第14話 スカウト

 〝例の悪魔憑き〟こと契がエージェントを一人無力化したのは学校の屋上だ。


 だからノルマを達成しようと躍起になっているエージェントはこの辺りに何人もいた。天使の存在を示す光点がこの辺りに集中しているから目視で第一深層を覗き込む方が手っ取り早い、とはライラの言である。


 実際、一人目の対象は探すまでもなく見つかった。


 彼女はどこか別の学校の制服姿で契の家から五分ほどの距離にある住宅街をブラブラと歩いていた。時間が少しだけ遅いことを除けば普通に登校中の生徒にも見えるが、その後ろには確かに天使の姿がある。

「ちょっといいかな?」


 あえて走らず、後ろから追いついて声をかけた。首を傾げて立ち止まり、肩付近まで伸びている茶色の髪の毛を揺らしながら振り返った少女は、契と久我――というより、その後ろの二人に気付いて少し目を見開いた。


 二人、だと単位がおかしいのかも知れないが。


「お? おお、ナンパかと思ったらお仲間さんだ。ども~」


 少女はにぱ、という擬音が似合いそうな気持ちの良い笑顔で明るく手を振ってきた。どうやらなかなか高い社交性を持ち合わせているらしい。見知らぬ男二人に突然話しかけられるというシチュエーションはきっと多少なりとも動揺する場面のはずだ。


 そもそも怖気づいていないのか巧妙に隠しているだけなのかは分からないが、どちらにせよ会話が成立しやすい方が良いに決まっている。


 とりあえず名乗ろうとすると、開いた手の平を目の前に突き付けられた。


「ちょい待った! 思い出すから。えっとね~、茶髪にピアスのセンス悪いキミが木崎くん。隣のこわ……じゃなくてえーと裏社会の仕事に従事してそうな、野蛮じゃなくて精悍な顔つきのキミが久我くん、でしょ? どう? 違う?」


 ……少女は見た目に反して、なかなか辛辣な語彙を持ち合わせていた。契はそう見えるよう変装しているから特にダメージはないのだが、隣で久我がぴくっと反応している。


 無理もない。


「誰がヤクザだ。言いかけてやめた強面の方がマシだったじゃねえか」


「え? 強面? 違う違う、怖々と物陰からじゃないとまともに顔も見れないって言おうとしたの。でもそんなこと言ったら怒るかな~とか思って」


「その予測は大正解だ名探偵。今俺は非常に怒っている」


「え、なんでさ、言わなかったのに……って、ああっ!? キミ、騙したのね!」


「僕話しかけただけなんだけど……」


 自爆の責任を移されても困る。というか純粋に驚きだ。初対面で久我相手にここまではっきり言える人間は初めて見た。


 対人間で発生する怖い、という感情は基本的に相手に敵わないという心理に起因するものだから、自らの天使に自信を持つエージェントたるものビビる理由などない、というようなことだろうか。


 単に物怖じしない性格だという可能性ももちろん考えられるが。


「ふう。まったくもう。それで、どうかしたの?」


 ……十中八九後者だろう。彼女はしばらくの間(なぜか)腰に両手を添えて契に説教をしていたが、途中で飽きたらしい。ずいぶんと適当なものだ。


「ああ……えっと、訊きたいことがあったんだ」


「訊きたいこと?」


「うん。――このエリアのエージェントを働かせるための人質、それを世話する役って、誰がやってるんだろう。その人本人か、それを知ってる人、どっちかでも知っていたら教えて欲しいんだけど」


「……」


 人質を世話する役。

 

 その発想自体は単純なものだ。人質はエリアリーダーにとって最大にして唯一の武器。それを失うわけにはいかないから、人質とはいえ最低限の生活は許しているはず。しかし自らがそんな役を買って出るとも思えない。


 恐らく部下に――エージェントか、それに類する関係者の中に人質の世話を任されている人材がいる。そんな、確たる証拠はないもののそれなりに説得力のある憶測だ。


 その人物とどうにか接触することが、計画の第二段階だった。


「ふーん……今この時期に訊きたいこと、って言うからてっきり例の悪魔について情報の共有でもしましょってことなのかと思ってたけど、そうじゃない、と。えっとキミ? それって割とオカシな事だってのは分かってる?」


 契の瞳を覗き込みながら間違うことなき疑いの視線を向けてくる。探るような、とかそんな曖昧なものじゃなくはっきりと。非常にストレートな感情表現だ。分かりやすい、と言っても良い。


