第三章「私の神様」3/3

 ぎし、とベッドが軋む音がして我に返る。

 リコはまだ私の下にいた。一緒に帰ってきてくれたことに安堵するものの、すぐに様子がおかしいと気づく。

「リコ、リコ……!」

 呼びかけても肩を揺すっても反応がない。死んだように眠るその姿はまるで人形のようで、私は怖くなった。

 ただ疲れて眠っているのではなく、今にも消えてしまいそうなほど衰弱している。そうと分かっても、人間の病院に連れていっていいものとも思えなかった。私はリコを、神様のような存在だと思っていたから。

 けれどリコはあまりに幼い。それならリコをこの世に遣わした上位の神がいるはずだと思った。そうでなければならないと思った。そいつがリコを助けにくるべきだとも。

 でも実際には、誰も手を差し伸べてはくれなかった。だから――

「ごめんね、リコ」

 あなたの記憶を覗かせて。

 私はリコの手を取った。よく見ると、目尻にうっすらと涙の跡があった。

 リコの涙を見るのは、初めて会った時以来だ。あれから一度もリコは泣かなかった。泣き言も言わなかった。愚痴の一つさえ聞いたことがない。私に心配をかけまいと気丈に振る舞っていたことは、何となく分かっていた。

 しかし、リコを救うヒントがあるとしたら、もうアカシックレコード以外に考えられない。例えリコの気持ちを裏切ることになるとしても……。

 私は手を通してリコの領域にアクセスする。そう言えば、小さい頃に出来心でリコの記憶を盗み見ようとした時は、表層にブロックがかかっていて『よくできました』というメッセージしか読み取れなかったのだった。リコは「もうそんなことまでできるなんて、ミカゼさんはすごいですね」と笑っていたけれど、この人には全く敵わないと思ったものだ。

 それが今では、意識がないためか、それとも精霊力を使い果たしたせいか、何の抵抗もなく内部まで侵入できてしまった。


 アカシックレコードの世界は、静かで冷たい。

 どこまでも落ちていってしまいそうな、果てしない深淵。

「――!?」

 何、今の。

 あまりの情報量に、思わず手を離してしまう。

 数万年? 数億年? そんなレベルじゃない、気が狂いそうなほど膨大な時間の記憶が、整然と並んでいた。

 呼吸が変になった。心底ぞっとした。だってそんなはずない。宇宙ができてからまだ百三十八億年しか経ってないんでしょう? じゃあこの記憶は何なの?


 ――そして私は、リコが何者であるのかを知った。


 リコは子供っぽいところもあるけれど、年を取らないことを確信してからは、何だかんだで数百年くらいは生きているかも知れないと思っていた。子供というには落ち着きすぎていたから。若い神仏の類であると考えるのが、私にとっては一番自然だった。

 そういう人智を超えた存在は、例え受肉したとしても精神の構造からして人とは異なっており、長い時を生きられるようになっているものだ。そう信じていた。

 蓋を開けてみれば、私が今まで散々神聖視してきたリコの、あの清らかな心身は、十二歳の人間の子供のそれでしかなかったのだ。

 決して失望したわけではない。ただただ打ちのめされた。私は、世界は、今までこんな小さなものに守られてきたのかと。

 リコが年不相応に大人びているのは、長い人生の中で円熟していった結果ではなく、ひとえに特異な出自のせいだった。リコの時間は十二歳の誕生日で止まっている。体も、心も。ただ記憶だけが無限に増大し、リコに新しい思考材料を与える。

 まるでクラウド上のAIのようだと思った。あるいはその在り方は、地球に常駐するセキュリティソフトとでもいうべきものだった。ログはエラーだらけで、リコという存在の異様さをまざまざと見せつけられた。

 でも、そんなになってしまっても、リコはどうしようもないほど人間であり続けている。脳は毎日リセットされるので、博識というより、必要に応じてアカシックレコードから情報をダウンロードできるというだけだ。一度に処理できる情報量も、理解力も、発想力も、人間の域を出ることはない。

 どんなに長い時間を生きても、リコの心は人間のままなのだ。果たしてそれは救いなのか、悲劇なのか。私には分からなかった。

 リコはみずみずしい子供の感性で世界を見ている。何でもないようなことで無邪気に喜び、些細なことにも胸を痛める。道を歩けば石畳の美しさに感嘆し、それを造った職人を想い、その上を歩く通行人のことを想い、彼らの人生を想い、いつかその道がなくなる時のことを想う。それほどの感受性を抱えて、自ら災禍に飛び込んでいく。

 純粋で柔らかい心は、そうして何度もずたぼろになった。

 容赦なく積み重なっていく負の記憶に、リコもそのままでは過去を思い出すたびに壊れてしまうと思ったのだろう。一定以上の苦痛を伴う記憶には閲覧注意マークがついていて、流し読みではその内容が頭に入ってこないようになっていた。

 焦点を合わせると、概要と苦痛の度合いが浮かび上がってくる。

 頭の割れた我が子を見て発狂する母親。

 水を求めながら死んでいく人々。

 目の前で殺し合いが起きたけれど止められなかった、とか。

 これ以上深入りしたら、戻ってこられなくなりそうだった。

 地球が呼吸もできない環境になって、自殺するしかなかった日々を除けば、意外と身体的苦痛に関する記憶は少ない。防御ができないほど消耗した時には、アカシックレコードに記録を残すような余裕もないからだろう。

