 不安そうに、しかししっかりと芯を持った声が耳朶を打った。雪菜は何度か深呼吸をしてから、にっこりと笑った。自慢げに。


「私の勝ち!」


「はあ……何の勝負でしょう」


「何って、隠れ鬼でしょ? 鬼は相手を捕まえたら勝ちなんだよっ」


 少女は瞳を何度かパチパチと開閉し、雪菜の言葉を口の中で繰り返した。やがて一つの結論に達したのか、小さく嘆息する。


「つまり、私のことが見えていたんですか……」


「? もしかして見える方が変だったりする感じなの? あ、そっか分かった幽霊だ!?」


「違います」


 即答で否定されたけれど、雪菜自身の目で確認してみないことには分からない。恐る恐る視線を下げていく。あまり飾り気のないロングスカートの裾からは――しっかりと二本の脚が伸びていた。


 良かった。もし幽霊だったら、どうすれば良いのか分からない。


「私は、」


 絞り出すような、弱さを押し殺すような声が聞こえて雪菜は反射的に顔を上げる。少女の唇はぐっと引き締められていて、それは決意というよりは何かを我慢しているように思えた。


「私はどうやら、間違えてここにきてしまったようです」


「間違い?」


「そう、です。私の味方が誰一人としていない世界に迷い込んだのに、身を隠す方法すらも私にはありません。……分かっています、こういう場合の末路は、一つしかないですから」


 悲壮感に溢れた彼女の台詞を、雪菜はほとんど理解することが出来なかった。あまりに説明不足が過ぎる。それに抽象的な表現から相手の真意を見抜くのは少し苦手だった。


 それでも相手が困っているのは分かったから、雪菜なりにどうにかしようとしたのだ。


 味方がいない? 身を隠す場所がない? それならきっと、話はとても簡単なことだ。


「それならウチに来なよっ」


 少女はその言葉が信じられないとでも言うように、大きく目を見開いた。




 両親と弟に〝絶対に部屋に入らないこと〟を約束させてから、雪菜はこっそりと少女を自室に招いた。少女は未だに戸惑っているようだったけれど、笑顔で促してみると、開き直ったのかベッドの縁に腰掛けた。


「まず、最初に言わなければならないことがあります」


「あ、敬語じゃなくていいよ」


 冷蔵庫から冷たい麦茶を持ってきた雪菜は、少女のすぐ隣に座る。怪しまれるのが嫌だったからグラスは一つしかない。間接キスなんて同性同士で騒ぐようなことじゃないけれど、彼女が嫌がるようなら全てを捧げる覚悟を決めていた。


「……そう。なら、そうするわ」


「うんうん」


「それじゃ、まず――私は人間じゃない。悪魔のイルよ、よろしく」


 悪魔。あくま。


 単語の意味がいまいち呑み込めずにフリーズする雪菜に、イルと名乗った少女は続けて状況を説明し始めた。


 曰く、悪魔は本来この世界とは違う場所に住んでいること。行き来は自由とは行かないまでも可能であること。ただイル自身は偶然こちらに迷い込んだいわゆる〝迷子〟で、帰り方が分からないこと。


 そしてこの世界では、悪魔は天使という存在に狩られる対象で、イルにはそれに対抗する力がないこと。誰とも契約していないこともあるが、それ以前に元々能力を扱うのが上手くなかったのだという。


「力がないどころか、どうやら私は平行異界の第一深層にも満足に入れないみたい。あなたのような普通の人にも見つかっちゃうもの。これじゃ隠れてやり過ごすことも出来ないわ」


 イルはこちらに来るのは初めてで、だから味方どころか知り合いすらいなかった。背中の羽根のせいで否応なく目立つから宿泊施設にも泊まれない。天使に見つかって討伐されるのも時間の問題だった。


「でもでも、それはウチにいれば解決するよねっ?」


「あなたね……私なんかと一緒にいたらあなたまで攻撃される。あなたに何のメリットもないのにそんな危険を呼び込むなんて正気じゃないわ」


「む……」


 イルの言葉も一理ある。雪菜の興味を惹いて止まない彼女だけれど、出会って間もない相手のために危険な目に遭うというのはあまり歓迎したい出来事ではない。


 しかし、ここで彼女を見捨てて放り出せば、恐らくすぐに行き場を失って狩られるのだろう。手詰まり。


「むむむ……む? そっか、そうだ」


 そんな二律背反を解決するたった一つの冴えたやり方は、意外にもすぐに雪菜の頭に浮かんできた。首を傾げるイルに向けてその名案を言い放つ。


「友達になればいいんだよ!」


「……それはどういう意味?」


「私とイルが友達になればいいのっ。だってそうでしょ? 友達になるのに理由は要らないし、友達を助けるのにメリットは要らないもん!」


 完璧な案だった。崩しようがない論理構成ロジック。流石のイルも呆けたように口を開けてしまった。それも仕方ない。雪菜自身でさえ自分の才能に震えてしまうくらい素敵な考えなんだから。