 それに一応、織り込み済みの反応ではある。


「うん、まあ。でも僕じゃ、というか僕の天使じゃ今回の悪魔はどうにもならないんだよね。もちろん僕がやらなくても誰かしらが討ってくれれば良いわけだけど、それでも万が一のことを考えて……」


「元から絶とう、的なこと?」


「そうなるかな」


 頷くと、警戒態勢が一瞬で解かれた。……将来が不安になるほど素直な子だ。いつかマルチ商法か何かに引っかかるんじゃないだろうか。


「そっかそっか……キミあれだね、なんか聞いてた印象とだいぶ違うね。天使をいたぶるのが趣味、とか聞いてうっわ~きも~いとか思ってたんだけど」


「真っ向からぐいぐい来るね。……あれ、実は誤解なんだ。月のノルマをこなそうと思ってある悪魔と戦って、勝ったのは良いんだけど呪縛? みたいなのが残っちゃって。それからしばらく体中拘束されたままになっちゃったんだよ」


 そういう設定だ。クロマも事前の打ち合わせ通りうんうんと頷いてくれる。もちろんその両手に手錠などはない。流石にそんな人格破綻者だと思われていてはやりづらいので、矛盾のない範囲で改竄させてもらうことにした。


「へ~。そだったんだ。ふむふむ……ん、まあ面白そうだし教えてあげないこともないぞよ?」


「何故に疑問形?」


「いいじゃん。えっとね~、その子は榎本舞以えのもとまいっていうんだけど、今はこのエリアの座標で言うとXが136のYが59地点にいるよん。すっごい可愛い子だから一目で分かるよきっと」


「……そっか、ありがとう」


 一発目から有益な情報を手に入れられるとは思っていなかったから、知らず安堵の息が漏れた。


 礼を言いながらその場でスマートフォンを取り出して操作……するフリをする。


 エリア内の位置を座標管理しているなんてそもそも知らなかった。一般的に使われている緯度経度とは別のものだろう。エージェントでもない契の携帯から調べられる理由がない。


 隣で久我も同じことをしてくれるだろうから、先にそっちの結果が出たことにすれば良い。

 

 そう思ったのだが、そもそも彼は検索も何もせずに微妙な表情で突っ立っていた。


「……久我?」


「あー、お前はこいつのこと知らなかったか。まあ正直言ってそんな分かりやすい外見してるわけでもねぇしな」


「むっ、失礼な。こんな美少女を捕まえて」


「……こいつが榎本舞以だよ、その座標は調べるまでもなくここのことだ」


 地面を指さすジェスチャー。


 ――え。


 ぽかんと口を開けて目の前の少女を見つめると――彼女は悪戯っぽく舌を出してからニンマリとした笑顔を見せた。


「はーい、すっごくすっごく可愛い美少女エージェント榎本舞以ちゃんとは、このわたしのことなんだよ?」

 



  ⑥

 目の前の少女は榎本舞以という名の自称美少女エージェントだった。


 自称美少女という単語の語呂の良さが気になるところだが、つまるところ彼女こそが契の欲しい情報を持っている人間ということだ。


 情報料、というわけでもないが、自動販売機で買ったミルクティーを献上する。ベンチに腰掛けた榎本はそれを笑顔で受け取るとすぐ隣の場所をポンポンと叩いた。


 座って、というジェスチャー。


 そのシチュエーションは少し恥ずかしさを感じる類ではあるものの、特に断る理由もない。


 ――長い話になるかも知れない、ということで移動した先は見覚えのある森林公園だった。まだ子連れの家族なんかが現れる時間には早いらしく、誰もいない広場は妙に寂しい。


 話の内容が内容なだけに、聞かれなくて済む状況は歓迎すべきなのだが。


 ちなみに久我は榎本からの誘いを一瞥すらせず言外に拒否して、一歩離れた所に腕を組んで立っている。


「おおう……嫌われちゃった。機嫌直してよ、ね? ミルクティーあげよっか? 飲みかけだけど」


「何故それで機嫌が直ると思うのか疑問だ」


「おっかしいな……わたしの飲みかけペットなんて時価にして数百万の価値があるとかないとか、とある信頼できる筋から情報が入ってるかもなのに」


「ならオークションにでも出してくるんだな。汚くない金なら喜んで受け取ってやる」


 久我の背で控えているライラが不安そうに契の方へと視線を寄越す。確かに基本冷静な久我にしては珍しい態度かも知れない――が。


 それも当然だ。久我はそもそもそこまで怒ってなどいない。


 契の瞳には最初から〝契がボロを出したとしても気付かれないよう、榎本の注意を引き付けてくれている〟風にしか見えていない。それは実に他人想いの久我らしい行動だ。


 分かった上で便乗する。


「あの……久我? そろそろ本題に入りたいんだけど」


「……契が言うならそうしよう。早く話せ」


 はーい、とあーいの中間みたいな微妙な響きで返答しつつ、ミルクティーを一口飲んだ榎本はようやく話を始める気になったらしい。体を二人に向け、芝居がかった咳を一つ。茶色の髪がふわりと揺れた。



