第16話 決戦

  ⑧

 この街の中心から少し北に歩いたところに、大きな市立の球場がある。基本的には本来の用途である野球の大会で使用されるものだが、かなりの収容人数を誇るため、近隣の市からも参加校を募った陸上競技大会や総合体育祭などといったイベントも行われている。


 もちろんそういった行事のない日であれば、時間を区切って借りることも出来る。幸いその日の午後は丸々空いていたので、野次馬を減らす意味合いも込めて全ての時間帯に予約を入れておいた。


 ……無関係の一般人に見られて困るのは向こうも同じなので、わざわざ配慮する必要もなかったかも知れないが。


 エリアリーダーには昨日の内に連絡を入れてあった。


『明日午後一時に市立球技場まで来て頂きたい。無視しても構わないがその場合そちらにとって不利なことが起こると断言する』との文言はどちらかと言えば脅迫状の類だったが、送り付けた久我によればこれで確実に来る、とのことだ。


 そして、榎本を通じて他のエージェントたちにも招集をかけてもらった。いや、招集というのは少し違うか。


 ただ単に、木崎武司がエリアリーダーを倒そうとしているという噂話を時間と場所込みの情報として広めてもらっただけだ。


 恐らく、それで間違いなく大多数のエージェントが足を運ぶことだろう。本当にエリアリーダーが倒されるというなら、そんなに楽しい余興は他にない。


 そしてもし無様にやられるようなら、自分の大切な人に火の粉が降りかからないよう頭を下げなければならないのだから。


 ――事前の根回しを含めた全ての準備を終え、球場に向かう。


 出入り口で受付を済ませてからグラウンドに入っていったのは久我一人だ。目つきの悪い瞳をぐるりと巡らせると、男の姿はすぐに目に入った。午後一時、約束の時間ぴったりだ。どうやら時間には律儀な性格をしているらしい。


 彼は飾り気のない銀縁眼鏡の位置を中指でわざとらしく調節し、近付いてきた久我の全身を値踏みするように眺めた。久我の記憶によればその格好は前回会った時と全く同じものだ。


「……貴様が久我弘臣か」


「ああ。お前とは何度か会ってるはずだが、まあ手駒の顔なんざいちいち覚えてねぇよな」


 久我はホームベースの近くで立ち止まると、小さく溜息を吐いて両手をズボンのポケットに突っ込んだ。内野の真ん中辺りに佇んでいる相手とは少し距離があるが、声は問題なく届く。


「ふん、言葉を慎めよ雑魚エージェント。態度もだ。こちらの采配一つで貴様一人くらいどうとでもできることを忘れてはいないだろうな?」


「ああしっかりと覚えている。何せ人質を取られているんだからな。――ただ残念ながら俺はあくまで仲介人なんだ、お前に会いたいなんて酔狂なことを言ってやがるのは別の奴なんだぜ」


「……何?」


 男の目がすっと細められる。レンズによって鋭さを増しているようにも思える眼光は、久我の表情から真意を見抜こうとしているらしい。


 契との会話に慣れている久我にとってそんなものは威嚇にもならなかったが。


「お前のことだ、外見はともかくデータとして俺の天使の特筆能力ユニークスキルくらいは知ってるだろ? 〝接続描写アナザードロー〟なんて呼ばれてる、離れた場所の光景を映像として映し出すことができる能力だ」


 そう――データ上は、そういうことになっているはずだ。


 完全に嘘というわけではない。久我の能力は幻覚を操るもので、それはつまり視界に干渉できるということなのだから。そういう評価が下るよう、組織による能力査察の際に自分から使用法を制限しただけだ。


 その時は単に〝重用されるようになればより日常と隔離されることになるから〟という理由からくる自衛手段だったのだが、このエリアに配属されてからも頑なに隠し続けていたのは当然――いつか牙を剥くためだ。


 それを成すのは久我自身ではなかったが、今こうして機会はやってきた。


「ピッチャーマウンドより少し二塁寄りの辺りに擬似的なスクリーンを用意してある。あいつと繋いでやるから少し待て」


 しばらく久我と視線の応酬を続けていた男は、諦めたように嘆息して言われた通りの方向を向いた。それでも位置関係的に背後を取ることになった久我への警戒は微塵も削がれていない。


