第一章 同じ世界を見ている

第一章「同じ世界を見ている」

 「それ」はいつだって私たちのそばにいる。怒りと悲しみを煮詰めたような、どろりとしたおぞましさを湛えて。叶わなかった願いの亡骸を、大事そうに抱えながら。


 私には物心ついた頃からそれが見えていた。そして、これは何かと聞いた時の両親の反応から、それが他の人間には見えていないことも知った。

 普段見かけるそれは、ほとんどが十センチ程度の大きさで、何をするでもなくふわふわと空中を漂っている。顔も手足もない、ぼんやりとした影のようなそれ。でも私には、それが常に苦しみもがいていることを感じ取ることができた。こちらまで胸が痛くなるから、私はそれが嫌いだった。

 二十センチほどに成長すると、大抵人間に敵意を向けてくる。表情があるわけではないが、「自分が苦しい思いをしているのはお前たち人間のせいだ」とでも言うように、恨みがましくこちらを見つめているのが分かった。けれど実際にそれが悪さをするところは見たことがなかった。

 三十センチにもなると、人格を持っている様子が見受けられた。しかし声をかけると逃げてしまうので、結局それが何なのかはよく分からなかった。

 私はそれを長いこと蠅などと同じカテゴリーに入れていた。目の前にいたら追い払うが、わざわざ探し出してどうこうしようとまでは思わない、そんな存在。不気味ではあったが、害があるわけではないので、放っておけばいいと思っていた。


 その認識を改めることになったのは、小学校に上がったばかりの頃のことだ。私はぴかぴかのランドセルを背負って、通学班の子供たちと一緒に下校している最中だった。右方から轟音が聞こえてきた。振り向くと同時に、道路沿いの民家がぐしゃりと潰れた。瓦礫の向こうから、二メートルほどもある大きなそれが私たちを見下ろしていた。

 その闇の濃さ故か、それは他の人間にも見えているようだった。子供たちは立ちすくみ、大人も遠巻きに見ていることしかできず、そして私は、幼心に責任を感じていた。これがこんなに大きくなってしまったのは私のせいだ。私にしか見えないなら、私がどうにかしなければならなかったのに、それを怠ったツケが回ってきたのだ、と。

 だから私は、一歩前へ出て、破れかぶれで体操着袋を投げつけた。後ろから「馬鹿、刺激するな!」という悲鳴のような男の声が聞こえる。

 でも、思った以上にその攻撃は効いたのだ。

「ンアアアアア!」

 それは身の毛もよだつ叫び声を上げて揺らめいていた。もう限界だった。私は吐き気を堪えて声を振り絞った。

「今だ逃げろーっ!」

 私の叫びに驚いたのか、子供たちは弾かれたように駆け出した。私もなりふり構わず逃げた。前を見ると、大人たちが必死の形相で手招きしていた。私たちは保護されて、何とか無事に避難することができたのだった。

 いろいろ大変だったけど、これであの化け物の存在が明るみに出て、政府が調査に乗り出して、私が特別アドバイザーとして頼られちゃったりして、少しずつ事態は好転していくだろう――。翌朝すぐに、そんな考えは甘かったのだと思い知らされることになる。

 私が目覚めた時にはもう、それは負傷者十八名、住家全壊二十四棟、住家半壊八十五棟の「竜巻」として処理されていた。いや、処理というと語弊がある。記録が改竄されたというレベルの問題ではなく、人の記憶も写真の内容も、おそらく歴史そのものが塗り替えられて、本当に竜巻が起こったことになっていたのだ。

 私が怪物の話をしても、大人たちは「大変だったねぇ、怖かったねぇ」と分かったような顔をして頷くだけ。何も分かっていない。通学班の友達にさえ「アニメの見すぎ」と一蹴された。

 でもあれは絶対見間違いなんかじゃない。あの時近くにいた男性はこう叫んだじゃないか、「刺激するな」と。竜巻に対してそんな言い方はしない。やはり、昨日の時点では確かに、他の人間の目にもそれは怪異として映っていたのだ。

 つまりこういうことなのだろう。あの負の感情の塊のような不快な化け物にはいろんなサイズがいて、小さいものは他の人には見えず、大きいものは他の人にも見える。しかし、例え見えたとしてもその場限りのことで、翌日には世界からそれの痕跡は消えてしまい、代わりに他の不幸が起こったことになっている。

 もしかしたら、今まで災害や事故として報道されてきた出来事も、いくつかは――あるいは、考えたくないがすべてが――あいつらの仕業なのかも知れない。

 それが私の「わずかな期間の孤独」の始まりだった。


 私は暇さえあれば化け物を探すようになった。

 見えない何かを探し回る私を、同級生は気味悪がっていたと思うが、別段嫌がらせをされることはなかった。単純に友達がいなくなった。

 まず、頻繁に見かける十センチ程度の小さいそれを触ってみた。陰鬱でじめじめとした雰囲気とは裏腹に、以外と乾いた手触りだった。軽くはたくと、手のひらにパシュンと砕け散るような感触を残してそれは消滅した。気持ち悪かった。