「こほん。まあ情報も何も、わたしがその、人質になってるみんなのお世話係ってやつなんだけどね?」



 ――しばらく単語の意味が理解できなかった。思わずまじまじと榎本の顔を覗き込んでしまう。横合いからいつまで見つめ合ってんのよ、との呪詛とともに頬をつねられなければずっと呆けていたかも知れない。


「……本当に?」


「ここで嘘吐く理由なんてないでしょーよー? これでも自分から志願したんだからねん。相棒てんしの能力的にもピッタシだったみたいですぐ採用されたってわけ」


 天使の能力。少しだけ状況を想像してみる。人質の管理に必要なものとはなんだろう。少なくとも普通の人間に不可能なことはないような気がするが。


「何か特殊な技術が必要なの?」


「んー、まあ世話って言っても基本的にはご飯作るってだけだよ。衣食住の真ん中以外は元々わりかし快適なはずだし。でも、普通はそもそもそこに行くことも出来ないんだよ。


 ここのエリアリーダーの得意技――空間操作。仰々しいよね、強そうだよね。漫画なら間違いなく後半に出てくる強キャラだって。


 ……んまあそれはさておいて、そんなこんなで人質たちはみんなちょっと特殊な場所に隔離されてるの。えっとなんてーか異空間、みたいな? 平行異界とは違うんだけど、似たようなとこ。そういうのを自由に作ったりできるみたい。


 普通は作成者本人の許可を得ないと入れないし、実際前任のお世話係さんは毎回わざわざ道を作ってもらってたんだって。そこでわたしってわけ」


「やっと出てきたね」


「ヒーローだもん! 遅れてやってこなきゃ嘘ってもんでしょ! ここで明かされるわたしの能力! それこそが――転送、なのです。


 ……まー自分が飛ぶんじゃなくて、小さめの物を座標指定で送ったり戻したり出来るだけなんだけどね。異空間にもちゃんと座標が設定されてるから飛ばせちゃうんだよ。数値は全然意味分からん感じなんだけど」


 その空間に探知結界がくっついてるみたいで、何かしようもんなら一瞬でばれちゃうんだよねこれが……と自嘲気味に零す。あるいは、明るい態度も虚勢の一環なのかも知れない。そんな風な、疲れた笑みだった。


 もしかして、というか人質の世話係に志願する理由なんていくつもない。捕らえられている誰かを救い出そうとしたことがあるのだろう。もしくは能力からして、手紙か何かで安否を確認しようとしただけなのかも知れないが。


 どちらにせよ好都合だ。


「その作戦、成功するかもしれないって言ったらどうする?」


 榎本の動きがピタッと止まる。賛否はともかく――食いついたのは明白だった。




 ――契の考えた作戦は、こうだ。


 まず、クロマは守る。そして彼女が望むなら自分も死ぬわけにはいかない。


 しかしそれでも、数少ない友達を見捨てるなんてことは出来そうもない。久我の母親が殺されるようなことにならないよう、ノルマは何とかしなければ。


 ただそのノルマこそがクロマを倒すことなのだから、これは二律背反というやつだ。同時に達成されることは決してない。


 ……それならノルマをなくしてしまうしかないだろう。


 より正確に言えばノルマを課している張本人――この地域のエリアリーダーなる人物を倒す。何らかの方法で天使との契約を切らせる。そういうことだ。


 話を聞いた直後、久我は思いっきり顔をしかめた。相手の力量が分かっているから素直に賛成できないが、それでもそれ以外に上手い方法を思いつかない、と。既に全く同じ結論に至っていたが、ただあまりに荒唐無稽すぎて諦めたのだと。


 それはもちろん正しい判断だ。久我一人でエリアリーダーとやらに勝てるようならとっくに誰かが実行している。


 だから援軍が必要だった。と言っても、そのためにエージェント一人一人を説得するのは時間的に無理がある。


 エージェント全員を動かせるくらいの〝何か〟――それはご丁寧に、最初から用意されていた。

 