 久我やライラが妙な行動をすれば、いつの間にか現界――平行異界からこの現実世界への移行を終えているお付きの天使に、即座に命令が下ることだろう。


 しかも眼鏡越しの視線の動きを見るに、恐らくスタンドに潜んでいるエージェントたちの気配にも気付いている。それでいて動じないのは、奇襲されたところで問題にならないほど戦闘能力が高いということだ。


 久我には痛いほど分かっている。そうでなければ地方とはいえ長など勤まらない。


 ――ブゥン。


 突如どこからか聞こえたその音は、何かの起動音のように聞こえた。


 時を同じくして、地面にほど近い位置に出現したスクリーンがこの場の緊張感にそぐわない軽薄な顔と声を出力し始める。


『久しぶりだなァ? 元気してたかよエリアリーダー様……今日のお相手はこの木崎武司クンだぜ、ひゃはっ!』

 



 契は未だに木崎の顔を細部まで詳しく知っているわけではない。だがそれでも榎本に披露した時と同様、特徴のある対象は模倣しやすいものだ。


 実際木崎武司という名乗りと男の中の人物像はどうやら一致したようで、彼は眼鏡を押し上げながら苛立ったように舌打ちした。


「……貴様に割いてやる時間など全てが惜しい。早く用件を話せ」


 仮に木崎でないと看破された場合は〝木崎になりすまして潜入している、他エリアのリーダーから送り込まれたスパイ〟という別案を用意してあった。


 そちらでも問題なく動けるようにはしてあったものの、やはり間に合わせの設定では不安が残る。


 それに、最初から見下されている方が煽りやすい。


『あれあれ~? だったら最初からエージェントの呼び出し如き無視すりゃ良かっただけなんじゃねェの? あ、もしかしてあの脅しが怖かったのかなァ?』


 契が一度だけ対面した本物の木崎はこんな口調ではなかった。だが一度この姿かたちを木崎武司だと再認識してしまえば、自然と記憶の方が修正されていく。そういうものだ。


「相当浮かれているようだな。直属の上司を手玉に取れてそんなに楽しいか? それは良かったな……貴様の処分は追って通達する。改めて地位の差というものを思い知るが良い」


 不快感を隠そうともせずに吐き捨て、男は踵を返した。


『あ? もォ帰んのかよ? それならそれでいいけどよォ……それはアンタにとって最悪の選択肢だと思うぜェ?』


「……何?」


 狙い通りにピタリと足を止める男の背を画面越しに眺めてニヤニヤと笑みを浮かべながら、契は疑問に答えるべく一歩だけ後ずさった。行動の意味が分からず男は眉をひそめる。


『ああそォだった、今は俺様がドアップで映ってるんだったか、悪い悪い気付かなかった! ……久我、ズームアウト』


「……ああ」


 久我の合図とともに、スクリーンに映る映像が徐々に移り変わっていく。ピアスと茶髪くらいしか印象に残らない顔から、ラフなシャツを着た上半身が見え、やがて全身が映り込んだ。


 傍らに佇む天使――白装束のクロマは俯いているが既に現界している。


 そしてさらに縮尺が大きくなっていくと、背景までもが露わになった。


「な……っ」


 引き出されたのは驚愕の声。男の目はこれ以上ないほど見開かれ、冷静さを失いかけていることを示すかのように頬を一筋の汗が流れ落ちた。それを拭うことにさえ頭が回らないようだ。


 ……ざわめきはスタンドの方からも聞こえてきた。


 契の後ろに映し出された光景――とある建物の中の一室、それなりの人数が生活していけそうな設備が整ったその部屋の中央に、十数人の人間が寄り添い合って座り込んでいた。


 怯えて縮こまるその姿に傷などは見当たらないが、やはり長く囚われているためか憔悴している様子が見て取れる。


 そう、それは今なお捕まっている人質たちの姿だった。


 不可侵なはずの空間に侵入を許したことを知り、男は声を荒げる。


「貴様、どうやってっ」


『ここがどこか、なんてアンタが一番よく知ってるはずだよなァ? そォだよ、お前が作った異空間だ。人質たちの生活空間だよ……エージェントのみんなもじっくり見ていいんだぜ? リーダー様にはとっくにバレてるみたいだしよォ』


 その言葉に触発されて、というよりは大切な人の現状を確認するために、数人のエージェントが警戒しながらも近くへ歩いてきた。やはり榎本のような例は稀なもので、恐らくほとんど連絡など取れない状況だったようだ。


