第9幕 //第4話

 嫌な予感がした。


 終礼の鐘を背中で聞きながら、俺は無造作に引っ掴んだ鞄を片手に教室を飛び出した。

 廊下を駆け抜け階段を走り降り、気もそぞろにローファーに足を突っ込む。朝の雨で濡れたローファーはまだじっとりと湿っていたが、それを気に止める余裕すらなかった。


 校舎から外に出ると、幸い雨は止んでいた。ただ、頭上には未だ、分厚い灰色の曇が垂れ込めていた。


 北門を出て、坂を駆け下りる。分岐路まではすぐに着いた。そのまま勢いを緩めずに左へ曲がり、住宅街までの道をひたすら走る。

 俺の脳裏には、昨日見た希の顔がこびり付いて離れない。瞳を揺らして微笑んだ、あの寂しげな顔がずっと俺を見上げている。


 ––––頼むから。


 どうかどうか、予感が外れてくれ、と俺は願う。

 いつものように、テストのヤマとか四択問題とかくじ引きを外すように。頼むから外れてくれ、と。


 住宅街を抜ける風が俺の頬を撫でていく。真っ直ぐな道の向こうは、近いようで遠い。動かないはずの赤屋根の家が、いつもこの道を通る時より小さく見える。

 何かがどんどん遠ざかっていくように思えて、俺は必死で走り続けた。


 あーくそ。やっぱ、ちゃんとサッカー続けとけば良かったな。


 走りながら、ふと、後悔の念が頭を過ぎった。

 卓たちと遊ぶようなサッカーじゃなくて、部活で鍛えていた頃のようなサッカーを続けておけば良かった。そうしたら、きっともっと、速く走れるのに。あいつの元に、直ぐに向かえるのに。

 同時に、俺は以前希に言われたことを思い出す。自分は球技も足もダメダメなくせに、“唯一の運動だったサッカーもしてない玲央くんとか、すぐに鈍っちゃうんだからね!”だっけか。俺が卓たちとサッカーやってんの知らねぇだろ、って突っ込みたかったけど、卓たちとの事は秘密だし、何より体育の自習をサボっておいて切り返すような言い方をしたら、凄い形相で怒られそうだと思ってやめた。

 

 あいつの、希の怒った顔が物凄く怖いだなんてクラスの奴らはきっと知らない。そして、これも知らないだろう。怒った後のちょっぴり泣きそうな顔が、いじらしいくらい可愛いなんてことは。


 あぁもう、何思い出してんだ俺。


 少しだけ、心臓のあたりが軋むように痛んだ。きっと休みなく走り続けているせいだと、そう言い聞かせるように、俺はシャツの胸元を握り締めた。



 普段であれば夕飯の買い物や帰宅で行き交う人が多い時間だが、どんよりとした空のせいか、今日は少ない。その中を猛然と駆け抜ける俺に、道の端へと寄った老夫婦が不審そうな目を向ける。息が上がって声が出ない俺は、申し訳程度に頭を下げて再び前を向いた。

 次の角を曲がって坂を下ると、ようやくこじんまりとした吉田写真館の建物が見えて来た。そのガラス張りの館内に、明かりは点いていない。

 

 俺は漸く力を抜いた。全速力で動いていた足だけが、急くように前へ出た。


 アスファルトを蹴る音が止んで静かになったところに、俺の荒い息の音だけが聞こえている。心臓が激しく波打って、顔は火照ったように熱を持っていた。

 ふらつく足を何とか持ち上げて、俺は一歩、また一歩と吉田写真館に歩み寄る。


 “頼むから”


 そう祈ったのは、わずか十分程前だったか。


 “どうか予感が”


 震える足を、懸命に前へと出す。


 “外れてくれ……––––”



 CLOSEDと彫られた板がドアノブにかけられた扉には、真っ暗な館内に浮かび上がるように一枚の白い紙が貼ってあった。

 “諸事情により閉店させて頂きます。今までの皆様のご愛顧、誠に有難うございました。––––吉田写真館”

 白い紙には、ただそれだけ。ただそれだけが、画一的な字で書かれていた。


「嘘、だろ……」

 俺はカクンと膝を折るように、扉の前に崩れ落ちる。アスファルトのゴツゴツとした表面をもろに食らったが、そんなの比にならない程、俺の胸は張り裂けそうだった。


 予感は、当たってしまったのだ。


「どうしてっ……!」

 握りしめた拳で地面を叩く。俺の問いに答えてくれる者はいない。ただ、アスファルト上にまばらに散らばった砂利だけが無情に突き刺さる。

「どうして、何も言わなかったんだよ……」

 一言で良かったのに。

 もう会えないかも知れない、引越してしまうかもしれない、それだけだとしても。どうして、言ってくれなかったのか。

「希の馬鹿野郎っ……!」

 もう一度拳で地面を叩くと、同時に涙が溢れた。


 ––––あぁ、馬鹿は俺か。


 前々から、希は仄めかしていたじゃないか。

 写真の話をしたら困ったように笑ったり、家に帰るのが早くなったり。進路の話をした時、憂かない顔をしていたじゃないか。

 告白しかけた時だってそうだ。

 俺の言葉を遮って、ひたすら俺への感謝を綴って。自分が応えられない事が分かってて、告白を止めてくれたのかもしれない。“幸せだった”“いつもありがとう”って、そんな言葉までかけてくれたのに。ショックで一杯だった俺は、何も声をかける事が出来なかった。


 希は誰も傷つけまいとして、自分だけ抱えて行ってしまったのだ。せめて一緒に居る時は何も言わずに、楽しく過ごすように見せて。いざ、居なくなる時は何も言わずに。それで残された奴らが––––大樹や瑠花や俺が傷つくのも分かっていただろう。同時に、言ってしまったとしても、きっと俺たちは酷く悲しんだ。

 別れを口に出さなかったのは、珍しく不器用な、希の優しさ。


「ごめんな、希。俺、薄々気が付いていたかもしれないのに、何も出来なかった」

 溢れ出た涙は、アスファルトの上に小さな染みを作っていく。けれどその染みは、乾ききっていない地面の色に直ぐに溶けて消えていった。


 俺は涙を拭って、写真館を見上げた。

 昨日の夕方と変わらない建物が、そこにあった。夏祭りの前、初めて訪れた時とも、ちっとも変わっていない。しかし、そこにはもう希の姿はない。俺たちを優しく見送ってくれた、吉田さんの姿も。

 花壇に満開に咲いた紫陽花の花だけが、寂し気に風に揺れた。


 希は、行ってしまった。


 突きつけられた現実。

 膝を折って地面にへたり込んだままの俺に追い打ちをかけるように、曇天の空からポツリポツリと雨が降り始める。


 ––––俺は、これから、どうしたら。


 その言葉に答える声は、もう側にはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る