 十センチのやつを一匹一匹潰しているとキリがないので、二十センチのサイズから見つけ次第駆除することにする。こいつもノートか何かではたくだけで消えた。これが一日に十匹くらい。

 三十センチ以上のものは、気配を辿って探してみれば、結構いろんなところに隠れているということが分かった。しかし、見つけ出してもすぐに逃げられてしまう。追いかけっこになると、壁を通り抜けられる相手の方に分があった。一度手提げ袋をぶち当てたことがあったが、一撃では退治できず逃げられてしまった。

 そんなことを続けていたある日、親に友達がいないのがばれた。


「ミカゼちゃん、学校に仲のいい子いないの?」

 保護者面談から帰ってきた母が言った。何だか無性に腹が立った。

「は? お母さんには関係ないでしょ」

「だめよ、ちゃんと周りの子と仲良くしないと」

「……先生に何言われたか知らないけど、私給食当番も掃除もちゃんとやってるし、みんなに迷惑かけたりしてないから」

「そうね、先生も真面目でいい子だっておっしゃってたわ。でも、友達と遊んでいるところを見たことがないって……。もしかして、お外に行っている時もいつも一人?」

「だから何? 友達がいない私はおかしいって言いたいの? お母さんの思う『いい子』じゃないから怒ってる?」

「そうじゃないの、お母さんはあなたのことを心配して――」

「じゃあほっといてよ」

 つっけんどんに会話を打ち切って、私は自分の部屋に閉じこもった。部屋には小さな化け物がたくさんいて、ちりちりと私の胸を焦がした。


 不貞寝から目覚めると、大きなそれが私を見つめていた。

「ひっ……!?」

「あなたはみんなのために頑張っているのにね。好き勝手言ってひどいよね」

 それは私とよく似た声で語りかけてくる。

「お友達がいっぱいいて、親からも先生からも愛されている。そんな子が見ている世界には、きっと化け物なんていないんだろうね」

「何……何なのお前」

「私はあなたの心から生まれたんだよ。だからあなたのことは誰よりもよく知ってる」

 顔があるわけではない。しかしそれは、にこりと笑ったような気がした。

「あなただけが一人頑張らなきゃいけないなんて不公平だよね。あなたが悩むのと同じくらい、のうのうと暮らしている他の人たちにも困ってほしいよね」

「そんなこと……」

 思っていない、とは言い切れなかった。

「毎日忘れられるなら、毎日思い知らせてあげる。私たちはいつでもここにいるってこと」

「え……? 待って、待ってよ!」

 私の制止も聞かず、それはあっという間に壁をすり抜けていった。きっと、街を破壊するつもりなんだ。あの時の、竜巻に匹敵する力を持った化け物のように。

 さっと血の気が引いた。だって今度こそ私のせいだ。

 私は家を飛び出した。母がそれに気づいていたら、絶対に行かせることはなかっただろう。もう夜の八時を回っていて、外は真っ暗だった。


 それは普段見かけるものよりもずっと大きなエネルギーを発していたので、足跡を辿るのに苦労はしなかった。だが、私が駆けつけた時にはもう、大学生くらいの男の人が化け物に捕らえていた。

 その足元には自転車が倒れている。街灯に照らされて、男性と自転車の影は長く伸びているのに、化け物には影がなかった。

「えっ? ええっ!? 何!?」

 男性は事態を飲み込めずにパニックに陥っていた。化け物は――私の弱い心が生み出してしまったというその化け物は、男性の腕に自分の体の一部を纏わりつかせて、ぎりりと絞り上げる。男性は喉を引き攣らせてもがいた。

「やめて!」

 私は半ば悲鳴を上げながら化け物に取り縋り、普段小さなそれをはたくのの何倍も力を込めて殴りつけたが、むしろそれは私の恐れを吸ってますます大きくなったようだった。

 私じゃ止められない。誰も助けてくれない――。絶望が心を塗りつぶしていく。

「もう頑張らなくていいよ。あなたを助けてくれない世界を、あなたが助ける義理はないんだよ。これからは自分の身だけ守って生きていきなよ。そしたら少しは楽になれると思うよ」