 まだ生きているかどうかすら不確かだったのかも知れない。


『良いね良いねェ、観客は多ければ多いほど楽しいからなァ――さて。


 そろそろ場も温まってきたことだし、アンタをここに呼んだ理由を説明しよう。お待ちかねだったんだろ?』


 狼狽を押し殺すように下唇を噛んでいる男に、契は軽薄な調子を崩さず続ける。時折クロマに合図を送るようなブラフを織り混ぜ、男の神経を、集中力を奪っていく。


『交渉、だ』


「交渉……?」


『あァ、そうだ。……アンタはもう碌に計上もしてないんだろォが、優秀な俺様はもうとっくに本部推薦にかかるくらいの戦果は挙げてるんだよ。聞いたぜェ、アンタどっかで揉み消してるんだろ?


 真のエリートがこんなところで燻ってるわけにゃいかねェんだ……速やかに俺様を昇進させろ』


 久我に聞いた噂話を契なりに脚色したものを目的と称して突き付ける。最後の要求だけはきっちりと瞳を覗き込んで呪うように叩き込んだ。害意に耐性がない人間なら思わず頷いてしまいそうなほどの圧迫感。


 もちろんそんな格下を相手取っているわけではないが、逆にこれ以上ない真実に映るはずだ。


 エリアリーダーは一瞬たじろいで言葉に詰まったものの、すぐに切り返してきた。やはりまだ足りないか。


「……馬鹿か貴様。それのどこが交渉だ? 事実無根の言いがかりを投げつけるだけでこちらが動くとでも思っているのだとしたら大した能無しだ。昇進どころか貴様など部下にも欲しくない。私の評価に影響する」


『ひゃは、こいつはひでェ言いぐさだな……能無しはどっちだ』


「言葉も通じないのか。交渉は対価がなければ成立などしないと言っている。そしてそれは貴様などに払える代物ではない。格が違う、分を弁えろ屑」


『はっはー! 大爆笑だぜこりゃ、屑に屑とか言われちまった! そォかそォか、まさかとは思ってたがアンタはまだ気付いてなかったのか』


「何だと?」


 気付いていない――そう、何も分かっていない。この状況は既に詰んでいる。そういう確信を刻んでいく。


『アンタはここへの侵入を許した時点で負けてんだよ』


 そんなものは一目瞭然も良いところで。


 もしそれが理解できないのならそれはただの傲慢だ。


「……何を言うかと思えば。まさか善戦しているつもりだったのか? 確かに驚きはしたが、そこは私の領域テリトリーだぞ。貴様が妙な動きをすれば即座に殺せる。こちら側にいるエージェントと共謀しようとしても無駄だ。離れていても常に人質全員の首に刃物を突き付けているようなものだからな」


 複雑な意匠のマスクで顔の半分を隠した天使は、男の後ろで手持無沙汰にブラブラしている。ただその片目は薄く光を帯びていて、彼の言葉が真実であることを雄弁に物語っていた。しかし、


 ただ、それだけだ。それは契に対する脅しとして機能していない。


『人質全員の首に刃……ねェ。だァからアンタは使えねえってんだ。あんまり通じねェからちゃんと言葉にしてやるよ。……人質を一手で取れるのは俺様の方だ。こいつらを殺されたくなければ素直に要求を呑め』


 今度こそはっきりと男の顔色が変わった。少し変色した唇を震わせ、契の言葉を否定しようとする。


「な……何を馬鹿な。それはこちらが取っている人質だ。この私の盾だ。上に立つ者の権力という膨大な力によって築いた強固な壁だ! そもそも殺されたって私には何のダメージも――!」


『はァ……アンタ典型的な無能だな。ここまで言っても通じねェのかよ』


 そんな男に契は憐れみを含んだ視線を向けた。一瞬隣にいるクロマがその横顔を覗き込んだのには気づいていたが、特に反応することもなく続ける。ここでクロマと会話することなど台本にはなかったはずだ。


 その悲しげな表情に、少し心が疼いた気がしたけれど。


『人質はアンタを守る盾であり、それと同時にアンタの最大の弱点でもあるんだよ。もし万が一人質が失われたら……その瞬間、このエリアのエージェントは束になってアンタに襲いかかるだろォな。