「人質を――」


「待った! 待って。ちょっと……その先はまだ言わないで」


 隣に座っていた榎本が突然契の言葉を遮って立ち上がった。その拍子に半分以上残っていたミルクティーのボトルが地面に落ちたが、思い詰めたような真剣な表情から察するに気付いてすらいないようだ。俯いたまま一歩後ずさる。


 その脚はわずかに震えていた。


 少し待ってから漏れ出た声に先程までのような明るさはない。


「あのさ、わたしあんまり頭良くないからね? だから多分それっぽいこと言われたら信じちゃうんだ。人質にされてるみんなを助けられる作戦があるって知ったら、縋らずにはいられないんだよね」


「……そう、それなら」


 榎本は大きく首を横に振る。自らの迷いを振り切るように強く勢い良く。


「でも駄目なんだよ。だからこそ、これ以上話を聞いちゃいけない。……だってキミ、悪魔憑きでしょ?」


「っ!?」


 今度こそ本当に息が止まるかと思った。


 契がいくら演技を得意としているからと言って、常に誰にも見抜かれないというほど過信しているわけでは無論ない。可能な限り模倣はしても、偽物は本物になれないことを契は知っている。


 だからいつでもバレたときの対応策は考えている、つもりだった。


 ただそれは今回の場合、あくまでも自分が木崎某ではない、と気付かれた場合を指すのであって、前触れも特になく直截に正体を見透かされるとは想定していなかった。しかも……タイミングが絶妙すぎる。弁解の余地がない。


 表情こそほとんど動いていないが、契の驚愕は充分に伝わってしまったらしく、榎本は小さくにぱ、と笑った。


「わたしの相棒が一番得意なのは転送だけど、もっちろんそれだけじゃないってわけ。影響遮断オールキャンセル――一時的にだけど、他の天使とか悪魔の能力を受け付けなくなるって感じ。コスト的にお高いからあんまり使ってると上に怒られちゃうんだけど、隠密行動みたいな常時発動系の能力も解除できるから便利なんだよね。


 それで見えちゃった……その子の羽根、すごく綺麗な黒だった。あ、演技はそりゃもー完璧だったよ? 完全に信じちゃってたわたしってばホントダメダメだなあ」


「……」


「多分ね、作戦を話してくれたらわたしは協力するよ。キミ頭良さそうだもん。きっとわたしじゃ思いつかないような、ホントにみんな助けられるのかもって思うような、そんな風に勘違いしちゃう作戦ができてるんでしょ?


 でもキミが悪魔憑きだって知ってるわたしはそれを素直に受け入れたくない。だったら耳を塞ぐしかないじゃん」


 耳を塞ぐ。それは契のような手合いに対して最も効果の高い反応だ。どんなに芸が上手くても観客を集められない手品師に価値はない。頭が良くないとは言うが、相手の本質をしっかり見据える力は相当なものだ。

 

 彼女は視線を僅かにずらし、クロマの方へと向けた。その憂いを帯びた笑顔に邪気はない。恨みも憎しみもなく――それでも唇は決意に引き結ばれていた。


「わたしはノルマだから悪魔を倒してるだけで、悪魔が実際のとこ悪者なのかはたまた何者なのか、全然知らないよ? でも、少なくともキミと同じ立場には立てないよね。だってキミは人質を取られてないから。


 わたしたちと違ってキミにはリスクがないんだ。


 捕まってるみんながどうなったって関係ないでしょ?


  だからキミとわたしは共感できないよ……わたしは、絶対にお兄ちゃんを助けたいの。キミがそれを脅かす可能性があるのなら。


 ――ここで、殺す」


 静謐な舞台に立つ指揮者のように、厳かに華麗に腕を振り上げる。その合図に呼応して傍らの天使が準備を完了させたのが分かった。気配、もしくは存在感。あるいはこの世界に触れる実質的な質量が増す。


 転送が得意だと榎本は言っていた。それは何かを届ける使い方だけでなく、攻撃にも応用できる能力だ。殺傷性のある武器を投げて相手の背後に出現させるのも良いだろう。

 