 戦闘中、災害救助中に途切れた記憶。その先で一体何が起きたのかは、もう誰にも分からない。精霊に殺されるならまだましなのかも知れない。治安の悪い土地に、無力な子供が一人でいたら、ろくなことにならないだろうから。

 きっとリコは、数えきれないくらいの死を経験している。死ぬより酷いこともたくさん……。でも決して、痛みに慣れることはないのだ。悲しみに慣れることも。


 リコを救いたいなら、結局のところ病院に連れていくのが一番だった。多少現代人とは体の作りが違うところもあるかも知れないが、基本的にはただの人間なのだから。

 だが、リコの正体を知った今、そんなことをしてもあまり意味がないということも分かってしまった。他ならぬリコ自身が、自分の命を使い捨ての消耗品だと思っている。

 私が学校に行っている間。友達と遊んでいる間。漫画を読んでいる間。ご飯を食べて、お風呂に入って、明日の準備をして、安心して眠っている間。リコはずっと世界を見守っていて、有事の際には惜しげもなくその身を投げ打つ。リコが来ない放課後は、リコが死んでしまった放課後だったのだ。

 リコは戦い続ける。誰からも心配されず、期待されず。褒められることも、感謝されることもないまま。どんなに傷ついても。何度世界が終わっても。ただひたすら、目の前の幸福を守り続けるために。

 力なく横たわるその人の、乱れ傷ついた姿に、ぞくりとした。

 寂寞に押し潰されそうなその心が愛おしいと思った。

 どこか遠い存在だったリコが、やっと弱さを見せてくれて、嬉しかった。本当は私が無理矢理暴いただけなのだけれど。でも、知ることができてよかった。知るべきことだった。

 そっとリコの手を握る。柔らかくて、小さな手。もう私の方が大きい。

 いつか学校の先生が言っていた。「愛しい」は「かなしい」とも読むのだと。その意味を、今、全身全霊で理解した。

 あなたはやっぱり、私の神様だったんだよ。


 リロードと共にリコは目覚めた。厳密には、死を放棄する直前の状態で再構築された。

 分かってはいたことだが、リコは精霊に跳ね飛ばされた後のことを覚えていなかった。私が戦場についてきたことも、私を逃がすために最後の力を振り絞ってくれたことも。

 何故ここにいるのかと戸惑うリコに、「昨日突然この部屋に戻ってきて爆睡していた」と言ったら、あっさりと信じてしまった。驚いてはいたものの、私が嘘をついているという発想はないらしい。それどころか、まだ早朝なのに起きている私を見て、自分のせいで徹夜させたのかと慌てふためいていた。

「どうか今からでもお休みになってください。私が起こしますから」

「大丈夫、私も寝たって。もう目が覚めちゃった。新聞読む?」

 朝刊の一面は、隣町で起きた「土砂災害」の被害を伝えている。ついさっきまでは経済政策に関する記事が載っていたのだが、リロード時に修正がかかったのだ。

 精霊が災害を起こしても、報道陣が事実関係を確認することは困難である。精霊の姿はカメラで捕らえることができず、化け物を見たなんて目撃証言はにわかには信じがたい。そのため、詳細な情報が出回る前にリロードの時間が来ることがほとんどだ。今回もそうだった。

 リコは静かに新聞を読んでいた。その胸中は計り知れないが、死者が出ている以上穏やかなものではないだろう。

 この流れで昨日何があったのか訊くことは不自然ではない。自分のセンサーの範囲をあえて明かし、「昨日隣町からすごい精霊の反応があったんだけど」と切り出すこともできる。だが前々からそういう質問はしないことにしていた。災害が精霊のせいだったことが分かったところで、リコが救い切れなかった過去を掘り返すことにしかならないからだ。

 それに、リコはまだ私に「知られる」ことを望んでいない。

 メディアは、住民同士が声をかけ合って早期に自主避難したことが、結果的に多くの命を救ったと評価した。

 私は知ってるよ。リコが避難する時間を稼いでくれたこと。リコが精霊を弱らせてくれたから、この程度の被害で済んだってこと。

 みんなはお礼を言いたくても言えないから、私が代わりに言うね。

 今まで助けられた人の分まで。

 ありがとう、リコ。

 いつかきっと言葉にして伝えるから。今はただ、そばにいさせて。


 そんなわけで、私はリコの秘密を知ってしまったけれど、私たちの生活は今までと変わらなかった。

 私は相変わらず普通の小学生をやっている。それは、リコの「ただ一つの我儘」を成就させるために必要なことだった。

 リコは今日もどこかで戦っている。悪を打ち倒すためではなく、悲しみから人々を守るために。正義感ではなく、優しさ故に。

 精霊も、人の悪意も、もしかしたら悲しみそのものさえも、リコにとっては敵ではないのかも知れない。それらはすべて、人間が生きている証だから。

「楽しいお話をたくさん聞かせてくださって、ありがとうございました。また明日伺います」

 リコと話している最中に精霊が現れなくても、出現頻度を考えると次のリロードまでに一体は現れる可能性が高いので、別れ際にはこう言うようにしている。

「また明日。気をつけてね」

 リコはにこりと微笑んだ。

 ああ、そんな何でもないような顔をして、今日もこれから死ににいくの?


 本当にあなたは綺麗だ。


 寝る前に、いつもリコのことを考える。

 誰よりも可愛くてかっこいいリコ。優しくて勇敢なリコ。

 あの冒しがたい透明さを思う。

 今もリコに守られていることを意識する。

 それは祈りにも似た痛みをもって、私の胸を締めつける。

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