 つまりアンタは、盾にするはずだった人質を! 死ぬ気で守らなきゃいけねェってことだよ!』


 反論する余地を奪うために勢いを消さず捲し立てる。両手を広げて酷薄な笑みを絶やさぬよう。相手のプライドを傷つけるように言葉を選別していく。

そういう役割に徹する。


『アンタはエージェントに課したノルマを守らせるために人質を取るっていう最低の手段に訴えた。そして散々横暴に振る舞ってきたアンタは俺様たちから恨みを買った……その時点で人質の役目は、既にアンタにとって交渉のカードじゃなく自衛手段になってたんだよ。


 その人質を殺す? おいおい馬鹿じゃねェの? そんなことしたらアンタはそいつを大切に想っていたエージェントにぶっ殺されるぜ! アンタが昇進を止めていてくれたおかげで、みんなすっかり実力だけは付いちまってるんだからなァ!』


「き、貴様ぁああ……!」


 もう男に冷静さなど微塵も残っていないだろう。歯軋りの音まで聞こえてきそうなその様は、どう見てもまともな判断など出来そうにない。


 相手から正常な思考を奪う――人を騙す常套手段の一つだ。最後の仕上げを無理なく達成するためにも、男にはしばらく激昂していてもらう必要がある。


 ――ふと。


 変化が起こったのは突然だった。


『あ……あぁ……』


 契の隣に立ち尽くしていたクロマが、小さく呻き声を上げながら頭を抑える。イヤイヤと首を振りながら、細い指で赤く輝く髪の毛を掻き毟った。


『――お。よォやく始まったか』


 それを見遣る契の視線にクロマを心配するような色は感じられない。来るべき変化を淡々と受け止めているといった様子だ。口元には変わらぬ乾いた笑みが浮かんでいる。


 その場にいる誰もが注目する中、クロマの異変は続いていた。耐えきれないように崩れ落ち、両の膝を床に付いてうずくまってしまう。鈍い痙攣に身体を震わせ、一際大きく叫び声を上げた。


『あぁあああああああああああああ!』


 次に起こったのは、侵食。


 一言でその状況を表すなら恐らくそれが一番適当だ。つい先ほどまで純白だったクロマの羽根にポツポツと黒点が生まれたかと思うと、その染みは拡大し瞬く間に翼全体へと広がった。その余波は服にも生じ、身体の末端に近い部分から徐々に染まっていく。黒く、ただ黒く。


 絶叫が収まるころには、クロマの外見は完全に黒で上書きされていた。


 画面の向こうから呆然と状況を眺めていた男からようやく声が上がる。


「な……き、貴様それはどういうことだ! 一体何が起こっている! 説明しろ!!」


『はははははははは! 本当にあの野郎の言った通りじゃねェか! いいか? 天使は人間によって、その善性を根拠に存在を定義づけられてる。悪魔はその逆だ。もともと同一だった両者の間にある差なんて今はその程度なんだ。


 ――だからエリアリーダー様から人質を奪い去ってそれを盾に交渉なんて悪徳を積んだ俺様の天使は悪魔になる素質充分ってわけだ!』


 それが、エリアリーダーと対峙するにあたって契が用意した最大の嘘だった。


 天使は悪徳を積むと悪魔になる――そんなことあるはずがない。前例など当然ないし、論理的に考えて是と出来るような意見ではない。


 だから信じられるような状況を作り上げた。映像を用いた視覚的な説得力、人質の意味を教えることで築いた優位性、煽りに煽った結果の判断力喪失。


 全てはここに繋げるための布石だ。


「悪魔に……なる、だと……」


『そォだよ、喜べエリアリーダー! 天使の悪魔化、なんて異常事態は未だどこのエリアでも聞いたことがねェ! 正真正銘初の事態……初めての不祥事だ! 