 いや、例えば敵の心臓の辺りにでも直接叩き込めるのなら、凶器でなくても構わないのだ。要する時間は文字通り一つ瞬きする程度――まず避けられない速さである。


 そもそも契の体は誰かと争えるようになど出来ていない。そうなってしまった時点で敗北は確定している。


 ……もう少し構築が遅ければ、きっと間に合わなかった。


「違うよ……そうじゃない」


 どうすれば良いのかと取り乱しながらも契を護るように身体を寄せてきたクロマを宥め、既に臨戦態勢に入っていた久我を目線だけで制する。


「僕が悪魔憑きだから作戦に乗れない? むしろ逆だよ。もし僕がエージェントだったらこんなのは成り立たない」


 榎本の纏っていた空気が僅かに変わる。契の言葉の意味が分からない、と言うように、訝しげに眉根を寄せる。しかしその手は天を衝いたままだ。警戒を解いたわけではない。


「確かに、今僕の考えている作戦はあまりエージェントの安全に配慮したものじゃない。危険な博打だと笑われるかも知れない。可能な限り上手く立ち回るけれど、情報が足りない以上、何から何まで保証することはどうしても出来ない」


「……ほらやっぱり。それは嫌なことなんだよ? みんなが助かるか全部が台無しになるかの二択なんて選びたくない。それならわたしは現状維持を取るって決めた」


 平行線だね、と榎本は笑う。諦めたように。


 彼女にとって契は多分、希望だった。何もないところから突然降って湧いた可能性。それが悪性の種だと知りながらも縋らざるを得ないというのなら、その願いは相応に根深いのだろう。


 でもそれは諦めないといけない。リスクが高すぎるから手は出せない。そう思われているのなら……分からせてやれば良い。


 この作戦で榎本に不利益なんて生じない。


「そうだね。……でも、もし仮に失敗したとしたら、もしくは失敗しそうだと思ったなら、その時は榎本さんが僕を殺してくれればいいよ」


 その一言で榎本の表情が一気に崩れた。極度の緊張感によって保たれていた面持ちはきょとんと呆けたそれに塗り替えられている。あまりに予想外の台詞を放たれてスイッチが壊れてしまったように。


 腕の中で大人しくしていたクロマがピクッと反応したが、抱き締めるようにして言葉を封じ、そのまま強引に言葉を続ける。


「僕が純粋なエージェントじゃなくて、エージェントに紛れ込んだ悪魔憑きニセモノだから、僕一人を悪にすれば全てに片が付くんだよ。仮に僕がエージェントだったら集団での反逆だ。その場合人質がどうなるか分からないけれど、今回はみんな悪魔憑きである僕に唆されてるだけだからね。成功すればそれで良いし、失敗したら全部を僕に被せて討伐すれば良い。


 ……もう気付いてるかな? 例の討伐対象、あれ僕のことだよ。そして戦闘能力は恐ろしく低い。倒しちゃえばノルマもクリアだ、どっちに転んでもそう悪くない結果になると思うんだけど。


 それでも、反対なのかな」


 ――もう榎本から強い意志は感じられない。腕は力なく下ろされ、相棒の天使もつまらなさそうにそっぽを向いている。むむむ、と悪足掻きするように唸ってから吐き出された溜息を、契は降伏と受け取った。


 ただ反対意見は別のところから上がった。それはもう物理的に。


「ったあ!?」


 じたばた暴れていたクロマが思いっきり飛び上がり、後頭部を契の顎に直撃させたのだ。半ば本気で涙が出るくらいの衝撃。顎への強打はプロボクサーでも脳震盪を起こすことがあるという噂が脳裏を掠めた。もっと痛くない抗議の仕方はなかったのだろうか。


 しかし涙目なのはクロマも一緒だった。両手で頭を抑えながら上目遣いでぐっと睨み付けてくる。


「あんた、またそんな――」


「……大丈夫だよ、クロマ。ちょっと前に約束した通り、僕はもう自分の命を軽視するつもりはないから。今のは失敗した場合の話だ。僕は一応そんな風になる状況を想定こそしても、実際にそうなるだなんて想像もしてないよ」


 本心だった。というか当たり前だ。今の契にとってその約束が全てだと言っても過言ではないくらいだというのに。


「……むう」


 しぶしぶながら、という様子ではあったがクロマも頷いてくれた。


 少し離れていた榎本が極まり悪そうに曖昧な笑みを浮かべて近づいてくる。両手は完全に高く高くホールドアップ。屈服というより万歳だろうそれは。別に構わないが。


「じゃー一応、結成記念とかしとく? みんなで手重ねて、えいえいおーみたいなやつやっとく?」


「いらねぇよ。ガキかよ」


「あ、そんなこと言って榎本ちゃんの綺麗な右手に興味津々でしょ? ほらほら、今なら触っても怒んないよ」


「てめえ……」


 久我は案外煽り耐性がないのかも知れない、などと今更友達の新情報を見つけながら、頭の中で情報を整理する。


 作戦に必要な鍵は揃った。……あとはそれらをじっくり調整しながら決行を待つのみ、だった。

 

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