 イルはしばらく黙っていた。


 そして長い沈黙の後、静かに頷いた。


「驚くほど馬鹿みたいな発言だったのに、私にとってすごく都合が良いのね……その、利用させてもらっても、いいのかしら」


「もっちろん! よろしくねイル!」


「ええ。ただ、契約はしないから。襲われたときにあなたまで守る自信はとてもじゃないけど、ない。それにこんな一方的な庇護を受けるようじゃ私の気が済まないわ。少しでも関係を対等にしたいから――そうね。


 ユキ、あなたの願いを一つ、叶えてあげる」


 ――これが、雪菜とイルの関係の始まりだった。




「あはははっ、イルにもそんな頃があったんだ……ちょっと見てみたかったかもっ」


「そりゃ私にだって初恋の相手くらいいるわ。ユキほど純情じゃないけど」


「なっ、だから私は違うってば!」


 契の写真のお披露目から派生した女子トークは思いの外盛り上がり、いつの間にかかなり遅い時間になっていた。名残惜しさを覚えながら話を切り上げて、一人お風呂へと向かう。


 この家には雪菜の他に三人の家族が住んでいるから、イルが他の部屋に出向くのはかなり危険だった。食事も睡眠も風呂も必要ない身体だから、とは説明されているけど、出来ることならそういった時間も一緒に過ごしたい。


 多分、雪菜はとっくにイルのことが好きになっていた。最初は形式的な〝友達〟だったけど、そんなのは一緒に暮らしている内、すぐ本物に変わった。


 イルは雪菜の大切な友達だ。何と言っても、一緒に契の幸せを願ってくれる。イルの能力は微々たるものだから、願ってもそれが叶うとは限らない。でも願い事というのは、その行為自体が素敵なことなのだ。口に出してみるとなお良い。


 言葉はきっと世界を変えてくれる。


 そんなことを思いながら、雪菜は脱衣所で身体に付いた水を丁寧に拭き取った。雪菜は女子にしては入浴にかける時間がかなり短い。何となれば、湯船よりベッドの方が好みなのだ。それだけ。


 だから急いでパジャマに着替え、家族におやすみの挨拶をして、そして。


「…………え?」


 ――部屋に入ってすぐ、見開かれた両目に飛び込んできたのは想像を絶する光景だった。


 人。人だ。知らない男の人が、背の高い男の人が部屋の真ん中に立っている。彼はただ立っているだけだ。ここが女子高生の寝室でさえなければ別に何がおかしいわけでもない。


 ただ問題はその背後に浮かんでいる〝何か〟だった。〝何か〟は、どことなく天使のようなイメージを彷彿とさせるそれは、目を爛々と光らせて、両手に輝く槍のようなものを握りしめていた。


 槍? そう、槍だ。対象に突き立てて貫通させることに特化した形状。ただ在るだけなら、展示品なら美しいと感じたかも知れないその槍は、しかしこの場でははっきりと武器としての存在感を示していた。


「ぅ……あ、ああ……」


 大きすぎる衝撃によって仕事を放棄していた聴覚がようやく戻る。しかしそれは、雪菜にとって現状が絶望的であることをより正しく伝えるくらいにしか役立たなかった。


 イルが、刺されている。胸の辺りを槍で一突きにされている。


 多分、簡潔に描写するならそうなるのだろう。


「く……ぅ、ユキ……」


 硬直して一歩も動けない雪菜に、倒れたイルが掠れた声をかける。視線を向けるのもやっと、といったその姿に、雪菜の精神がボロボロと音を立てて崩れていくのが分かった。


「……この耳障りな異端の飼い主はお前か」


 男が誰に話しかけているのか、そんなのはどうでも良い。震える脚で部屋の中へと一歩踏み入れた。


「聞こえていない、か。仕方ないなこいつは。――一応報告するぞ、義務だからな。俺はこのエリアのエージェントだ。今日は別の任務中だったんだが、帰る途中にたまたま悪魔の反応を見つけたんで寄らせてもらった。ついでの仕事にしちゃ面倒すぎる、ちゃんと残業手当は出るんだろうな……」


 男は何でもないことのように語る。


 たまたま? ついでに? 何か悪いことをしたわけでもなく、邪魔だったからみたいな理由でイルは狙われないといけないの?