 ちょっと前の討伐指定悪魔憑きすら倒せてねェってんだから、一体アンタはどれだけの責任を負ったら許されるんだろうなァ!?』


「……ふざ、けるな。ふざけるなふざけるなふざけるなあああ! この私の管轄で! よくもこんな勝手な真似をしてくれたな! 私の経歴に傷を付けやがったな! 殺す、貴様はこの場で殺す!!」


 異常事態。責任。自分からこんなことを起こしておきながら、全てを押し付ける。相手が管理者側の人間だからこそ、そしてそれほど高くない位置にいるからこその荒業だ。中間管理職、という表現から作られた筋書きだった。


 男がしがみついている地位は、権力は、ただでさえ小さく脆い。必死で守りたくもなるというものだ。


 契はダメ押しとばかりに頬を釣り上げた。


『それによォ……もしかしたら、アンタの天使も悪魔化しちゃうかもな?』


「貴様ぁああああああああああっ!」


 もはや形振り構わなくなった男が思いきり片手を振り上げた。待機していた天使が命令にノータイムで反応し赤い光を解き放つ――空間操作。それは契の想定よりずっと速い。一瞬、などとは言うが実際瞬きするより遥かに速く効果は現れていた。


 異界の空間自体が契の身体を外敵とみなして襲い掛かってくる。存在している場所そのものが意思を持っているかのように、うねり脈動して契を排除しようとする。


『ちぃっ! クソっ発動が速すぎ――ぐぁあああああああああ』


 ……悲鳴の後、契の身体は跡形もなく消え去っていた。傍らのクロマの姿も既に失せている。


「はあ……はあ……っ」


 相手が反応できないタイミングで能力を叩き込み押し潰した確信を得て、男は息を乱しながらもわずかに笑みを浮かべた。


 しかしスクリーンの向こう側では男の想定とは違い――ずっと大きな被害が巻き起こされていた。


 崩れる。崩れる。崩れる。


 契を起点として生まれた空間の歪みは、二人を呑み込んだところで止まることなく膨張を続け異界全体へと広がっていく。際限などない。

 

 暴力的なまでの勢いで規模を増すと、訳も分からず逃げ惑う人質たちも例外なく葬っていく。悲鳴は掻き消された。音さえもその空間に存在することを許されなかった。


 プツッザーッザッザザッザー……。


 常軌を逸した音を立てて映像が停止したのはその直後のことだった。




 フラフラと夢遊病患者のごとくスクリーンに近付いた男は、それがもう何も映さないことを知ると、呆然とした口調で呟いた。


「な、何故……嘘だっ。私は、私を冒涜したあの異端者を、確かにあれだけを押し潰そうと……!」


 空間操作が暴発したことなど今までに一度もない。有用な能力をそれだけの精度で操れたからこそ今の位置にいるのだ。失敗など本来なら起こりえないはずだった。


 しかし先程までの状況は誤魔化せそうもない。


「何故だ……何故……くそっ」


 忙しなく眼鏡を弄りながら疑問の言葉を口に出しても、もう彼は思考などしていなかった。犯してしまった失敗。防げなかった反逆。それらは全て、責任という形で自分に返ってくる。築いたものは無に帰すだろう。原因の究明などしていられる心境ではない。


 だからその呟きは無意識の内に紡がれる譫言のようなもので、そこに意味はなく。何もかも虚ろだった。


 そんな状態だったから、いつの間にかエージェントに周りを囲まれていることにも気が付かなかった。


 エージェントたちの表情にも生気は宿っていない。反応は様々だが、あまりに残酷な現実に頭が付いていかないようだ。まともに動けるような精神状態ではないだろう。


 そんな彼らを引っ張ってきたのは、一人の少女だった。


 聞こえていないことは分かっていても、男に向けた言葉は自然と零れた。


「……わたしは、お兄ちゃんを取り戻すためだけに、貴方に従ってたんだよ。ねえ、なんで? ノルマはちゃんと守ってたのになんでお兄ちゃんは帰ってこないの?」


 俯いたまま、恐ろしいほど平坦なリズムで責めたてる。淡々と。無表情なのにはっきりと怒りの色が宿っている。


「おかしいよね? 義務を果たしてたのに裏切られるなんて正しくないよね」


 それはエリアリーダーに反省を促すものではなく、どちらかと言えばエージェントを動かすための呪文だった。


「もうお兄ちゃんは帰ってこないけど――貴方だけは、絶対に許さないから」


 それはきっかけだ。ここにいる誰もが目の前の男に対して憎悪を抱いている。

たった今、自分の最愛の人物の仇であるという決定的な事情も上乗せされた。


 呆然自失としていても、現実逃避していても、それは体を動かすための糧となるには充分すぎる理由だ。


 居合わせた全てのエージェントが動いたわけでは決してない。


 それでもようやく状況に気付いたエリアリーダーの精神はズタズタに引き裂かれていて、複数のエージェントに対抗できるほどの余力は残されていなかった。

 

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