第17話 戦いは明けて


  ⑨

 エリアリーダーとの一件が片付いた次の日。

 

 学校から帰ってくると、玄関の前に榎本舞以の姿があった。


 リビングに招き入れてお茶を出すと、彼女は嬉しそうに両手でグラスを持ち上げて喉を潤した。元々笑顔が印象的な少女だったが、今日は一層頬が緩んでいる。声のテンションも僅かに高いように感じられた。


 そこに悲壮な決意で上司への反逆を示した少女の影は微塵もない。


 それも当然だ。なぜなら、


「――とまあそんなわけで、エージェントのみんなは揃ってキミに感謝してたよ。人質が帰ってきたんだから細かい過程なんてどうでもいい、ってさ。


 精神的ショックで暴走しかけてた人に事情説明するのホント大変だったんだからね? 功労者たるわたしを讃えるべき」


 捕らえられていた人質たちは一人残らず解放され、それぞれのエージェントの元へ返されたのだから。


 ――今回の作戦は、以下の通りだった。


 まず必要な状況設定は、大勢のエージェントが見守る中でエリアリーダーと対峙すること。その上で彼に〝あること〟をさせる、それが勝利条件だった。


 そのためにいくつかの策を用意した。


 一つ目が〝人質が捕らえられている場所に入り込む〟こと。もちろん実際に侵入してなどいない。あれはほとんど久我の能力に頼り切った方法だ。すなわち異界の光景が映ったスクリーン、という幻覚を球技場の真ん中に出現させ、その中に契とクロマを登場させた。


 言葉にすればそれだけのことだが、あの場にいた全員に幻覚を見せられるだけの力量がなければ不可能だ。久我の能力適性の高さ、そして恐らくは母親を助け出すために磨き上げた技術に助けられた形になる。


 二つ目が〝クロマの悪魔化〟。悪魔化も何もクロマは最初から悪魔だが、服と羽根を偽れば天使に見えることは証明済みだ。ただの着替えも演出によっては変異になる。前夜のレクチャーが功を奏したのかクロマの演技はかなり真に迫っていた。


 この二つはどちらも相手から冷静さを奪うための仕掛けだ。徹底的に相手が嫌がる言葉をチョイスした問答も相まって効果は劇的だった。人質を逆に利用する、全てを責任問題に転嫁する、など口八丁的な手法が三つめの策に入るかも知れない。


 そうして彼は誘われた。


 反逆者である契を始末しようと片手を振り上げ、傍らで待機する天使に指示を出す――それこそが、待ち望んでいた好機だった。


 相手の能力が発動する寸前で、久我に幻覚を差し換えてもらったのだ。久我の能力は離れた地点の光景を見せることも出来るし、全く架空の映像を作り出すことも出来る。後者は契を襲撃した際にも使っていたものだ。


 結果、彼らの瞳には誰一人として助かっていないであろう無残な末路だけが映ることになった。一度に複数の作業をすると制御がしづらくなる、とのことだったので、契とクロマは幻覚の中から抜け出せないまま隠密行動で隠れていた。


 ここから先の展開はもう、契の手を離れている。勝手にエージェントが決着を付けてくれるだろうと思っていた。ただ集まった全員が立ち直れないほどのショックを受けてしまう場合を想定して、榎本に先導を頼んだというわけだ。相手の処遇も一任した。