 雪菜は最初に教えてもらったことをぼんやりと思い出す。そう、確か、悪魔は天使に狩られる立場。狩り。そう、まさしくこれは――一方的な蹂躙だ。


「ついては、こいつの相棒パートナーであるお前にも然るべき処置を与える必要がある。悪魔と契約しようなんてのは危険思想だ、即刻――」


「ま……って。待ち、なさい」


 右手を掲げて傍らの存在――天使に指示を出そうとしていた男が面倒そうに動きを止める。夥しい量の血を流し、いつ絶命してもおかしくない状態のイルに、まるで汚いものを見るかのような視線を向けた。


「あ? 何だ、まだ息があったのか」


「ユキ、は……彼女は、私の、契約者ではないわ……」


「んだと? おい、確認しろ。〝呪力視〟――ちっ、事実か。何だ、だったら野良かよ、手間取らせやがって」


「ぐ、ぁああああああああ」


 男は無造作にイルを蹴り飛ばした。その肢体が動かなくなったのを見遣ると、興味をなくしたように土足でベッドへ上がり、そのまま窓に手を掛けた。


「んじゃあ、邪魔したな嬢ちゃん。悪いけどそいつの処理は頼むわ」


 何らかの指示を受けた天使が巨大化した翼で羽ばたき、男を乗せてどこかへと飛んでいった。向かう先を確認する、なんて事すら億劫だった。どうでも良い。どうだって良い。追いかけたところで、一度起きたことはもう元には戻せない。


「イル……」


 久しぶりに喉が動いた。部屋の隅に転がったイルの傍に両膝を突き、その肩をやさしく揺らす。どう見ても悪影響しかなさそうだった。応急手当の知識もない雪菜では、友達がこんな目に遭っていても、触れてあげることすら出来ない。


「どうして……こんなのおかしい……っ」


 知らぬ間に流れていた涙が雪菜の膝を、そしてイルの頬を打つ。


 イルは確かに悪魔だ。悪魔は天使の敵。それは良い。詳しいことは雪菜にはわからないけれど、それは前提だということにしよう。


 それでも、イルが何か彼らにとって気の障ることをしたのだろうか。そんなはずはない。だってイルは願っていただけだ。友達である雪菜のために、一緒に契の幸せを想ってくれていただけだ。


 それなのに、通りすがりの人間に適当に殺されるような――そんな尊厳の何もかもを無視したようなやり方で奪われるなんて、絶対に間違ってる。


「……っ……」


 顔をギリギリまで近づけてみれば、まだ微かに呼吸があるのが分かる。弱弱しいけれど脈だってある。だからまだ死んではいない。でも。


「救急車? ううん……こんなの、説明のしようがないもん……」


 イルは悪魔だ。羽根があることもそうだし、何より食事睡眠が必要なくて、時折消えたりもするこの身体が通常の人間と同じだとは考えにくい。サスペンスドラマの見過ぎかも知れないけれど、解剖、実験なんていう単語が浮かんだ。それはきっと死ぬより辛い。


 だったらどうすれば良い。友達のために自分は何をしてあげられる。


「っ……! 何もっ、浮かばないって、どういうことなのっ!」


 雪菜は両手で頭を抱えて絶叫した。何もできない。出来ることなんてない。

無力な自分が嫌で嫌でしょうがない。


「そうだ、契……」


 こんな時、契なら。いつか雪菜を救ってくれた契なら。


 縋るように机の上のスマートフォンを手に取り、電話帳アプリを開く。震える指で長谷川契の名前を選択すると、コールして――すぐにやめた。


 こんなところに呼んだって契を困らせるだけだ。


 もう一度、視線をぐるりと巡らせてみる。血痕、靴跡、瀕死のイル。どう控えめに見たって惨状だ。手の施しようがない。契に会いたいなんていうのは結局、イルのためなんかではなくて、現実に心を壊されてしまいそうな雪菜自身を助けてほしいからだ。自己中心的な考えに嫌気がさした。


「イル……ねえイル……」


 せめてもう一度だけ、声が聞きたい。


 その小さな願いは、しかし当然ながら叶うことはなかった。


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