 優しげな言葉が、私のちっぽけな勇気を砕く。

「じゃあお兄さん。私のことは忘れても、この恐怖は忘れないでね」


 男性の腕が軋んで、私の心も一緒に折れてしまいそうだったその時。

 一筋の青い光が、化け物の頭部を吹き飛ばした。


 衝撃で男性は投げ出され、私も地面に転がった。

 驚いて見上げると、そこには十代前半の、少年とも少女ともつかない人物が立っていた。

 細い肩にかかる金糸のような髪が、逆光の中で淡く透ける。その顔立ちは国籍を感じさせず、もしかしたらこの世のものではないのかも知れないとも思う。闇を切り裂き突然現れたその人は、どう考えても空から降ってきたのだった。

 その人は武器を下ろした。よく見ると、それは柄だけ伸ばした青い折り畳み傘だった。

「助けに……きてくれた……」

 そう言ったのは、私でも襲われていた男性でもなく、化け物だった。それはエネルギーの塊であって、生物のように器官や急所があるわけではないらしく、形を整えながらもぞもぞとその美しい人に擦り寄っていく。

「あなたはこれからもミカゼと一緒にいてくれるの?」

「そのつもりでこの街に来ました」

「そっか。よかった……」

 化け物は満足げに呟くと、ひとりでに消えてしまった。残された私は、尻餅をついたまま呆然とするばかり。そんな私を、例の人は立ち上がらせてくれた。

「転ばせてしまってごめんなさい。お怪我はありませんか?」

「ううん……助けてくれてありがとう」

 本当に危ないところだった。今でも心臓がバクバクしている。

 男性は自力で起き上がってきた。そして私たち二人をお化けを見るような目で見て、すぐに目を合わせてくれなくなった。一応頭を下げて謝罪したのだが、逃げるように自転車に乗って去ってしまったので、あまり聞いてはもらえなかったと思う。

「明日一緒にお見舞いに行きましょう」

 私の不安を察してか、名前の分からないその人はそう言ってくれた。

「あなたは……?」

「申し遅れました。私はリコ。多分世界で一番『精霊』に詳しい者です」

 リコは可愛らしく澄んだ声をしていて、その口調は子供とは思えないほど丁寧だった。やっぱり天使か何かなのかも知れない。

「精霊って、さっきの化け物のこと?」

「はい。でも詳しい話は明日にしましょう。今日はもうお帰りにならないと。きっとご家族が心配されていますよ」

 私はその場を動かず、リコの外套の袖を掴んだ。

「本当に明日も会ってくれる? あいつは私の心から生まれたって言ってた。そんな私を、リコは気持ち悪いと思わないの?」

 リコはきょとんとしていたが、すぐに微笑み、しゃがんで私の手を取った。

「あの精霊は、あなたの頑張りの証ですよ。今までよく頑張ってくださいましたね」

 一生誰からも評価されることなく、人には見えないそれと戦い続けるのだと思っていた。

 でも、違った。

「もうあなたを一人にはしません。私がついています」

 その人は、私が欲しかった言葉を全部くれたのだ。


 リコは私を家の前まで送ってくれた。

 表札付近で漂っていた小さなそれ――精霊を目で追っていると、リコは急に立ち止まった。

「今、その精霊をご覧になっていましたよね」

「うん……どうしたの?」

 リコの大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれた。

「え!? 何で泣くの!?」

「すみません……」

 リコは慌てて袖で涙を拭う。

「だめだよそんな風にしたら、赤くなるよ」

 肘の布を引っ張って少し腕を下げさせると、涙に濡れた琥珀色の瞳が恥ずかしげに揺れていた。その様子に、年上なのに可愛いなと思ってしまう。

 その言葉は自然に出た。

「私、リコに友達になってほしい」

「……!」

 リコはまだ少し泣いていたけれど、蕾が綻ぶように笑ってくれた。

「私もミカゼさんと友達になりたいです」

「じゃあ、今から友達同士だね!」

「はい!」

 リコが無邪気に喜ぶのを見て、小六が小一と友達になれてそんなに喜ぶものだろうかと思わないでもなかった。この時私は何も知らなかったのだ。どうしてリコが、こんなに嬉しそうだったのか……。

 リコは優しく小さな精霊を撫でた。

「この精霊は、お母様がミカゼさんを心配される気持ちから生まれたもののようです」

「へー、そんなことも分かるんだ」

「さあ、早くおうちの中に入って、無事な姿を見せて差し上げてください」

 私が帰宅すると、母は目を赤く腫らして謝ってきた。家出だと思って泣いていたらしい。叱られなくてよかったと安心していると、母から連絡を受けて私の捜索から帰ってきた父に叱られた。

 食卓には、三人分の夕飯が手つかずの状態で食卓に並んでいた。かなり遅い晩御飯になってしまったが、温め直してみんなで食べた。


 リコ。私と友達になってくれてありがとう。

 もしこの時、あなたのことをもう少し知っていたら、私もこう言ったと思うよ。

 「絶対にあなたを一人にしない」って。

 例えそれが、どんなに重い約束になるとしても。

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