 エージェントたちの怒りを考えれば殺されてしまってもおかしくないが――それは当事者でない契が口を出すべきことではない。


「?」


 目の前の榎本が黙り込んだ契の瞳を覗き込んできた。誤魔化すように苦笑いを浮かべる。気にしていてもしょうがない。


「いや、何でもないよ。それよりありがとう、助かったよ」


 使用した方法が方法だっただけに契が説明すると面倒な事態になりかねなかった。事後報告の役を買ってくれた彼女には感謝するべきだろう。


「どういたしまして! そういう雑用なら奇跡的なコミュ力を持つ榎本ちゃんにお任せってことで! 今後も頼って良いんだからね?」


「今後って……えっと。あの、一応僕たちは敵対組織なんだから、あんまり関わらない方が良いと思うんだけど」


「なんと! それはこのわたしにろくな恩返しも出来ない底辺まで落ちぶれろって言ってる? あんまりだよね……?」


「いやそそこまで言ってないんだけど」


 大げさにリアクションを取る榎本に、思わず苦笑を零した。


 恩返しも何も、たまたま利害が一致したというだけのことだ。それに、少なくともこのエリアではもうエージェントに狩られる可能性は薄い。友達の危機、自分の命。それらを救うついでに貰える報酬としては破格なくらいだ。


「ううん……」


 困ったように榎本を納得させられる言葉を探す契。


 体面に座る彼女は、笑みの種類を少しだけ変えた。


「……うーんと、さ。真面目なのって苦手だから、ちょっと変かもだけど。でもちゃんと、直接言わないといけないと思うから、聞いてね」


 契を見つめる榎本の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。幸せそうに微笑んでいるのに、泣いている。その表情はとても綺麗だと感じた。


「ありがとう」


 一言ずつ、単語のその意味を噛み締めるように紡いでいく。


「本当にありがとう。お兄ちゃんを助けてくれてありがとう……わたしにはどうすることも出来なかったのに、何か奇跡でも起きないと無理なのかもって諦めかけてたのに。


 多分、キミがその奇跡だったんだね。


 キミを信じて良かった……ううん、それも違う。信じる気なんてなかったわたしを説得して言いくるめたのもキミの方。


 あーあ、ちょっと借りが大きすぎるね? こんなの返せるのかな」


「……それにしては、嬉しそうだけど」


「母の日にカーネーションをプレゼントする子供はみんな笑顔なんだよ? つまりそういうわけ。大切な人が喜んでくれることをするっていうのは、嬉しいことなの」


 純粋な親愛の情。家族以外からそんな感情を向けられることなんて人生の中でそうない経験だ。だから特別なものになる。意識せざるを得ない。その視線に恋慕の熱を感じないことが唯一の救いだった。


 とは言え借りなんて返して貰う必要はない。その気持ちだけで充分だからと繰り返しながら話題の転換を図った。


「そ、そういえばお兄ちゃんは元気?」


「もっちろん! 何たって捕まってる間の食事係はわたしだったんだからね? もう健康そのものって感じなんだから。向こうが狭かったせいで全然運動出来なかったんだ、とか言って今日も朝からランニングしてるよ」


「ランニング?」


「陸上部なんだ、お兄ちゃん。すっごい速いんだよ? もう何かマッハ? マッハって百メートル何秒くらい?」


 マッハは音速だ。それくらいの距離ならほぼノータイム。まさかそれが比較対象として適正なほど速いのだろうか。だとしたら契の陸上に対する認識は大分甘いということになる。


「それでねそれでね――って惚気ようかなとか思ってたんだけどね? 先に一つ質問してもいいかな」


「? どうぞ」


 わざわざ確認を取る、なんて榎本らしくない訊き方だ。相当言いづらいことなのだろうか。彼女はんー、と下唇に人差し指を当てて、少しだけ首を傾げた。


「実は入ってきたときからずっと訊きたかったんだけどね……なんでクーちゃんのこと抱っこしてるわけ?」


「クーちゃん?」


クロマその子


 榎本の指摘通り、クロマは契の膝の上に座っていた。今まで反応がなかった理由は近付いてみれば分かる。彼女は安心しきった様子で口を半開きにし、すぅすぅと規則正しい寝息を立てていた。


榎本の報告の途中辺りから意識はなくなっていたのだろう。


 誘われるように手を伸ばした榎本がそっと頭を撫でると、クロマは気持ち良さそうに口元を緩ませ、何度か身をよじった。言葉ともつかないようなわずかな声が漏れ出る。小さな右手はひしと契の服を握りしめていた。


「何この子欲しい」


「いや僕のだから。……ああいや僕のっていうのはそういう意味じゃなくて違くて」


 反射的に出た台詞に自分でも驚きながら弁解する。クロマに特別な思いを抱いているのは確かだが、こんな冗談みたいな問答すら受け流せないほどその感情は強いのだろうか。大きいのだろうか。


 それはもう、興味関心などという言葉で表して良いものじゃない。それはきっと。


 ――榎本に加えられている刺激が少し強くなりすぎたのか、ついにクロマが目を覚ました。合わせて思考を中断する。


「んぁ……え? あ……舞以?」


「おおう、全然喋ってくれないから嫌われてるかと思ってたのに、最初から名前で呼んでくれるなんて。榎本ちゃんは感激だよ?」


 クロマは段々状況を理解してきたのか、少し申し訳なさそうに謝った。それでも席を譲ろうとはしなかったが。


「いいよーそんなの。それよりクーちゃん、どうしてそんなとこ座ってるの?」


 榎本は質問の矛先をクロマに変えたようだ。その判断は正しい。別に契が強要しているわけではなく、クロマが自分から契の膝に座っているのだから。その理由は契には分からない。


 クロマはしばらく迷ったように視線を彷徨わせた。その瞳は一度契のそれを捕らえたが、固定されることなく通り過ぎ、やがてポツリと言葉を漏らした。


「……怖かったのよ」


 クロマを膝に抱いている契には、彼女がこちらを向いてくれなければその表情を窺うことも出来ない。ただその声音は弱々しかった。


「昨日のあの人と戦う前、あたしと契は一度契約を切ったわ」


 契約したままだと久我の能力の影響下に入れなかったから、やむを得ない事情でそうすることになった。今現在はもう再契約を結んでいるが。


「契約が切れてる間の契は……いつもと全然違う感じだった。やるべきことをやる、それ以外に興味がないっていうような」


「……」


「ち、違うの。今の契は全然そんなことないわ。ただあの時はちょっと怖いなって思ったの。それだけよ。相手と向かい合ってるときはもちろんしょうがないけど、待ってる間とか、終わった後も話しかけてくれなかったじゃない」


 クロマは慌てて取り繕うように言葉を並び立てる。


 ――そうじゃない。


 別に契はそういった評価を下されたところで怒ったりしない。〝何事にも興味がない〟。それは契にとって当然のことで、もうずっと長いこと付き合い続けている自分の人間像というやつで、だから改めて確認するようなことでもなかった。


 ただそれは、クロマと出逢ったことで崩れた。


 契は確かにクロマに興味を惹かれている。クロマとの間に何かを感じ取っている。


 それだけではない。クロマと出会ってから、確実に契の口数は増えている。会話というのは相手への興味がないと続かないものだ、だからそれは、契の意識が全体的に変わってきているということを示しているのだろう。


 それに、クロマは昨日の契を〝以前の契〟のようだと評した。感情はあっても自分の意思を持たない、中途半端な人間みたいだと。契約の切れている間――契とクロマが繋がりを失っていた僅かな時間。それだけでもはっきりと分かるくらい契はおかしかった。


 そちらを異常と定義づけるなら今は正常である、と断言できる。より人間らしいと言っても良い。


 クロマに何かしら影響されたのは確かだが、変化の理由は分からない。ただ少なくとも悪いものではない。そう思っていた。


 しかし。


 〝それ〟は――その大切なものは、そんなスイッチを切り替えるように生まれたり消えたりするものなのだろうか。


 もしそうなら、少し不安だ。


「――契?」


 クロマに見つめられていることにも気付かず、契は無意識の内に彼女の頭を撫でていた。


 クロマに触れていると、安心できるような気がしたから。

 

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